2005年 08月 23日 ( 1 )

第百則 瑯や山河

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 衆に示して云く、一言以て邦を興すべく、一言以て邦を喪すべし。此の薬又能く人を殺し亦能く人を活かす。仁者は之を見て之を仁と謂ひ、智者は之を見て之を智という、且らく道へ利害甚麼の処にか在る。

挙す、僧瑯やの覚和尚に問ふ、清浄本然云何ぞ忽ち山河大地を生ず。覚云く、清浄本然云何が忽ち山河大地を生ず。

 瑯や(王に邪)山の開化広照禅師、汾陽善昭の嗣、一言もって国を興し、一言もって国を滅ぼす、これ仏の尋常世の常ですか、たとえじゃなくて実際にこういう感覚ですよ。そうして活殺自在、象王行く処狐狸の類は姿を消すんです、もっとも聞く耳持たない右往左往がいっぱいですか、そりゃ別にかまわんです、服と不服とか医の科にあらず、まずもって転法輪あって、かなわずばまたの機会です、ほかどうしようもないし、匙投げるってことあって、こっちのとやこうじゃない、相手の大損です。せっかく出会っていながらそっぽを向く、なんたる不幸。仁者は之を見て之を仁といい、智者は智を見て之を智という、はいその通りこの通りすりゃいいです。北朝鮮みたいやつがいて、まあどけちのとんでもないことをする。損をするのは向こうなんです、どんなに怨みを買い不都合ですか、しかも会うべき人に会えず、智恵をも見ずとは、いかにも情けないです。もとより因果必然は、旧日本軍などのしでかしことですか、今に中国が同じことをしているってわけですよ、お笑いっちゃお笑い。清浄本然とはもとかくの如くにある、赤ん坊のまっさらに見る、いえ無眼耳鼻舌身意。われのうしてある世界です。妄想執念が風景になって見えるのですよ、そいつが落ちる、架空請求の自分というなしにある、これを清浄本然と云った。一切世間皆如来の顯現などいい、また山河大地を有為の諸相と云った。すればそれに捕らわれるんです。清浄本然忌という三十三回忌弔い納めとか、すなわち自分という形骸がすっからかんになったということですか。故に以て問ふ、清浄本然いかんが忽ち山河大地。これに応じて覚和尚、清浄本然いかんが忽ち山河大地。

頌に云く、有を見て有とせず、翻手覆手。瑯や山裏の人、ぐ曇の後へに落ちず。

 有を見て有とせずとは、清浄本然としてどうしてもなにものかあると思うんでしょう、そのまんま扱っては、あると思うそいつが外れない、間髪を入れず清浄本然と返すんです、翻手覆手、掌を返すようなという、あれっと気がついて自分という架空請求が失せる、忽然大悟という、清浄本然のまっただなかです。ぐ(口二つにふるとり)お釈迦さまです、瑯やというのは地名ですが、両方とも玉なんでしょう、瑯や山裏の人、まさにこの手段あってお釈迦さまにもひけを取らずというわけです。

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by tozanji | 2005-08-23 00:00 | 従容録 宏智の頌古