2005年 08月 12日 ( 1 )

第八十九則 洞山無章

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 衆に示して云く、動ずるときは則ち身を千丈に埋ずむ。動ぜざるときは則ち当処に苗を生ず。直きに須らく両頭撒開し、中間放下するも、更に草鞋を買うて行脚して始めて得べし。

挙す、洞山衆に示して云く、秋初夏末兄弟或いは東し或いは西す。直に須らく万里無寸草の処に向かって去るべし。又云く、只万里無寸草の処の如き作麼生か去らん。石霜云く、門を出ずれば便ち是れ草。大陽云く、直に這はん門を出でざるも亦草漫漫地。

 青原下五世洞山良价禅師、雲巌曇じょうの嗣、大陽警玄禅師、梁山縁観の嗣、石霜慶諸禅師は道吾円智の嗣、夏はげと読んで制中、三旬安居といって今もそのとおり行なわれるんですが、葬式坊主のお行儀見習いと、でたらめ仏教です、軍隊組織のいじめみたいなことしてます。もはや宗門は滅びたんですか。でもこのころは違います。仏を求め法を求めて、一夏終わるとあいかなう師を探して行脚して行く。そりゃあ師がいいかげんならどうしようもない、師がちゃんと法を継いでいて、しかもかなわぬということあります。臨済も黄檗のもとを去って得る、洞山大師も諸方に遍歴です。青原行思は一宿覚といって、六祖禅師のもとへ一泊して得るんです。動ずるときんば身を千丈に埋ずむ、どうであろうかこうであろうかする、まさにどうもならんです。動ぜざるときは当処に苗を生ず、ではこうだと決め込んだら、雑草生い伸びるんですか、君見ずや絶学無為の閑道人、妄を除かず真を求めずとあります、自分そのものを捨てる、突き放すんです。あるがまんまという、世間常識とはまったく別の世界があります。さあそれを得ようという、すべからく万里無寸草の処に向かって去るべし、万里雲なし万里の天、千江水あり千江の月、はて無寸草のところ、一木一草も生えんところにどうやって行くんだってわけです。アッハッハまあそういったわけです。石霜云く、なにさ門から一歩出れば草生えるってさ。大陽云く、いや門を出ずたって草ぼうぼう。どうですこれ。

頌に云く、草漫漫、門裏門外君自ずから看よ。荊棘林中脚を下すことは易く、夜明簾外身を転ずることは難し、看よ看よ。幾何般ぞ。且らく老木に随って寒瘠を同じうす。将に春風を逐うて焼瘢に入らんとす。

 草ぼうぼうまあ生えるに任せるってことですか、無無明亦無無明尽、草を妄想とするでしょう、すると念起念滅神経シナップスのぽっと出ぽっと消えです、それをとっつかまってどうのこうのやるから際限もないんです、病因無始劫来貪瞋痴という、たった今の自分が引き起こすところを、自分といいどうしようもなさだという、アッハッハお笑い草なんです。たといどうしようもない自分だろうが手かず、念起念滅に任せる、これができたとたんぱあっとなんにもなくなって、坐が坐になります。妄想草たとい自分のものなに一つないです、独創悠々自分流という、どうはっつけ関係ずけってだけのこと。審細に見るには見ればいい、妄想草、はい責任の取りようがないんでしょう、どうですかあなたを救い得たですよ。門裏洞山会下にあって、荊棘林ものみないばらの林です、どうにかしようとて七転八倒も即ち荊棘林です。仏の大まさかり揮って孤軍奮闘ですか。たといどうにかなる、門を出る転身のところ、向下門など態のいいこといって、はたしてそれが役立つか。はらわたまで草ぼうぼうんなっちゃアッハッハ元の木阿弥、しばらく洞山大師老木にしたがって寒風に痩せ、でもってまさに春到って門内あれ七転八倒の焼けあと。万松老人も人が悪いちえ老人組合。
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by tozanji | 2005-08-12 00:00 | 従容録 宏智の頌古