2006年 01月 04日 ( 1 )

第四十章

第四十章

第四十祖同安丕禅師、雲居有時示して日く、恁麼の事を得んと欲せば、須からく是れ恁麼の人なるべし。既に是れ恁麼の人なり、何ぞ恁麼の事を愁えん。師聞いて自悟す。


師は即ち雲居に参じて侍者と為りて年をふる。有時雲居上堂して日く、僧家言を発し気を吐く、須らく来由あるべし。等閑を将てすること莫れ。這裏是れ甚麼の所在ぞ、争か容易なることを得ん。凡そこの事を問う、也た須らく些子好悪を識るべし。乃至、第一将来すること莫れ。将来すれば相似ず。乃至、若し是れ有ることを知る底の人ならば、自ずから護惜することを解すべし。終に取次ならず、十度言を発し九度休し去る。甚麼としてか此の如くなる。おそらくは利益なからん。体得底の人は、心臘月の扇子の如し。直に得たり、口辺ぼく(酉に業)出ることを。是れ強いて為すにあらず、任運是くの如し。恁麼の事を得んと欲せば、乃至何ぞ恁麼の事を愁えん。恁麼事即ち得難きこと、此の如く示すを聞きて、師乃ち明きらめ、終に洪州鳳棲山同安寺に住す、道丕禅師なり。あるとき学人問う、頭に迷いて影を認む、如何が止まん。師日く、阿誰にか告ぐ。日く、如何して即ち是ならん。師日く、人に従いて求めば即ち転た遠し。又日く、人に従いて求めざる時如何。師日く、頭甚麼の処にか在る。僧問う、如何が是れ和尚の家風。師日く、金鶏子を抱いて霽漢(天空)に帰る。玉兎(月)胎を懐きて紫微(天帝の座)に入る。日く、忽ち客の来るに遇はば、何をもって祇待せん。師日く、金菓早朝に猿摘み去り、玉華晩れて後鳳ふくみ来る。言を発し気を吐く、すべからくこれ来由あるべしと、いたずらに為すことなかれと。当時もまた禅家風だの、機横溢だのそれらしい風と、本来を取り違えることがあったんでしょう、禅という別にあるもの、大悟徹底という化物です、今に至るまで別誂えに、人生を費やす、聞いたふう見たふうの雑多です。這裏これ何の所在ぞ、目を覚ませというんです、容易の感を為すことなかれ、本当本来です。おおよそこの事を問う、廓然無聖です、知らないんです、個々別々、すべからく些子好悪を識るべし、第一義如何ではなく、もとまったくの手付かず、将来すれば、何事か用い来たれば相似ず、たとい仏の言葉でもですよ。若しこれを知る人自ずから護惜することを解すべし、そりゃそうなんですよ、たとい傷口のように痛むと云うと叱られるか、もとのありようこれ、終に取り次ぎならず、十度び発して九度び休し去る、なんとしてかかくの如くなる、強いてなすにあらず、任運かくの如し。まさにこの通り、どうしようもないです。しかも本則実に適切、恁麼の事を得んと欲せば、すべからく恁麼の人たるべし、恁麼という挙げてぜんたい、自分という内も外もです、あれこれなくって急にです、するとどうしてもそうなろうとする、既にこれ恁麼の人なり、突き放して下さい、もとこうあるっきり、とやこういいの悪いの全生涯ですよ、ただもうそのまんま、あるもないもないんです、何ぞ恁麼の事を愁えん、師大悟す。

空手にして自ら求め空手にして来たる、本無得の処果然として得たり。

なんでこれができないかという大問題ですか、大問題にもなんにもならぬものこれ、時節因縁ですか、いつだって常に自ずからに熟す、自ずからというもの不要の故に。

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by tozanji | 2006-01-04 00:00 | 伝光録