2006年 01月 07日 ( 1 )

第四十三章

第四十三章

第四十三祖太陽明安心大師因みに梁山和尚に問ふ、如何なるか是れ無相の道場。山観音像を指して日く、這箇は是れ呉処士の画なり。師進語せんと擬す。
山急に索めて日く、這箇は是れ有相底、那箇か是れ無相底。師言下に於て省有り。


師諱は警玄、十九にして大僧となり円覚了義を聞く、遂に遊方して初め梁山に到りて問ふ、如何が是れ無相の道場。乃至省悟あり。便ち礼拝して立つ。山日く、何ぞ一句を道取せざる。師日く、道ふことは即ち辞せず、恐らくは紙筆に上らん。山笑いて日く、此語碑に上せ去ることあらん。師偈を献じて日く、我れ昔初機学道に迷い、山水千山見知を覓む。今を明め古を弁じて終いに会し難く、直ちに無心と説くも転た更に疑う。師の秦時の鏡を点出するを蒙り、父母未生の時を照らし見る。如今覚了して何の得る所ぞ、夜烏鶏を放ちて雪を帯びて飛ぶ。山日く、洞山の宗よるべしと。山没して太陽に到り、洞山一宗盛んに世に興る。師神観奇異威重あり、児稚の時より日にただ一食し、自ら先徳付授の重きを以て足しきみを越えず。脇席に至らず、年八十二に至って猶かくの如し。対にしん座して衆を辞し終焉す。
呉処士というのは唐代の画聖、観音さまの絵を指さして、師進語せんと擬す、だからどうなんだ、たとい画聖の絵だろうが、迷あり悟あり、黒白あいまってたとい山水千山の見知云々というんでしょう、すべてをぶっつける、即ち一箇そのものにならんけりゃ、聞こうにも聞けない、転た更に疑うんです、そいつを秦時の鏡、これまあなんか来歴あるんでしょう、秦時のたくらくさん馬鹿ですれてる、虎の欠けたるが如くです、そいつを梁山の宝鏡三味が見事に映す、這箇はこれ有相底、那箇かこれ無相底、ついにぶち破る、脱するんです、如今覚了しなんの得る所ぞ、夜烏鶏まっくろい鳥が雪を帯びて飛ぶ、黒漆のこんろん夜に走るんです。おうと云えばさらに宇宙ぜんたいです。道えば有相になる、紙筆に上らんという、わずかにひっかかる、後遺症とまではいかんですが、あっはっは紙筆どころか石碑になるぞといって払拭する。まあそういったこってす、もう一つの大切は、洞山によるべしという、曹洞宗この我が宗です、通身帰依によってのみ成立するんです。これ独立独歩。

円鑑高く懸けて明らかに映徹す、丹かく(蠖の虫でなく舟)美を尽くして画けども成らず。

まあこれ梁山から伝わった宝鏡三味ですか、丹かく、朱けのそほ舟じゃなくって赤い飾り舟、美を尽くすわけです、描けども成らず、わしは歌人であって、万葉を復活させたんですが、だれも知らん顔している、あっはっは世間のほうが間違いで、どこにも歌なんかない、ありゃ字面だけの伸び切ったうどんだってな、でもさそれはともかく、どんなにいい歌作ったろうが、風景そのもの、生活感情にはまったく及ばない、歌を作るは別ものってこってす、そいつもまた面白いからってだけの、一木一草空の雲もまあそれっきりで死んじまうほどの、いえ何万生もの人生を超えって、どう云ったってどうにも届かぬ、わしが雲水よりもよう坐るのはこれ、実際とはこれ。何ものも断じないんです、美を尽くすだのものを成すだの、けちなこと云わない。

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by tozanji | 2006-01-07 00:00 | 伝光録