2005年 07月 17日 ( 1 )

第七十九則 長沙進歩

c0015568_21482452.jpg

 衆に示して云く、金沙灘頭の馬郎婦、別に是れ精神、瑠璃瓶裏にじこうをつく。誰か敢えて転動せん。人を驚かす浪に入らずんば意に称ふ魚に逢ひ難し。寛行大歩の一句作麼生。

挙す、長沙、僧をして会和尚に問はしむ、未だ南泉に見みえざる時如何。会良久す。僧云く、見みえて後如何。会云く、別に有るべからず。僧、廻って沙に挙す。沙云く、百尺竿頭に坐する底の人、然も得入すと雖も未だ真と為さず、百尺竿頭に須らく歩を進むべし、十方世界是れ全身。僧云く、百尺竿頭如何が歩を進めん。沙云く、郎州の山、れい州の水。僧云く、不会。沙云く、四海五湖王化の裏。
 金沙灘頭の馬郎婦、僧問う如何なるか是れ清浄法身、師日く金沙灘頭の馬郎婦。金沙灘というところに美しい女がいた、魚籃観音の化身であったというんですか、よくお経を読む者に仕えんといって、ついにこれを娶る者あり、即ち門に入って女死すという、あとに黄金の鎖があったなど。観音の化導は他の説法の及ばぬところをもって、別の精神といった、じこうとい、じは滋のさんずいの代りに食、こうは食に恙、あわせて栗餅ですってさ、瑠璃の瓶に栗餅をつく、自家薬籠中の物ですか、世間一般はともかく仏教は別です。百尺竿頭に坐っていては、どうにもこうにもならんです。誰か敢えて転動せん、思い切って空中に身をなげうつ以外にないんです。観音菩薩かごから魚を取り出して売る、寛行大歩の一句ですか、仏教という仏という、なにか別にあるもんじゃないんです。さあ魚を売る如何。長沙は湖南長沙の景岑招賢禅師、南泉普願の嗣、南泉は馬祖道一の嗣、会和尚南泉下伝不詳、南泉に見みえざる時如何、会良久す、なんにも云わなかった、南泉に見みえて後如何、別に有るべからず。たしかになんたるかを弁える、もとこのとおりと云いたかったんですか、南泉とまったく同じですか、どうです。これを百尺竿頭に坐すと云った、一歩を進めよ、十法世界これ全身。この僧不会、さああなたはどうなんですか、郎州の山、れいはさんずいに豊れい州の水、山と川になりおわってごらんなさい、百尺竿頭から墜落すると命ないんです、自分失せてまわりばっかり、ですが死んで忘れられたんじゃない、四海五湖王化裏です。だから仏教なんですよ、ただでも世間のいうただじゃないんです。魚売りじゃなんにもならん。

頌に云く、玉人夢破る一声の鶏、転盻すれば生涯色色斉し。有信の風雷出蟄を催し、無言の桃李自ずから蹊を成す。時節に及んで耕犁を力む、誰か怕れん春脛を没する泥。

 会和尚良久する、威なるかな大慈大悲外道賛嘆して云く、というわけには行かなかった、自分を顧みる、観察したらおしまい、特派布教師などやって来て、威儀をただしていかにもらしくやって来る、一目瞭然なんです、自分という二分裂の、そわそわがさごそ、どうにもしょうがない輩です。宗門に仏教のぶの字もないんですか、だったらいさぎよく葬式稼業観光業に徹すればいい、さっぱりします。玉人夢破る一声の鶏、らしくに徹するところあって、参ずるにはさっぱりやっても来んのでしょう、そこでちっとはいけそうな坊主を使いにやった。南泉は師匠です、未だ見えざるとき如何、仏教を知らなかったとき如何、押し黙るのを見て、仕掛け坊主ひとりでに動き出す、見えて後如何、何かあったかと聞くに、会和尚、別に有るべからずと示す。まさに他なしなんですが、死んでいる、百尺竿頭清水の舞台です、一声の鶏ですか、どかんと墜落木端微塵です、生涯色色斉しという、色無いんですよ、色即是空空即是色とはいいながら、ほんとうのこれを夢にだも見ないんです。有信の風雷、アッハッハ長沙の意ですか十方全身を促すんです、ついに自ずからを知る、たとい泥んこまみれになってです、手前ご本尊乙にすましこんでなんていうの、仏教に関するかぎりはないんですよ。

画像  荒川(東京と埼玉の県境) 2005年春
[PR]
by tozanji | 2005-07-17 00:00 | 従容録 宏智の頌古