カテゴリ:提唱心経( 11 )

十一、故説般若波羅蜜多呪即説呪白羯諦羯諦波羅羯諦波羅僧羯諦

十一、故説般若波羅蜜多呪即説呪白羯諦羯諦波羅羯諦波羅僧羯諦

だからとやこうは云わない、莫直去です、さあおやりなさい、渡りなさい、彼岸に渡って下さい、わたっていなさい、行っておしまいなさい、がていがていはらそうがていという、英語のハブゴ-ンツウ、あるいはハブビ-ンツウですか、そうですよ、他に云うこたないんです、仏教思想だの哲学だのいう、学者や説教坊主の飯の種です、そんなものもとっこないんです、たといあったとして、なんになります、自救不了、うるさったい、邪魔になるっきりですよ。

仏教にくわしい人の話を聞いてやる、あほくさっていったいこれなんぞ、他のためにする坊主がまあ。

菩提薩婆訶般若心経、それを修菩薩行、菩提の心与麼に長ずと、まさにこれを得て下さい、はい、これ本来心のありようです。


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画像 鳩に餌を与える老婆と少女 静岡市の常磐公園にて:撮影2004年8月29日
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by tozanji | 2005-09-10 00:00 | 提唱心経

十、故知般若波羅蜜多是大神呪是明呪是無上呪是無等等呪

十、故知般若波羅蜜多是大神呪是明呪是無上呪是無等等呪

ゆえにぱ-らみ-た-彼岸に渡ることを知るは、これ大神呪まったく他にはない、呪とはお経を唱える真言とかじゃないんです、自らに行なえ、具現せよ露わせということです、完全です明白この上なし、比べものなし、他のものの比ではないというんです、はいまったくそのとおりです。
単純この上もなし、彼岸にわたれ、もと来た道を引き返せ、自分という架空請求を免れなさい、本来あるがようの他になく、何も付け足さない、もって、

能除一切苦真実不虚、一切の苦しみを除き、真実摩尼宝珠、いずれの処にか塵芥を及かん。


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画像  鳩に餌を与える老婆 静岡市常磐公園にて:撮影2004年8月29日
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by tozanji | 2005-09-09 00:00 | 提唱心経

九、三世諸仏依般若波羅蜜多故得阿耨多羅三藐三菩提

九、三世諸仏依般若波羅蜜多故得阿耨多羅三藐三菩提

三世の諸仏はぱ-らみ-た-彼岸に渡るが故にあのくたらさんみゃくさんぼだい無上正当菩提を得る、そうですよ、だからお釈迦さまも、達磨さんもあなたもそっくり同じです、寸分違うことなし、思想哲学心して狭き門より入れ等の宗教に拠らんのです、いんでいびじゅあるではない、それを容れる器の問題です、独坐大雄峰という、一箇こうあるっきりなんです、白雲去来すれども泰山動ぜず、他なしにまさにこうあるんです。
眼横鼻直にして他に瞞ぜられず、一宗の特徴としてまったく他にはないんです、まったく平和なんです、平和といって戦争をしない、真実といってものをねじ曲げない、目的の為には手段を選ばないをしない、差別区別時代の相違等ない、無門関もと入りっきりです、これを知るか、知らずにいるかだけです。
それゆえに仏祖広大の慈門を開き置く。
水の中にあって渇を求める惨めさ、悔しさを。


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画像  静岡市 常磐公園の噴水と少女:撮影2004年8月29日
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by tozanji | 2005-09-08 00:00 | 提唱心経

八、依般若波羅蜜多故

八、依般若波羅蜜多故

心無け礙彼岸に渡りきって、心という無心でしょう、自分の取り柄がないんです、自分という架空請求、もと彼岸です、ぜんたいのものをよこしまにしていた、明け渡せばけい礙無しです。
彼岸に渡れば、彼岸が此岸です、坐って坐り抜いてこれを得たならば、汝これを得たりよろしくよく保護すべし、銀椀に雪を盛り、明月に鷺を蔵す、類して等しからず、混ずる時んば処を知る、よくよくまた坐って下さい、彼岸此岸就中そうは問屋が卸さないってことありますよ、即ちようやく修行の途に就いたんです。

無け礙故無有恐怖恐怖が自分という思い込みであることを知る、これ目安になりますか、悟ったというのなら、真夜中の山中に一人きりとか、アッハッハ試してみりゃいいですか。

遠離一切顛倒夢想究境ねはん一切の顛倒夢想を遠く離れ、究境にいるば-なねはんである。
主客転倒、主である自分が客である思想に平身低頭ですか、共産主義だの宗教だの哲学だ歴史だ科学だ真実だという、その奴隷になって走り回っています、これを声色の奴卑と馳走すと云う。
これを遠く離れること=仏教です。
殺し文句を使い、あるいは思想の交通整理、いいことはいいから行なえ、信じろという、それは同じ奴隷のうち、せいぜいが気違いを作るだけです、集団気違い=人類史ですか。
自分という自縄自縛の縄即ち顛倒夢想を離れる=自分失せる=にいるば-ななんです、仏に帰るほどけば仏。


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画像  常磐公園から青葉公園(青葉通り)を望む。写真奥・正面の建物は静岡市役所:撮影2004年8月29日
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by tozanji | 2005-09-07 00:00 | 提唱心経

七、無苦集滅道無知亦無得四

七、無苦集滅道無知亦無得四

苦諦というんでしょう、お釈迦さまが王舎城の四つの門を出るのに、生老病死の四つの苦しみを見る、実にこの世は苦である、一切が苦の諸相であり、これを滅するための工夫であり、その為の諸宗であり、道です。
そんなものはない、不必要であるのは、たとい七転八倒も無、真正面に向き合うだけです、するとないんですよ。しかも知にもあらず、得るにもあらず、大虚の洞然として明白也、もとこの通り、かすっともかすらんです。

以無所得故菩提薩た無所得の故にぼ-でぃさっとば、修菩薩道ですか、これがどうしてもわからない。あの大趙州でさえ、十八歳に見性してしばらく悶々としている、ついに南泉に問う、如何なるか是れ道、南泉云く、道は知にもあらず不知にもあらず、若し本来を見ば、太虚の洞然として云々と是れを示す、そうかといって徹底するんです、仏という道という何かあると思っていた、求めるからに得られるもの、そうではないというんです、

苦しみを説き終末を説きする、あるいは民族の不幸を云い、選良を云い、だから神を信じろ、救いを待て、戦い抜け、耐えろという、今の新興宗教も同じです、一人仏教だけがこれを免れる、智恵です、まったく他の諸宗とは関係がない、諸宗といういずれ同じ穴のむじな、よさそうであるほどに危険なんです、知慧、般若波羅蜜多ぱ-らみ-た-彼岸にわたる実知慧です。


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画像  鳩に餌を与える老婆:撮影2004年8月29日
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by tozanji | 2005-09-06 00:00 | 提唱心経

六、無無明亦無無明尽

六、無無明亦無無明尽

無明もなく無明の尽きることもなし、仏教以外にこれを云い得るはなく、無明妄想迷いです、ぱ-らみ-た-かくの如くに開示すると、まったく無明失せて太虚の洞然として明白という、乱雲消えてすっきり大空ですか、だったらなんで無明の尽きることなしという、悟り終わって思想観念まったく同じなんですよ、それもと個人のものじゃないです、一個の上に去来する種々雑多ですか、それを取っ捕まってこんぐらかりこんぐろまりっとしないだけなんです、無心とは脳死ではない、妄想が起こらなくなったんじゃない、まっただ中にあって無心なんです、これをだれあって知らない。

君見ずや絶学無為の閑道人、妄を除かず真を求めず、はいこれができますか、たいていの人妄想を排除し、真実を求める、これこのものが真相であり、まさにどっぷり浸けを知らない、もとこのとおりを200%使う以外に道はないんです、これを知るを大悟徹底すという。

オウムのように妄想はいかん、悪いやつはサリンを撒いて殺せをしない、キリスト教他、オウムの比ではないことをさんざんやって来た、どういうことかというと、是非善悪による独善です、一多の際です、いいことしい、選良という、つまりまったくの邪教なんです、他の諸宗また目くそ鼻くそ。

乃至無老死亦無老死尽老いて死ぬもともなく老いて死ぬことの尽きることもなし、自分というわしなんぞ三つのがきの自意識ですか、しかも七十じっさの耳は遠くなる足腰痛む、そのうち棺桶です、でもって若いおねえちゃんだ-い好きってわけです、どうしようもないですな。

あなたはだあれ、知らないと花は答える、達磨さんとまったく同じ、それゆえ花は見れども飽かぬ、もし花がわたしは菊で、くだまきという、いつだれが植えて肥やしはどうで、日照時間は云々、品評会に三等、上を見れば切りもなし、下を見れば切りもなし、まあこのへんでなと云い出したらそれっきりです、人間の知っているという、嘘です、醜いんですよ。
でなきゃ秦の始皇帝のように不老長寿の仙薬ですか。


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画像  清水公園で鳩に餌を与える少女と老婆:撮影2004年8月29日
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by tozanji | 2005-09-05 00:00 | 提唱心経

五、是故空中無色無受想行識空中

五、是故空中無色無受想行識空中

自分なくものみな放てば掌に満つるんです、彼岸に渡りきってみると、目にうつるものみなが無、ないんです、それを受ける目もなく、たといどのような想念も無、妄想滅多矢鱈という、それを観察するものがないとき、まったく無ないの実感です、行ない識別もまた同じ、有ると無いと、生と死と別段なんのへだたりもない、父母未生以前と云われる、生まれ本来の風景です。

一年365日夢という、実際であればあるほどに夢。100%生きると夢、はたしてあったのかなかったのかというほどに、幼児の記憶がないのはむしろこれです、記憶記述とはあるいは傍観脇見運転ですよ。

無眼耳鼻舌身意無色声香味触法たった今も正にこの通りであることを確かめる。目がないという、あるではないか、どこに、ここにという、でもそれはそういう知識なんです、目がある、どこにあると認知する感覚器官はない、目で見る、見ているこっちと見られる向こうを区別することも不可能、耳鼻舌見意また同じです、習い覚えてこれを知る、つまり観念生活です、すると実際の生活とかけ離れる、どうもあんまり面白くない、どっちらけるということが起こる。
光前絶後事玉露浮於宙、悟り終わって露の玉のように宙に浮かぶというんです、無眼鼻耳舌身意ならば空中にぽっかり浮かぶほどに、内外なく世界宇宙ぜんたいがわがものであるはず。
我と有情と同時成仏という有頂天の喜びです、いえ天上も大地も底抜けですよ。

うんではそれはわかった、だが無意はなぜだ、意が無い、なければ脳死か発狂だ、そうです、無いとは意は一つ、心は一つだからです、一つが一つを観察すること不可能、だからないんです、これを無心、心が無いという、ないものは決して疵付かない、これを金剛不壊と云った。

意ないし心があると思う、念起念滅するその残像を追う、幽霊なんです、あらゆる悩み苦しみは、もとないものを追う、幽霊にたぶらかされるからです、人はあるものには悩まない、ないものに悩む、けりを付けようとすると、見えなくなるからです。

無色声香味触法無眼界乃至無意識界よって色声香味触法について確かめてみて下さい、体をつねる、どこをつねっているかわからない、痛いという言葉あるいは概念がないと、しばらくどういうことか、等等です。

峨山紹碩活埋境、峨山禅師あるときの臘八に、成ずるになんなんとする者十名を選び、足下に穴を穿ち、若し成ぜずんば生きていても仕方がない、生き埋めにすると云った。十名のうち九人は行く、一人がどうしても行かぬ、生き埋めにされちゃかなわんと云って、逃げ出した、途中石につまずいて生爪を剥がす、痛いことは激痛が、どこが痛いか解らない、身心失せて悉皆成仏です、まさにほんとうに一つことになった、無心、無眼界乃至無意識界を手中にする、のちのこれ通幻寂霊禅師。


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画像  静岡市葵区 音羽の滝:撮影2004年8月29日
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by tozanji | 2005-09-04 00:00 | 提唱心経

四、舎利子是諸法空相不生不滅不垢不浄不増不減

四、舎利子是諸法空相不生不滅不垢不浄不増不減

しゃ-りぷとらよ、かるがゆえに諸法は空相であり、生ぜず滅せず垢れず浄らかならず増えも減りもしない、はいまったくこの通りです、とやこう理屈つけたってなんにもならない、実際です、実感として味わって下さい、味わい趣味のものではなく、そういう自分が失せてはじめて現ずる。諸法という法として別にあるものではない、見るもの聞くもの触れるものみなです、それのありようです。空とはどういうことか、自分という架空請求がないということ、空という別個あったら空にならない。

雪舟の絵がこれを正確に再現しています、参考にどうぞ。もっともおのれ開示する以外方法はないんです、自分を始末せずに取り扱っても騒がしいだけです。



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画像  静岡市葵区 音羽の滝:撮影2004年8月29日
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by tozanji | 2005-09-03 00:00 | 提唱心経



舎利子しゃ-りぷとらお釈迦さまの十大弟子のお一人という、なにもとはわしらと同じぼんくらです、三蔵法師はうまく訳していますよ、校舎の舎利益の利子は人です、てめえとてめえの家の利益ばっかり考えているおまえさんよ、
色不異空空不異色此岸自分というもとないものを中心にして見るを色という、その敷居を一歩跨いでごらんというのです、せせこましい我利我利を抜け出ると、広大な世界色によらぬ空が広がっているではないか、初めて精一杯深呼吸もできるよ、でもって振り返って見ると、我利我利亡者の巣なんてなかった。

お釈迦さま明星一見の事があるんでしょう、我と有情と同時成道、これが色不異空と知り、空不異色と省みる、初体験です、ほかの方法はないんです、自分というものがまったく失せて、ものみなです。

大死一番大活現成といい、至りえ帰り来たって別事なし、花は紅柳は緑。という感動。

色即是空空即是色能くこれを保任せよという、それによっての生活認識があるんです、これは十牛の図のたとえに似ている、色即是空と空即是色と同じではないんです、仏教に囚われることあっては、本来人ではない、自由の分がないんです、しかも仏教以外にしるべはない。

死んで死んで死にきって思いのままにするわざぞよき

受想行識亦復如是ものみな一切またかくの如し、こんぐらかりこんぐろまりっと、思想執念として、あるいは一般あるいは歴史哲学等、重くのしかかっていたそやつが、雲散霧消する、自分というこんぐらかりこんぐろまりっとがない。無心であり無身です、色即是空とはこれ。


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画像  静岡市葵区にある清水公園の滝/音羽の滝:撮影2004年8月29日
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by tozanji | 2005-09-02 00:00 | 提唱心経

二、観自在菩薩自在に観る菩薩

二、観自在菩薩自在に観る菩薩

なんの囚われもなく見てごらん、赤ん坊のようにまっさらに。
菩薩とは、我をなげうってほかの為にするあれば菩薩、人みな菩薩。
向上心とは何か、自分という架空請求=よこしまを捨てる行です、そのほかにはないんです。
意味のない人殺しや趣味お宅の殺人など、こういう連中も菩薩になりうるんですか、はい菩薩になる時に、死をもって償う必要があります、人間自分だけじゃなんにもならんことに気がつく、そこからです。名なしの2チャンネルほか、人格以前おむつを取り替えて貰いながら文句を云っている、まずもってそれを糾すこと。

行深般若波羅蜜多時ぱ-らみ-た-彼岸に渡ることを深く行ずる時、坐禅見性です、自分を明けわたすことは、思想観念上ではできない、思い観ずる自分が関わるからです。念起念滅、ぽっと出ぽっと消える、念想観に関わらぬことを学ぶ必要があります。
思想の内容を問わぬこと、たいていの人これができない。すると仏教入門にはならない。是非善悪の子です。
他の諸宗との違いこれ、いいことしいをやらない、同じ羽根の鳥を集めない、独善ではない、人間だけが選良ではないことを知る。
すべての迷い、人間の一切事諸問題が、念起念滅するその処置のみにあるということ。
ぱ-らみ-た-の法はここにおいて成立する。
深く行ずるとは忘我です。
意識する物心つく以前にいったん立ち返る。
念起こって再び立ち返る、このときに自分という架空請求が、どこでどうして起こったかを知る。
迷いのもとと本来のありようを知る、一瞬に知る、これが仏教です。
この宗毫末なれども一切沙界含容すと、他に仏教というものはないんです。

あると思っているのは嘘です、ただの噂話ですか、仏とは云えない、これをよく見ることです=観自在菩薩。

照見五蘊皆空すべては思い込みであったと知って、色受想行識の五蘊、べつに難しいこと云わんたっていいです、色は外界の目に見え聞こえするもの、受はそれを覚知する、想い行ない識別する、まあ一切合財ですか、思想信仰歴史だの哲学だのこんぐらかりこんぐろまりっとです、仏教的認識がどうのって詮索したってしょうがない、すべてこうあるってだけでいいです、それが皆空、有ると思い込んでいただけであった、自己という架空請求の生い立ちです、な-んだもとない、去来するだけだったというより、ほんとうに無いんです。
ないものには悩まなくていい、自分という砂上楼閣、自分という=五蘊こんぐろまりっとの亡霊です、我と我が身をどうしようか、世間社会はという、ああそんなものまったくなかったんですよ、たといこれを知らなければ救いはないです。
すべては根無草。

度一切苦厄苦しみ厄介ごとはもと初めからなかったんです。はい仏教のすべてがこれ。
如来来たる如し、ものみな真正面、すなわち無し。


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画像  静岡市葵区にある清水公園の水車:撮影2004年8月29日
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by tozanji | 2005-09-01 00:00 | 提唱心経