2005年 08月 21日 ( 1 )

第九十八則 洞山常切

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 衆に示して云く、九峰舌を截って石霜に追和し、曹山頭を斫って洞嶺に辜かず。古人三寸、恁麼に密なることを得たり。且らく為人の手段甚麼の処に在るや。

挙す、僧洞山に問ふ、三身の中那身か諸数に堕せざる。山云く、吾れ常に此に干ひて切なり。

 九峰は道虔大覚禅師、石霜慶諸の嗣、曹山本寂禅嗣は洞山良价の嗣、舌を截る、思想分別人の舌を截るんです、でなきゃ仏教は始まらん、頭を斫る、よく首のもげたお地蔵さまのように坐れという、思い込み坐禅ではない、けつの穴まで虚空と遊ぶ、これ就中手間暇かかりますか、というのも思い込みのたが外れない、ぶったたかれぶったたかれして、まあわしら並みの人間は、そんなふうでようやくちったあ頭落ちるんです。洞山悟本大師は雲巌曇晟の嗣、曹山ともに曹洞宗の開祖。三身というのは、法身報身応化身に別ける、別段そんな必要はない、舌先三寸の辺のこったな、諸数というのも、仏身には三身四身とか三十二相八十種なと、いずれひま人の数え出した種々あるわけです、するとそれに捉えられて四苦八苦する、即ちこの僧それら数量に堕さぬ真法身を問う、洞山云く、吾常にここにおいて切なり、はいと応じたわけです、もと数量に堕せぬことを知ればいい、知ればいいただそれだけが、なかなかどうしてってことあります、常にただこれ。

頌に云く、世に入らず、未だ縁に従はず。劫壺空処に家伝有り。白蘋風は細やかなり秋江の暮れ、古岸舟は帰る一帯の煙。

 世に入らず縁に従わず、肉食妻帯しようとも選挙に行こうともです、出家まさに他なく、一身因果必然の中にただこうあるだけ、愛するものたといあっても、手をさしのばすに千里の向こう、劫壺空所に家伝あり、これが七通発達を家伝に例えるわけですか、洞山云く、吾常にここにおいて切なりと、自分の母親が布施して徘徊して歩くのにも、敢えて会うことをしなかった洞山大師です、母親が死んでその貯えをもって雲衲に供養したという、ゆえにもって極楽浄土に行くと、まったく他なしのこと。むかしはさすがにというのではなく、わずか一柱坐るのが坐になるかならぬかということです。世に伍し縁に従うあれば、すでに済々坐から遠い、太虚の洞然たるとは行かないんです、わかりますかこれ。座禅と見性という、お悟り資格でもなければ、なんの技術でもないこと、白蘋まずは秋草です、細やかに秋江の暮れ、古岸に舟は帰る一帯の煙と、たとい風景もおのれのものにはならんのです。よくよく保任して下さい。
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by tozanji | 2005-08-21 00:00 | 従容録 宏智の頌古