カテゴリ:従容録 宏智の頌古( 100 )

第百則 瑯や山河

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 衆に示して云く、一言以て邦を興すべく、一言以て邦を喪すべし。此の薬又能く人を殺し亦能く人を活かす。仁者は之を見て之を仁と謂ひ、智者は之を見て之を智という、且らく道へ利害甚麼の処にか在る。

挙す、僧瑯やの覚和尚に問ふ、清浄本然云何ぞ忽ち山河大地を生ず。覚云く、清浄本然云何が忽ち山河大地を生ず。

 瑯や(王に邪)山の開化広照禅師、汾陽善昭の嗣、一言もって国を興し、一言もって国を滅ぼす、これ仏の尋常世の常ですか、たとえじゃなくて実際にこういう感覚ですよ。そうして活殺自在、象王行く処狐狸の類は姿を消すんです、もっとも聞く耳持たない右往左往がいっぱいですか、そりゃ別にかまわんです、服と不服とか医の科にあらず、まずもって転法輪あって、かなわずばまたの機会です、ほかどうしようもないし、匙投げるってことあって、こっちのとやこうじゃない、相手の大損です。せっかく出会っていながらそっぽを向く、なんたる不幸。仁者は之を見て之を仁といい、智者は智を見て之を智という、はいその通りこの通りすりゃいいです。北朝鮮みたいやつがいて、まあどけちのとんでもないことをする。損をするのは向こうなんです、どんなに怨みを買い不都合ですか、しかも会うべき人に会えず、智恵をも見ずとは、いかにも情けないです。もとより因果必然は、旧日本軍などのしでかしことですか、今に中国が同じことをしているってわけですよ、お笑いっちゃお笑い。清浄本然とはもとかくの如くにある、赤ん坊のまっさらに見る、いえ無眼耳鼻舌身意。われのうしてある世界です。妄想執念が風景になって見えるのですよ、そいつが落ちる、架空請求の自分というなしにある、これを清浄本然と云った。一切世間皆如来の顯現などいい、また山河大地を有為の諸相と云った。すればそれに捕らわれるんです。清浄本然忌という三十三回忌弔い納めとか、すなわち自分という形骸がすっからかんになったということですか。故に以て問ふ、清浄本然いかんが忽ち山河大地。これに応じて覚和尚、清浄本然いかんが忽ち山河大地。

頌に云く、有を見て有とせず、翻手覆手。瑯や山裏の人、ぐ曇の後へに落ちず。

 有を見て有とせずとは、清浄本然としてどうしてもなにものかあると思うんでしょう、そのまんま扱っては、あると思うそいつが外れない、間髪を入れず清浄本然と返すんです、翻手覆手、掌を返すようなという、あれっと気がついて自分という架空請求が失せる、忽然大悟という、清浄本然のまっただなかです。ぐ(口二つにふるとり)お釈迦さまです、瑯やというのは地名ですが、両方とも玉なんでしょう、瑯や山裏の人、まさにこの手段あってお釈迦さまにもひけを取らずというわけです。

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by tozanji | 2005-08-23 00:00 | 従容録 宏智の頌古

第九十九則 雲門鉢桶

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 衆に示して云く、棋に別智あり、酒に別腸あり。狡兎三穴、猾胥万倖。箇のこう頭底あり、且らく道へ是れ誰ぞ。

挙す、僧雲門に問ふ、如何なるか是れ塵塵三味。門云く、鉢裏飯、桶裏水。

 雲門文偃禅師は雪峰義存の嗣、将棋ですか碁ですか、どっちでもいい別智あり、馬鹿みたいのにころっと負けたりします。酒は別腹ですか、飲めるやつと飲めないやつ、狡猾を兎と胥は猿ですとさ、二つに振り分けた、兎には三つの穴がある、万倖人間の仕損じをもののけの倖とするとある、まあそういったこってすか。そうしてもう一つは箇のこう、言に肴です、こみいった所というわけです。華厳の事事無礙三味というつまり塵塵三味のありようをあげつらったわけです。そりゃこれ、ちらとも脇見運転、こんなはずじゃなかったとか、おれは見性底こんなことは別口とかやれば、すなわちひっくりかえる、事に当たってただ真正面です。本当に行なえば、却来して観ずれば、振り返り見れば夢中の事なんです。人生夢のまた夢は、たとい仕損じたれども、全力を尽くしたということです、いえたった一回200%やり切れれば、あとの半生おむつ僕ちゃんやってたろうが、まさに夢中の事、「生きたよう。」という無限大があります、ほかなしですよ。如何なるか是れ塵塵三味、鉢裏飯桶裏水、鉢の子鉄鉢応量器に飯を食らい、桶に水を使えというんです。はいわかりますか、いえほんとうにわかって下さい。

頌に云く、鉢裏飯桶裏水、口を開き胆を見はして知己を求む。思はんと擬すれば便ち二三機に落つ。対面忽ち千万里と成る。音召陽師些子に較れり。断金の義、誰か与に相同じからん、匪石の心独り能く此くの如し。

 口を開き胆をあらわして知己を求む、これ衲僧家世の常、たとい2チャンネル辻説法たっても、云うことこれしかないです。鉢裏飯桶裏水中国語の発音も知りたいと思ったりします、思ったりってあっはっは二機に落ち三機に堕すんですか。音召じょうの一字です、音召陽大師は雲門のおくり名です、なんせ万松老人特別扱いで、些子にあたれりというからには、断金の義誰かともに相同じからんです。たしかに、鉢裏飯桶裏水、雲門が云ったとわしら泡沫が云ったんでは、転ずるに格段の相違ですか。匪石の心、石の如く固い心ですってさ、撥ね返り方が違うですか、はいよったらちりっぱ一つ残らず、鉢裏飯桶裏水。
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by tozanji | 2005-08-22 00:00 | 従容録 宏智の頌古

第九十八則 洞山常切

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 衆に示して云く、九峰舌を截って石霜に追和し、曹山頭を斫って洞嶺に辜かず。古人三寸、恁麼に密なることを得たり。且らく為人の手段甚麼の処に在るや。

挙す、僧洞山に問ふ、三身の中那身か諸数に堕せざる。山云く、吾れ常に此に干ひて切なり。

 九峰は道虔大覚禅師、石霜慶諸の嗣、曹山本寂禅嗣は洞山良价の嗣、舌を截る、思想分別人の舌を截るんです、でなきゃ仏教は始まらん、頭を斫る、よく首のもげたお地蔵さまのように坐れという、思い込み坐禅ではない、けつの穴まで虚空と遊ぶ、これ就中手間暇かかりますか、というのも思い込みのたが外れない、ぶったたかれぶったたかれして、まあわしら並みの人間は、そんなふうでようやくちったあ頭落ちるんです。洞山悟本大師は雲巌曇晟の嗣、曹山ともに曹洞宗の開祖。三身というのは、法身報身応化身に別ける、別段そんな必要はない、舌先三寸の辺のこったな、諸数というのも、仏身には三身四身とか三十二相八十種なと、いずれひま人の数え出した種々あるわけです、するとそれに捉えられて四苦八苦する、即ちこの僧それら数量に堕さぬ真法身を問う、洞山云く、吾常にここにおいて切なり、はいと応じたわけです、もと数量に堕せぬことを知ればいい、知ればいいただそれだけが、なかなかどうしてってことあります、常にただこれ。

頌に云く、世に入らず、未だ縁に従はず。劫壺空処に家伝有り。白蘋風は細やかなり秋江の暮れ、古岸舟は帰る一帯の煙。

 世に入らず縁に従わず、肉食妻帯しようとも選挙に行こうともです、出家まさに他なく、一身因果必然の中にただこうあるだけ、愛するものたといあっても、手をさしのばすに千里の向こう、劫壺空所に家伝あり、これが七通発達を家伝に例えるわけですか、洞山云く、吾常にここにおいて切なりと、自分の母親が布施して徘徊して歩くのにも、敢えて会うことをしなかった洞山大師です、母親が死んでその貯えをもって雲衲に供養したという、ゆえにもって極楽浄土に行くと、まったく他なしのこと。むかしはさすがにというのではなく、わずか一柱坐るのが坐になるかならぬかということです。世に伍し縁に従うあれば、すでに済々坐から遠い、太虚の洞然たるとは行かないんです、わかりますかこれ。座禅と見性という、お悟り資格でもなければ、なんの技術でもないこと、白蘋まずは秋草です、細やかに秋江の暮れ、古岸に舟は帰る一帯の煙と、たとい風景もおのれのものにはならんのです。よくよく保任して下さい。
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by tozanji | 2005-08-21 00:00 | 従容録 宏智の頌古

第九十七則 光帝ぼく頭

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 衆に示して云く、達磨梁武に朝す、本、心を伝えんが為なり。塩官大中を識る眼を具するを妨げず、天下太平国王長寿と云って天威を犯さず、日月景を停め四時和適すと云って風化を光らかにすることあり。人王と法王との相見には合に何事か談ずべき。

挙す、同光帝、興化に謂って日く、寡人中原の一宝を収め得たり、只是れ人の価を報ゆるなし。化云く、陛下の宝を借せよ看ん。帝、両手を以てぼく頭脚を引く。化云く、君王の宝誰か敢えて価を酬いん。

 同光帝、唐の荘宗帝同光は年号、興化存奨禅師、臨済義玄の嗣、塩官斎安禅師は馬祖道一の嗣、大中、唐の宣宗帝の年号、大中天子というその即位に当たって力があった。達磨朝梁武帝は第二則にあり、時の国王に会うことは、他の諸宗はいざ知らず、まさにこれ正道をもって一般天下に示す、もっともたること、邪宗外道の支配には、人心惨憺たること自然もまた荒廃する。もっともそっちのほうが常に圧倒的だった。一神教の成れの果て共産支配など、人間カリカチュアともいうべき、最もアメリカ支配の日本だって目くそ鼻くそ、みんな仲良く平和教などただの弊害を、いっそぽい捨てもできないでいる。無宗教なんてまずはありえない、百人が百人雑念宗教です、とっつきはっつき身動きもできないでいる。情けないったら、梁の武帝のように大なり小なり本物、本心を追い出して知らん顔が、妄想醜悪のまんま棺桶に入る。因果必然てことあってそりゃ無明ばっかりの、ちらとも光明なけりゃ国は滅びます。たいていその真っ最中ですか、ここに光明があります、よろしくよく肯うて下さい。同光帝はたいしたもんです、ちゃんと開示している、しかもこれまずはまったく報いられることのないのを知って、どうしたらいいと聞く、いいえ自分淋しいなんてけちなこっちゃない、ぼくは僕のにんべんでなくて巾、かぶと頭巾というものだそうです、脚はその紐、両手に引いてみせる、これを見て長寿無窮を、天威を犯さずですか、君王の宝だれか敢えて価を報いん、そのまんま光さんぜんで万万歳です。即ちそういうこってす。

頌に云く、君王の底意知音に語る。天下誠を傾く葵霍の心。てい出す中原無価の宝。趙壁と燕金とに同じからず。中原の宝興化に呈す。一段の光明価を定め難し。帝業万世の師となるに堪えたり。金輪の景は四天下に輝く。

 まあほんとに金ぴかの頌だことさ、そりゃまあ天子がかくの如くであったこと、史上まったく希に見るとしかいいようがなく、我国北条氏の治世の如くまったくめだたない、史家の記述の影に隠れる。ゆえに以て中原無価の宝、葵霍、かくはくさかんむりできかくひまわりのこと。趙の玉と燕の金はこれ珍宝、まあいずれ菖蒲かかきつばた、君王の宝法王の宝、大いに用いて一段の光明定め難しと。小泉の国会解散人みな右往左往、せっかく郵政民営化をひっかついで首相になったんだから、やらせてやりゃいいのに、大人げないっていうのは利権がらみ、亀井静がとって代わりたかったのと、角栄残党なんて日本の恥だな、国民の審判というまったくもってあてにゃならぬ、云々2チャンで云ったら、仏は政治に口出しするな、感情論だという、てやんでえわしゃ座禅お宅やってんじゃね-や、それに感情論の他に意見なぞない、中立だの冷静という嘘だ、学校教育の平静という、自分預からぬという、そりゃ阿呆をこさえるだけだ、おのれ関わって初めて政治であり、ものみなそうなあ、論文というずさん、歴史家の文章というこれ、文章にもなにもなってない、歴史は人麻呂、論文は芭蕉といったら大笑いか、そんなことはないさ、どっちらけで滅ぶだけの人間、人間失格はどこから来るか、ちっとはそりゃ反省したほうがいい、金ぴかの頌よりも照顧脚下とな、わっはっは。
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by tozanji | 2005-08-20 00:00 | 従容録 宏智の頌古

第九十六則 九峰不肯

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 衆に示して云く、雲居は戒珠舎利を憑まず、九峰は坐脱立亡を愛せず。牛頭は百鳥花を衒むことを要さず、黄檗は杯を浮かべて水を渡ることを羨まず。且らく道へ何の長処かあるや。

挙す、九峰、石霜に在って侍者と作る、霜遷化の後、衆、堂中の首座を請して住持を接続せしめんと欲す。峰肯はず乃ち云く、某甲が問過せんを待て、若し先師の意を会せば先師の如くに侍奉せん、遂に問う、先師道はく、休し去り、喝し去り、一念万年にし去り、寒灰枯木にし去り、一条白練にし去ると、且らく道へ甚麼辺の事を明かすや。座云く、一色辺の事を明かす。峰云く、恁麼ならば未だ先師の意を会せざるあり。座云く、汝我を肯はざるや、香を装い来たれ。座乃ち香を焚いて云く、我れ若し先師の意を会せずんば、香煙起こる処脱し去ることを得じ、云い訖って便ち坐脱す。峰乃ち其の背を撫して云く、坐脱立亡は則ち無きにはあらず、先師の意は未だ夢にも見ざるなり。

 雲居道膺禅師は洞山良价の嗣、戒珠舎利とは生前戒行正しい人の遺骨、九峰の道虔大覚禅師は石霜慶諸の嗣、牛頭法融禅師四祖大医道信の嗣、心銘あり、牛頭山の石室に入って、百鳥花をついばむ異相あり、のち四祖に見えて大法を得る。黄檗は行脚の途中、道連れが水上を歩みわたるのを見て、なんてえことをする、せっかく法の人と思ったのにといって、袂を分かつ。今ここに於て九峰、坐脱立忘の、これをまあなんていったって標にしての修行です、仏である証拠とばかりにするんでしょう、首座和尚は一香を焚く間に坐脱する、うっふお悟り機械みたいなん、そいつの背中撫でて、いい子だいい子だ、見事なもんだけどなをかつ、先師の意を未だ夢にだも見ずとやる。どうですかこれ、老師が静に入れる人はうらやましいですねえと云った、わしはだいぶ変な気がした、だって老師の悟は空前絶後と云われるほどのものであって、それがいったいなぜという。未だ夢にだも見ざるものあり、仏とはなにか、おれはかくの如くであるからという、まずはそいつを取れ、技術屋の技術じゃない、ではさしのべる手であるか、だったらそいつをアッハッハ、始末しちまってから出せ。

頌に云く、石霜の一宗親しく九峰に伝ふ、香煙に脱し去り、正脈通じ難し。月巣の鶴は千年の夢を作し、雪屋の人は一色の功に迷う。十方を坐断するも猶点額す、密に一歩を移さば飛竜を見ん。

 点額は落第のこと、魚竜と変じ切れずひたいを打ちつけて落ちるにより、せっかく香煙に脱し去って、なおかつ正脈通じ難し。そりゃ仏教以前今に至るまで、さまざまに忘我の法はあって、一神教の他はたいていこれを用いるんです。どう違うかというとみなどっかに付け足す部分がある、禅定という資格試験みないにして、一手段ですか、密教がそうです、端にこれだけということを知らない。直指人身見性成仏もとこれっきりを知らないんです。ではこの首座の如きはまさにこれっきりじゃないかという、アッハッハこれっきりを一色の功です。袋小路のどんずまりみたい、座忘人間ですか、たとい千年の夢をなしたろうが、そんじゃ勝手にさらせってやつです。さすがに九峰はこれを見る、なに三歳の童子だろうがそりゃ不肯ですよ、坐忘なくば力失せとありますが、だれあってこれを得ること、魚の水にある如く、雲の空を行く如くの活発発地です、どうかすべからく手に入れて下さい。はい、ことはそれからです。
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by tozanji | 2005-08-19 00:00 | 従容録 宏智の頌古

第九十五則 臨済一画

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 衆に示して云く、仏来たるも也た打し、魔来たるも也た打す、理有るも三十、理無きも三十す。為復是れあやまって怨讐を認めるか、為復是れ良善を分たざるか、試みに道へ、看ん。

挙す、臨済、院主に問ふ、甚の処よりか来たる。主云く、州中に黄米を売り来たる。済云く、糶得し尽くすや。主云く、糶得し尽くす。済柱杖を以て一画して云く、還って這箇を糶得せんや。主便ち喝す。済便ち打つ。次に典座至る、前話を挙す。座云く、院主和尚の意を会せず。済云く、爾亦作麼生。座便ち礼拝す。済亦打つ。

 臨済義玄禅師は黄檗希運の嗣臨済宗の祖、仏来たるも打ち、魔来たるも打ちですか、払拳棒喝の元祖みたいな人で、そいつがまた黄檗に打たれて、なんでまた一言半句すりゃ打たれにゃならんと文句を云う、打たれりゃ痛いと見える、でもって黄檗の親切がわからんのかと云われて忽然大悟、如何なるか是れ仏、求めるに成り切ってその上なんです、首くくる縄もなし年の暮れ、自分という架空請求が吹っ飛んでるんです、わかりますかこれ。わかったといっても三十棒、わからんと云っても三十棒、院主は寺院の事務など一切を引き受ける役、監院といって禅師の次の位ですか、能登の祖院へ行ったら、脱ぎ捨ての草履監院老師に揃えられて、はなはだ恐縮、恥ずかしくってもう祖院には行かれねえやって、弟子が云った。え-となんだっけ、典座は会計台所いっさいを預かる役、典座と雲衲を総括する維那とまあこりゃ三つ大役ですか。さすがに臨済んとこは、一隻眼ばかり出揃っている、そりゃかつて永平寺でもそうだったでしょう、活発発地をもって回っていたんんです。今様嘘で塗り固めて、どんみり淀んで息もできないのとは、うっふこりゃ云うも野暮か。糶=売るんです、すっかり売ったか、はい売り尽くした、臨済柱杖を以て一画してさあ売ってみろという、院主喝す、すなわち打つ。典座に挙せば、、院主意を会せずという、ならどうする。典座礼拝す、すなわち打つ。怨み残さんようにさと、万松老人老婆親切、はたして打つ用があったんですか、なかったんですか。

頌に云く、臨済の全機格調高し、棒頭に眼あり秋毫を弁ず。狐兎を掃除して家風俊なり、魚竜を変化して電火焼く、活人剣殺人刀、天に倚って雪を照らし吸毛を利し、一等に令行して慈味別なり、十分の痛処是れ誰か遇はん。

 臨済の全機格調高し、まあそういうこってす、格調とは寸分もゆるがせにしないこと、雪上に霜を置くも、泥中に土塊を洗うもない、まさにこれ電火焼く、痛棒他なしですか、院主若しちらともこうすべきあれば、打って雲散霧消、典座若しちらともらしくするあれば打って倒退三千、活人剣殺人刀、そりゃせっかく父母未生前の200%を、てめえで蓋することはない、奪うには痛棒、すなわち蘇るんです、これを頌して天によって雪を照らし、令行して慈味別なりという、さても十分のところ誰あってこれを受けるか、そうですまあ永しなえに応答して下さいよ、いやはや大騒ぎの末にのこっと化けて出たり、てなことなきように。はい老婆親切。
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by tozanji | 2005-08-18 00:00 | 従容録 宏智の頌古

第九十四則 洞山不安

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 衆に示して云く、下、上を論ぜず、卑尊を動ぜず。能く己を摂して他に従うと雖も、未だ軽を以て重を労すべからず。四大不調の時如何が持養せん。

挙す、洞山不安。僧問ふ、和尚病む、還って病まざるものありや。山云く、有り。僧云うく、病まざるものは還って和尚を看るや否や。山云く、老僧他を看るに分あり。僧云く、和尚他を看る時如何。山云く、即ち病あることを見ず。

 青原下第五世洞山良价禅師、雲巌曇じょうの嗣、洞山不安四大不調ですから、病の床に伏す。下上を論ぜず、卑尊を動ぜずは、ものごとまさにかくあるべしの見本です。総理大臣を選んでおいて文句ばっかりの国民や、反対ばっかりの国会議員どもじゃ、そりゃ政治も国も不成立です、過ちは正すたって、たいていむかしは死を賭しての上のこってした、少しはこれを思えってね、軽輩の分際で重役を労するんじゃないよ、おまえさんの首ねっこに刃、そりゃ一言あるにはそういうこと。和尚病む還って病まざるものありや。答えがわかっていて聞くやつは万死に値する、頭の悪いやつはみなこれ、じゃ聞かなきゃいいんです。あっはっは学校の先生みなこれ、つまりろくなもな育たない、知識で人を殺す、殺人事件ですな、少なくとも教育=必要悪ぐらいの思想あってしかるべきです。どうですか病まざるものありや。山云く、あり。その病まざるものはかえって和尚を見るや否や。ちらともかじると答えがある、倒退三千、このばかったれぶっ飛ばすにいいです、山云く、老僧他を見るに分あり、見るものはよう見ているよ、ぶっとばしてるんですよ、病にあらざる。そいつに気がつかない、寒毛卓立だってのにさ。和尚他を見る時如何、間抜けな問い、うっふだれを見たって病あることを見ず、そうなんですよこれ、どんなしょ-もねえのでも仏、みな大悟徹底底なんです、とやこうするうち違ってるから、それ違うよという、これ仏の常道です、ここはおまえさんの病ももと不要という痛棒ですか。

頌に云く、臭皮袋を卸却し、赤肉団を拈転す。当頭鼻孔正しく、直下髑髏乾く。老医従来の癖を見ず、小子相看して向近すること難し。野水痩する時秋潦退き、白雲絶ゆる処旧山寒し。須らく剿絶すべし、蹣捍すること莫れ。無功を転尽して伊位に就く、孤標汝と盤を同じうせず。

 臭皮袋という世間ものみなですか、赤肉団貪嗔痴ですか、まずもってこれに気がつく、ついでそいつを脱しようとする、でなきゃ仏教は始まらない、如何なるか是れ仏の真髄。汝の問うは真髄にはあらず皮袋なり。仏を問うそいつが臭皮袋じゃしょうがない、総じてこれを心病となす、これを正しこれを脱しして鼻孔正しくどくろ乾く、まあさ健康になって下さいってこと。せっかく老医は西欧流分析をもって、点滴だの注射だのしない、そうさおまえさん健康だよってね、伊=彼が云うならそっくり健康、小子向近すること難し。どうですこれ。秋遼秋の水たまり消え、白雲絶えて旧山寒し、仏法として要らん手をさしのべないんです、断崖絶壁です。さあ心地を巣滅して下さい、まんかん字違うんですが、馬鹿にするなってこと、病でぼけたんだなんてのはもっての外、実にもって無功を転じている。洞山不安、同じ盤上に碁をうってるんじゃないよってね。まあそういったとこ。そうですよ、なんのための仏教か根本に問い直して下さい。

画像の出典  富士山。(右上が北) 撮影は5月だが、まだ雪が多く残っている。
左上の山脈は身延山地、右上の農地は甲府盆地。
2001‐05‐27、ISS(国際宇宙ステーション)より撮影。
参照
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by tozanji | 2005-08-17 00:00 | 従容録 宏智の頌古

第九十三則 魯祖不会


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 衆に示して云く、荊珍鵲を抵ち、老鼠金を銜む。其の宝を識らず。其の用を得ず。還って頓に衣珠を省する底ありや。

挙す、魯祖南泉に問ふ、摩尼珠人識らず如来蔵裏に親しく収得す、如何なるか是れ蔵。泉云く、王老師汝と往来するもの是。祖云く、往来せざる者は。泉云く、亦是れ蔵。祖云く、如何なるか是れ珠。泉召して云く、師祖。祖応諾す。泉云く、去れ汝我語を会せず。

 魯祖山宝雲禅師、馬祖道一の嗣、摩尼珠人知らず如来蔵裏に親しく収得すという、寒山詩にもあった、こうしてこれをもって問うところを見ると、どっかお経の文句でしょう、実知慧という般若の知慧という、そうですねえ鍛えに鍛えた打ち刃物と、水とどっちが切れる、そりゃ水なんです、もとあるものだけを扱う、これが仏教です。座禅と見性と云って、なにかしら獲得物質のようにする、それは世の中手に職であり学問履歴の社会です、これに伍して坊主はお経、葬式法要ですか、禅坊主は悟りという、そうねえこれやってたら残念ながら仏教は手に入らんです。世を捨て自分を捨ててはじめて仏です。仏という生まれたまんまの赤ん坊ですか、父母未生前の消息ですか、手つかずのありよう、これ摩尼宝珠、如来蔵裏に親しく収攬するんです、人知れずとは他の人には知られずではなくって、如来も知らんです、知る必要がない、山水長口舌の絶え間なし出放しですか、王老師南泉です、いまこうして汝と往来するものこれ、そいつを往来せざるものはと問う、これなっちゃないですか。亦蔵とでも云っておくしかない、如何なるか是れ収、師祖、はい、珠を取り出して見せたんです、しかも汝我語を会せず。

頌に云く、是非を別かち、得喪を明かし、之を心に応じ、諸を掌に指す。往来不往来、只這れ倶に是れ蔵。輪王之を有功に賞し、黄帝之を罔象に得たり、枢機を転じ技倆を能くす。明眼の衲僧鹵奔なること無かれ。

 摩尼珠のありようを、是非を別ち云々とはらしくもない、得喪は得失、とにかくまあこういったこって、じゃなにが宝の珠だ、我らみんなかくの如くじゃないかという、うっふその通りだが、宝珠になるやつと、妄想めったらにするやつとあるってこと。往来不往来ともにこれ蔵、宇宙の中心主人公ですか、用いえて妙は、輪王とは転輪聖王まさにそれ、黄帝こっちは現実生え抜きの大王ですか、上有効に賞し、下あるがまんまそのまんま使ってる200%です。罔象は盲人、まあ以下かくの如し、さあ自分でちゃんと確かめてください、そうです、妄想無明と、摩尼宝珠の違いを知って下さい、即ちそれだけが仏教、鹵奔は軽率おおざっぱなこと=思想観念の物差しを振り回すんですよ。
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by tozanji | 2005-08-16 00:00 | 従容録 宏智の頌古

第九十二則 雲門一宝


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 衆に示して云く、遊戯神通の大三昧を得、衆生語言の陀羅尼を解し、睦州の秦時のたくらく鑚を曳転し、雪峰の南山の鼈鼻蛇を弄出す。還って此の人を識得すや。

挙す、雲門大師云く、乾坤の内、宇宙の間、中に一宝有り、形山に秘在す、灯籠を拈じて仏殿裏に向かう、三門を将って灯籠上に来す。

 雲門文偃禅師は青原下六世雪峰義存の師、睦州陳尊宿、黄檗希運の師、秦時のたくらくさん、始皇帝が阿房宮を築くときに用いた、車仕掛けの大きり。無用の長物ですか、馬鹿で擦り切れているんですか、睦州がよく用いた例。雲門は睦州に就いて始めて大旨を得るとある。雪峰南山にべっぴ蛇ありという、雲門柱杖を投げ出して畏れる勢いをなす、とある、二十四則雪峰看蛇。雲門大師は大趙州と並び称される大物です、はたしてこの人を知るや、というわけです。乾坤のうち、天地宇宙の間に一宝あり、形山四大五蘊すなわち体のこと、正にここに秘在す、灯籠を拈じて仏殿に向かう、さあどうですか。天地宇宙の間ですか、ものみなこうあって就中親しいんですか、我という存在をいったいなんによって差し示す、無だの空だの絵空事いってないで、実際かくの如く、清々といい、底抜けといい、影形相見るが如しですか。いえさまだ納得せんていうなら、三門-山門ごと一伽藍おっかぶせますか、うわあ大変だあ。なんとしても免れ出る手段、はいかくの如くー

頌に云く、余懐を収巻して事華を厭う、帰り来たって何の処か是れ生涯、欄柯の樵子路なきかと疑い、桂樹の壺公妙に家あり。夜水金波桂影を浮かべ、秋風雪陳蘆花を擁す、寒魚底に著いて餌を呑まず、興尽きて清歌却って槎を転ず。

 雲門は肇法師の余懐を宝蔵論中の四句に示すとある、法として経を延べ事は華やかに仏法を展開する、そりゃ余懐というより百害あって一利なしですか。だれしも言葉の花を拈じてもって、世に広めたいわけで、万松老人老骨に鞭打ってのまさに是れ、帰り来たってなんの処か是れ生涯、船子和尚のように用がすんだら水に没す。たまたまかくの如くの一言半句、樵が山へ入って仙人の碁を囲むのを見て、斧が腐る百年を経るという。灯籠を拈じて堂に到る、壺中の王侯まさに他無きが如く。たとい北朝鮮も中国強盗も日本滅びようがです、木の葉揺れず風揺れず、たったこうあるが如く、うっふうビッグバンのはても指乎の間、いえもとそのようにでき上がってるっけこってす。われらが一個と歴史人類とどっちがどうなんですか、とやこう激論、出雲の神さまだろうがいいことしいも、結局はこれ。槎は船、寒魚底について餌を食まず、そんなやつが時に清歌すると舟沈没ってわけです。
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by tozanji | 2005-08-15 00:00 | 従容録 宏智の頌古

第九十一則 南泉牡丹

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 衆に示して云く、仰山は夢中を以って実となし、南泉は覚書を指して虚となす。若し覚夢元無なることを知らば、虚実待を絶することを信ぜん。且らく道へ斯の人甚麼の眼をか具す。

挙す、南泉因に陸亘大夫云く、肇法師也た甚だ奇特なり、道うことを解す、天地同根万物一体と。泉庭前の牡丹を指して云く、大夫時の人此の一株の花を見ること夢の如くに相似たり。

 南泉普願禅師は馬祖道一の嗣、陸亘大夫は宣州刺史南泉の俗弟子、肇法師は羅什三蔵の門人、どうだというんでしょう、肇法師はたいしたもんだ、天地同根万物一体だと云っている、たしかにそりゃ理にかなっている、そのようにものみんああり、同根も一体もたとい自分という深い井戸の底ですか、同心円を行ずるんですか、深い井戸がこっちを見ているんですか、それともまるっきりそんなもなないんですか。仰山は夢中をもって実際です、打てば響くんです。南泉庭前の牡丹をゆびさして、時の人これを見るに夢の如くといった、夢や現つやほんとうには見ていないということですか、月は月花はむかしの花ながら見るもののものになりにけるかな、だから俗人浮き足だって右往左往、見れども見えずの、そうねえ騒がしいことやってないでというんですか。いえ俗人も覚者もないです、現実であればあるほどに夢、一年365日夢、却来るして世間を観ずれば猶夢中の事の如し、いいえとやこう抜きに手を触れ耳目にして夢、まずもってこれを味わって下さい。この項どっか洒落ていて覚えやすくていいです。

頌に云く、離微造化の根に照徹し、紛紛たる出没其の門を見る。神を劫外に遊ばしめて問ふ何かあらん。眼を身前に著けて妙に存することを知る。虎嘯けば蕭蕭として巌吹作り、龍吟ずれば冉冉として洞雲昏し。南泉時人の夢を点破して、堂々たる補処の尊を知らんと要す。

 どうもこれ大袈裟に紛紛しなくたってもいいです、ものは見たとおりこうあるっきりです。そりゃ四句を離れ百非を絶しなけりゃ、劫外に遊ぶ神なく、父母未生前の妙もないです。牡丹がほんとうに牡丹であるとき、我なく牡丹なく夢の如くに実際です。人の見る風景は妄想執念です、それを実存といいあるなしという。妄想執念という、そいつを起こすやつが失せて、虎うそぶけば巌吹おこり、龍吟ずれば洞雲くらしです、独立独歩はまさにかくの如くあるんです。他との比較がない、夢のように空に浮かぶんですか、もし為政者あるいは官吏であれば、なをさらに四句を離れ百非を絶する、まさにこれ正義。歴史だの政治というぶっこわれがらくたを作らない、如実夢幻、堂々たり補佐です。これの尊いことを知る皆無、いえそりゃいくたびか行なわれていますよ。かつて他に帰趨の処なしを知る、そうですねえ人間とは何かーですよ。
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by tozanji | 2005-08-14 00:00 | 従容録 宏智の頌古