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第二十三則 魯祖面壁

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 衆に示して云く、達磨九年、呼んで壁観と為す。神光三拝、天機を漏泄す。如何が蹤を掃ひ、跡を滅し去ることを得ん。

挙す、魯祖凡そ僧の来たるを見れば便ち面壁す。南泉聞きて云く、我れ尋常他に向かって、空劫以前に承当せよ、仏未だ出世せざる時に会取せよと道ふすら、尚ほ一箇半箇を得ず。他恁麼ならば驢年にし去らん。

 菩提達磨大和尚壁観婆羅門という面壁九年、神光慧可腕を切って差し出して、天機を漏泄す、ようやくこの法が伝わった。如何が蹤をはらい、跡を滅し去ることをえん、天機です、もと備わったものが完全に現れる、個性とか信仰などいう都合便利の品ではない。祖師西来意これを伝えるに、命幾つあっても足りんほどの鳴物入りですか、とうてい忘れることはできんというのです。そうです、まったく忘れ去って初めて庭前の柏樹子です、真似して坐ったってどうにもほど遠いんです。だがこやつ平成のわしが辺までちゃーんと伝わっている、如何が跡を滅し去ることを得ん、人間失せたろうが地球分解しようが、大法はちゃーんとあるんです、すでに中にある無門関。
ついには仏法のぶの字を払拭しないことには、これが見えんです。
 魯祖実雲禅師、馬祖道一の嗣、おうよそ僧の来るのを見れば面壁す、南泉これを聞いて、わしは世の常他に向かって、空劫以前に参ぜよ、ビッグバンなぞ汚い手つける以前に承当です、仏未だ出世せざる時に会取せよといって、なを一人半分も仏にゃならん、もしそんなふうなら驢年にも、ろばの年なんてないです、得ること能はずと云った。わかりますかこれ、どう説こうがなにしようが、とっつきはっつきする、匙投げたろうが諦めない、さあこやつをどうする。
 香巌一を聞けば十を知る明敏です、何を云ったろうが答えがある、これなんにもならん、師匠が、父母未生以前のおまえさんの眉毛如何と聞いた、さあわからなくなった。空劫以前です、香巌これしきわからんでは、とうてい坊主になってはおれんといって、じいごです、寺男になって庭を掃いておった。毎日毎日掃いていた、あるとき掃いた石が竹に当たってかんと音を立てた、これによって省悟するんです。大丈夫畢生事と選んだ僧を捨てる、命を捨てると同じです、腕一本切って差し出すとほどに。そうして庭を掃く、掃くきりになって忘我です、爆竹の機縁によって、はあっと一念起こる、父母未生以前の眉毛があるんです。
 何をもってこれを示す、実に単純な理屈をどうにもこうにもです、師弟同じく刀折れ矢尽きるんです、空劫以前承当と魯祖面壁とどう違いますか、誉めてるんですか、けなしてるんですか、取り付く島もないのはどっちですか、えい人のことなど云ってられんは、一箇半箇なんとかならんか。

頌に云く、淡中に味有り、妙に情謂を超ゆ。綿綿として存するが如くにして、象の先なり。兀兀として愚の如くにして、道貴とし。玉は文を雕って以て淳を喪し、珠は淵に在って自ずから媚ぶ。十分の爽気、清く暑秋を磨し、一片の閑雲、遠く天水を分つ。

 坐って得られるところのものです、虚空に捨て去る自分です、失われ淋しい、なんにもなくなってしまうじゃないかという、それを一歩も二歩も推し進めるんです、ついに失せる、淡中に味ありです、情識を超えて微妙です。大死一番大活現成とはいったん死んだら蘇らないんです、宇宙ものみなとこうある、喜びは自ずから、親切他なし、かくの如く相続して、象かたちの先です。兀兀として愚の如く、道を専一です。
文選第十七陸機の賦に日く、石、玉を蘊んで以て山輝きあり、水、珠を懐いて川媚ぶ、とあり、まあそのとおり味わっておきゃいいです、そりゃ自ずから現れます。たとい魯祖面壁も世間一般とは断然違うです。美しいというと思い出すのは、老師の真っ白いひげでした、すぐ剃ってしまわれるんですが、清々この上なし、見る人洗われるようであったです。十分の爽気清く暑秋を磨し、銀椀に雪を盛り、明月に鷺を蔵すとある、一片の閑雲遠く天水を分つ、混ずる時んば所を知るんです。なんだかんだ云ってないんですよ、早くぶち抜いて、人々みな本地風光です。

画像の出典  2004年・津軽/方丈の旅の記録より
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by tozanji | 2005-02-28 10:07 | 従容録 宏智の頌古

第二十二則 巌頭拝喝

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 衆に示して云く、人は語を将って探り、水は杖を将って探る。撥草瞻風は、尋常用いる底なり。忽然として箇の焦尾の大虫を跳出せば又作麼生。

挙す、巌頭徳山に到り門に股がって便ち問ふ。是れ凡か是れ聖か。山便ち喝す。
頭礼拝す。洞山聞きて云く、若し是れ豁公にあらずんば大いに承当し難し。頭云く、洞山老漢好悪を識らず。我れ当時一手擡一手捺。

 撥草瞻風という雲水修行をすべからく云うんですが、煩悩の草を撥ね菩提の風を瞻仰すとある、尋常用いる底とは、寝ても覚めてもです、何をしていたろうがこの事です、何をしてはいかんこうあるべきというより、かえって目茶苦茶の方がいい、煩悩を助長するもせんも、そんなふうでは届かない、転んでもただでは起きないふうの参禅ですか、人間いつだって未だしという、いつだって100%是という、ゆえに語をもって探り、杖をもって探るんです、叩かれ払拳棒喝とあって、はあてようやくですか、箇の焦尾の大虫とは虎です、虎は尾っぽを焼いて人間に化けると、こいつを忽然失うには、またまったく別です。
 巌頭禅豁禅師、徳山の嗣、我今初めて鰲山成道の雪峰の兄弟子、くぐつまわしなど云われるんですが、そりゃなかなかしっかりしてます。徳山へやって来て門にまたがり、是れ凡か聖かと問う、虎の前にやって来た、かーつとこれはらわたさらけ出し、どん底からというんですが、虎という自分の形骸なんにもないやつがかつとやるんです、老師の喝で生臭雲水が単から跳び上がったな、障子がふるえる。これ聖か凡か、探竿影草かしゃらくさいか、さすがに巌頭礼拝し去る。洞山は洞山良价和尚でしょう、こりゃまた大物です、豁公は巌頭です、おまえさんでなけりゃとうてい肯がえんという、一喝あるべしといったんですか、超凡越聖の機、襟首とっつかまえて同病あい憐れむですか、いやあのときそんな余裕なぞなかった、一手擡はもたげる一手捺はおさえるです、是れ凡か聖かともたげ、礼拝しておさえ、徳山の喝とどうですか、そうです、もうこれっきりっていうところがいいんですが、どっかくぐつまわし。

頌に云く、来機を挫しぎ、権柄を総ぶ。事に必行の威あり。国に不犯の令あり。
賓、奉を尚んで主驕り、君、諫めを忌んで臣佞ず。底んの意ぞ巌頭、徳山に問ふ。一擡一捺、心行を看よ。

 意言に在ざれば来機亦おもむく、宝鏡三味にあります、その続きは、動ずればか臼をなし、差がえば顧佇に落つ、背触ともに非なり、大火聚の如し。とあります。
自分というものに首を突っ込むとこうなる、手を触れると大火傷ですか、どうしようああしようの参禅を終わりにせんけりゃ、来機またおもむくとは就中いかんです。せっかくのおのれ=来機に蓋をする、いちゃもんつけてしまっては、徳山虎口の門にまたがって、凡聖を問うも無理です。無理をそのまんまむうっとやってごらんなさい、徳山大喝もそよ風とほどに。必行の威もほうほけきょ、不犯の令も風力の所転。賓は洞山そりゃまあお客ですか、主は巌頭。君は徳山、臣は巌頭。どうですか巌頭親切、だれもが一目置く兄貴というわけで、是れ凡か是れ聖か、師は末期の一句を得たりとか、よくやるよってアッハッハおもしろいんです。洞山の、もし豁公にあらずん
ば承当し難しという、よく表われています。徳山渇して巌頭の立場失せたりって、もと立場のないのが仏です、学者仏教私は達磨実在の立場をとってという、すでに敗壊、仏教のぶの字もないんです。一擡一捺心行をみよと、蛇足するのもわかるような気がします、でもってわしは巌頭が大好きです、なぜかって好きなもんに理屈なし。


画像の出典  2004年・津軽/方丈の旅の記録より
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by tozanji | 2005-02-27 00:00 | 従容録 宏智の頌古

第二十一則 雲巌掃地

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 衆に示して云く、迷悟を脱し聖凡を絶すれば多事無しと雖も、主賓を立て貴賎を分つことは別に是れ一家、材を量り職を授くることは即ち無きにあらず、同気連枝、作麼生んか会せん。

挙す、雲巌掃地の次いで、道吾云く、太区区生。巌云く、須らく知るべし、区区たらざる者有ることを。吾云く、恁麼ならば則ち第二月有りや。巌掃菷を提起して云く、這箇は是れ第幾月ぞ。吾便ち休し去る。玄沙云く正に是れ第二月。雲門云く、奴は婢を見て慇懃。
 雲巌曇晟禅師、薬山惟儼の嗣、道吾円智は兄弟弟子。本当には知らん人を迷悟中の人という、迷いあれば悟りありです、君見ずや絶対学無為の閑道人、妄を除かず真を求めず、一般の人これができんのです、いいわるいを云い妄想を除こうとし、真実を求めようとする、実はそうしているそのものなんです。主賓を立て貴賎を分かつ、なぜにそうするか、時に応じて必要間に合えば、完全すればということです、ゼニが欲しいときはゼニ、飯が食いたいときは飯で、まるっきり後先なしです。だってすべてがそう成り立っている、のしつけりゃ面倒臭い、かったるいだけなんです。ただの日送りの、簡単明瞭ができない、でもってそれに苦しんでいる、アッハッハそりゃ笑っちまうです。
 焚くほどは風がもてくる落ち葉かな、裏を見せ表を見せて散る落ち葉。良寛さんの真似しろってんではないです、地震来たれば地震がよろしく、うわあ恐怖の地震と、はいこれっきりないんです。同気連枝、千字文にあり、孔だ懐ふ兄弟あり、気を同じゆうし枝を連らぬ。奴は婢をみて慇懃ですか。
 雲巌庭を掃いていた、道吾それを見て太区区生、ごくろうさんですと云った。
巌云く、いいか、ごろうさんじゃない者の有ることを知れ。それっこっきりにやっているんですよ、ごくろうさんじゃない坐禅して下さい、まるっきり後先なし、忘我でも忘我でなくってもいいです、太区区生ではない日常があります。吾云く、そうであったら第二の月ありやなしや、円覚経にあるという、彼の病、目の空中の華と、および第二の月を見ると。空華眼華という、坐っていて惑わされるのはこれ、是非善悪そっくり風景になってうつろうほどに、実際ではない世間体です、もうないものを空想裏に描く、夢という流行語すなわちこれ、目を失い去ればよし、月という想像する月を見る、月を仰いで遠来の客を忘れる良寛さんに、第二の月ありや、即ち第二の月有りやと、成句になって聞いたんでしょう、雲巌ほうきをかかげて、これは第幾つの月だという。うっふどうです、奴は婢を見て慇懃ですか。玄沙道吾の休し去るを見て、まさにこれ第二月といった。自分の抱え込んだ仏という月にしてやられるんです、雲門云く、即ち同病あい哀れむっていうんですか、はてなするとこっちも同病。

頌に云く、借り来たって聊爾として門頭を了ず。用ひ得て宜しきに随って便ち休す。
象骨巌前、蛇を弄するの手、児の時做ふ処老いて羞を知るや。

 聊爾かりそめ、掃地ということを借りて門頭、無眼耳鼻舌身意を六根門というそうで、かりそめにも了ず、つまり雲巌ほうきを提示してもって、道吾これを知る、用いえて宜しきに随い、無眼耳鼻舌身意なんにもなくなってしまう、本来のありようを見て休し去る、別段なんの事件も起こらんわけです。玄沙まさに第二月と云う、ことを起こしたかったわけです、象骨巌とは、雪峰山下にある岩、すなわち雪峰会下の玄沙と雲門です、南山に鼈鼻蛇ありのいきさつは、二十四則にあります、蛇を弄するの手、做さと読む、ならうんです、あのときは若かったというわけが、老いて恥を知るや、まあしかしなんにも起こらんけりゃこの則はなかったわけです。休し去るというからには、担いで帰るものあるように見える、雲云く奴は婢を見て慇懃ですか、でもってかつての騒々しい例を引く。
 まあそんなこたいいです、無眼耳鼻舌意をたしかめて下さい、眼華をなんとかして下さい、
月は月花はむかしの花ながら見るもののものになりにけるかな
 必ずこういうことあるんです。でもこれを認めておっては第二月。


画像の出典  2004年・津軽/方丈の旅の記録より
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by tozanji | 2005-02-26 00:00 | 従容録 宏智の頌古

第二十則 地蔵親切

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 衆に示して云く、入理の深談は三を嘲り四をさく。長安の大道七縦八横、忽然として口を開いて説破し、歩を挙げて蹈著せば、便ち高く鉢嚢を掛け柱杖を拗折すべし。
且らく道へ誰か是れ其の人。

挙す、地蔵法眼に問ふ、上座何くにか往くや。眼云く、いりとして行脚す。蔵云く、行脚の事作麼生。眼云く、知らず。蔵云く、知らず最も親切。眼豁然として大悟す。

 入理の深談とはただ、こりゃ本来事を知らん人が云うんですか、三を嘲りという、人みな放あり奪あり集あり、三種の神器鏡に玉に剣とかやってるでしょう、世の中こうすべき、こうあるべき一ありゃ三あるのを、そりゃ嘲るんです、間違いなんです、さく、らという手へんに羅ですが、これラと拍子をとる音韻です、別の意あるんですか、ようも知らんけどアッハッハのし付けるってふうです。金沢の人、新聞記者であったか、あるとき忘我ということがあった、すると世間常識が、あほらしいというか、なんであんなことをと思うほどになったという、そりゃそういうことあるんです。長安の大道七縦八横です。如何なるか是れ道、道は籬の外なあり、わが問うは大道なり、大道長安に通ず。弟子であった祐慈和尚、悟を得てのち托鉢に行く、千葉へ出て東海道を下って、四国へはいり、年賀葉書のお古をもっていて逐一知らせて来るのが、まことにおもしろかった、糸の切れた凧でどこへふっ飛んで行くかわからない、首座をしてくれというお寺があって、連絡しようもなしと思っていたら、元旦に電話があって、開門岳から新年のご挨拶だって、えー帰るんですか、沖縄まで行こうと思っていたのにだってさ。こういうのを用いる宗門ではないから、苦労している、なに六十まで口をつぐんでおれ。
 地蔵は玄沙師備の法嗣、地蔵院に住す、法眼文益はその門下。これはいいですねえ、上座、一定の期限をへた雲衲をいうんですが、おまえどこへ行く、イリはしんにゅうに施のつくりと麗と、ぶらぶらとです、ぶらぶら行脚してます、行脚の事そもさん、知らず、知らぬもっとも親切、法眼忽然として大悟。
 知らぬもっとも親切、さあこれに参じて下さい。
 今の人心身症だのいう、物拾うとか、カメラぶらさげ、デイトに集団に、そうぞうしくって、一人散歩することもできない、女のお一人さまなんてわっはっは物笑いだ、さあどうします、知らぬもっとも親切。

頌に云く、而今参じ飽いて当時に似たり。簾繊を脱塵して不知に到る。短に任せ長に任せて剪綴することを休めよ。高きに随ひ下きに随って自ずから平治す。家門の豊倹時に臨んで用ゆ。田地優遊歩みに信せて移る。三十年前行脚の事、分明に辜負す一双の眉。

 参じ来たり参じ去りという、たんびに元の木阿弥です、なんにも得られない、参禅以前のなんにもなしです、いくたびこんなふうです、いったいおれは何をやってたんだ、無駄ことばっかり、そうかもとっこなんにもないんだ、老師はあるあると云った、だからあると思い込んだ、ないのが当たり前。
 ないところへ自分を捨てるんですよ。簾繊という、坐禅悟り仏という標準に照らし合わせて、微に入り細を穿ちする、どこまで行ってもきりがないです。捨身施虎は、即ちそうやっている自分を捨てる。
 単純な理屈ができない、法眼ようやったというわけです。参じ尽くして参じ飽きるんです、これが他になんの方法もないです、寒暖自知という、時に臨んで用う、田地優遊です、百花開くんです。まったく与え任せてしまう、糸の切れた凧です、三十年前の行脚もしかり、目の辺に眉がある、そいつに気がつかず他に向かって求めていたという感慨があります、もとっこおぎゃあと生まれてそのまんまなんですよ。
 毫釐も差あれば天地はるかに隔たる。仏向上事なに遅すぎたっていうことないですから、ましてや早すぎたなんてことない。


画像の出典  2004年・津軽/方丈の旅の記録より
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by tozanji | 2005-02-25 13:04 | 従容録 宏智の頌古

第十九則 雲門須弥

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 衆に示して云く、我は愛す韶陽新定の機、一生人の与めに釘楔を抜く。甚としてか有る時は也た門を開いて膠盆を綴出し、当路に陥穽を鑿成す。試みに揀弁して看よ。

挙す、僧雲門に問ふ、不起一念還って過有り也また無しや。門云く、須弥山。

 我は愛す韶陽新定の機というのは、ここから発したのか、いや違う碧巌録の方が先か、韶陽は、雲門大師が韶州雲門山に住するによる、まさに我は愛すとしかいいようにない、わしは趙州真際大師の方が好きだが、なんせまあ手も足も付け難し、ひええったらぶっ魂消。順次出て来ると思うから、アッハッハ申し訳ない従容録を見るのは初めてです、挙げませんが、この則もどっかんずばというやつです、まったく蛇足の付けようがないんです。
 須弥山にのっかられては、あとかたも残らない、虚空になり終わって、電長空に激しと、至りえ帰り来たるんです。不起一念とは、一念も起こらずというんです。一念起こらなければ、それを観察しうる自分=念がないんです、するとかえって過ありやと聞き得ないといったほうが正解です、ではどうなるかというと、須弥山です、はあっと一念起こったときに、宇宙いっぱい大です。我と有情と同時成道です。たとい平らかに、一微塵なくたって、すべてがおらあがんと、そのまっしんにあります。よく保護せよと、ここに住し長長出するんです、これ仏、釘を抜き楔を抜いて他が為にする、我という囲うものがない。落とし穴だろうがにかわのお盆だろうが、もしや、我は愛すというからには、そう見えるんです、ただの大法他なしなんです。

頌に云く、不起一念須弥山。韶陽の法施意志慳しむに非ず。肯ひ来たれば両手に相ひ分布せん。擬し去れば千尋攀ず可からず。滄海濶く白雲閑たり。毫髪を将って其の間に著くこと莫れ。假鶏の声韻我を謾じ難し。未だ肯へて模胡として関を放過せず。

 こりゃまあこの頌の如くでなにを云うこともありません、ほんに一毫髪も挟めばそりゃ得ることできんです、須弥山とまさにこうある以外にないんです、夜をこめて鶏のそらねをはかるとも世に逢坂の関は許さじ、これは清少納言の歌ですが、もしやそんなふうに坐禅をやっていませんか、ああでもないこうでもないこうあるべき、自らすすみてこれを証するを迷いとなす、そうやっている自分を思い切って捨てる、明け渡すんです、未だ肯へて模胡として関を放過せず、ああまことにおのれのありさまと知って、たとい手段を選ばず、手段なしのむちゃくちゃ、むちゃくちゃかえりみるなし、もとなんにもなし、なんにもないから捨てられるんです、死ぬとはどういうこと
か、平らかに思い当たって下さい、須弥山もくそもないったら、まっしんに坐れば須弥山そのものです、アッハッハこりゃいうだけ遅い、どうしようもないな、はいどうしようもないを両手もって差しだします。


画像の出典  2004年・津軽/方丈の旅の記録より
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by tozanji | 2005-02-24 03:15 | 従容録 宏智の頌古

第十八則 趙州狗子

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 衆に示して云く、水上の葫蘆按著すれば便ち転ず。日中の宝石、色に定まれる形無し。無心を以ても得るべからず、有心を以ても知るべからず。没量の大人語脉裏に転却せらる、還って免れ得る底有りや。

挙す、僧趙州に問ふ、狗子に還って仏性有りや也た無しや。州云く、有。僧云く、既に有れば、甚麼としてか却って這箇の皮袋に撞入するや。州云く、佗の知って故さらに犯すが為なり。又僧有り問ふ、狗子に還って仏性有りや也た無しや。州云く、無。
僧云く、一切衆生皆仏性有り、狗子什麼としてか却って無なる。州云く、伊に業識の有る在るが為なり。

 葫蘆ひょうたんのこと、巌頭の示衆に、「若し是れ得る底の人は只だ閑閑地を守って、水上に葫蘆を按ずるが如くにあい似たり。触著すれば即ち転じ、按著すれば即ち動く。」 と、まあこりゃこういうこってすが、人にうちまじって、あいつは奇妙なやつだなあと云われる所以です、アッハッハ混ずるときんば所を知ると、しょうがないこってすか。日中の宝石形定まらずです。あるとき無と云いあるとき有と云う。これなんぞ。
 矛盾しているのはそりゃあなたの方です、人間ものみな没量なんでしょう、自然数を立てる数学ができる、そんなものもってるのは人間だけ、だから人間は万物の霊長ですか、うさんくさい面倒ことってね。
 数学あろうが物理学だろうが、出入り自由、もとっこ免れてあることを知る、それがなかなかです、大統一理論だのこのごろ流行らんですが、ついに不毛を知るのになんというもって回った、アッハッハ科学もようやく十二歳ですか。観念不毛ですったらさ。はいひょうたんに学んで下さい。
 趙州狗子は右禅問答代表ですか、泣く子も黙るってには、みんなそっぽを向きっぱなし良寛さんという誤解の集積回路や、達磨さんという七転び八起き、どうもこりゃ本式に門を叩こうという人にとっては、じゃまになるっきりの、アッハッハ宗門威張儀即仏法よりいいか。
「むー」とやってごらんなさい「うー」とやってごらんなさい、どう違いますか、通身消えてうーむーですよ、うぐいすでさえホーホケキョ、かわずでさえかーんと鳴くのに、自分に首をつっこみ、やれ世の中どうだ、キリストさまだなぞだーれもやってない。
 花は花月は月花は花とも云わず月は月とも云わず、大安心大歓喜天地宇宙かくの如くありって、一生にいっぺんでいい、生まれ本来に立ち返って下さい、一切衆生悉く仏性あり、煩悩覆うが故に知らず、見ずと、ねはん経にある如く、水の中にあって渇と求めるが故に、趙州あるときは無、あるときは有と接するんです。
 有と応じて、なんで仏を皮袋に入れているんだと聞く、はいおまえさんの皮袋脱いで下さい、ほうら仏。知るという省みるという、世間=皮袋の故にですか、狗子のことなんぞ云ってないですよ、知=犯すおまえという覿面に来るんです。有と応ずる、なにゆえにという、そうさ業識にとらわれているおまえさんだというんです、これが蛇足たいして足しにゃならんけどさ。
 ちなみにわしとこ一応卒業は、かあでもホーホケキョでも云い出でたら是、アッハッハさあやって下さい。

頌に云く、狗子仏性有狗子仏性無。直鈎元命に負むく魚を求む。気を遂ひ香を尋ぬ雲水の客。そうそう雑雑として分疎を作す。平らかに展演し大いに舗舒す。怪しむこと莫れ儂が家初めを慎しまざることを。瑕疵を指点して還って璧を奪ふ。秦王は識らず藺相如。

 狗子は申し遅れました犬です、犬に仏性質有りやまた無しや、そうそう(口に曹)ぞうぞう騒がしいんですよ、落着のところなし、気を遂い香を尋ねる雲水です、答えを得てはたしてどうなるんですか。疑問の延長上に予測したなにがしかという、世間一般回答じゃそりゃなんにもならんです。よって云く無、無字の公案です。直鈎まっすぐの針で命令にそむく魚を釣るんです。これ周の文王猟に出て姜子牙という人に会う、水を去ること三尺、直鈎にして魚を釣る、あやしみて問えば、ただ命に背くの魚を求むと。直鈎でなけりゃ釣られん人ってわけです。アッハッハ釣れんのですよ。
 平らかに展演は大手を広げたって狭いとほどに、仏にあらざるはなし無です。まっぱじめっから無と行く、有と来るんです、能書きなしもっとも親切、取り付く島もなし=仏教を知って入門です。はいどこまで行っても取り付く島もないです。史記にあるという、趙の恵王楚の和氏より璧、玉です、を得たという、秦の昭王十五城をもって之に易う、姜相如璧を奉じて秦にいたる、璧をもってきたら美女を侍らしみなして万歳とやった、姜相如これは城をくれる意志なしと見て、玉にきずがあるちょっと見せてくれといって、取り返す云々です。これはまあ無といい、有といってのちの、佗の知るが故に犯す、伊に業識のあるがためなりの蛇足を頌すんです、きずを指摘して玉を奪う、美食飽人底の喫する能はず、首くくる縄もなしに失せて玉露宙に浮かぶんです、これを摩尼宝珠。


画像の出典  2004年・津軽/方丈の旅の記録より
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by tozanji | 2005-02-23 08:41 | 従容録 宏智の頌古

第十七則 法眼毫釐

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 衆に示して云く、一双の孤鴈地を搏ちて高く飛び、一対の鴛鴦池辺に独立す。箭鋒相柱ふことは即ち且らく致く、鋸解秤錘の時如何。

挙す、法眼脩山主に問う、毫釐も差有れば天地懸かに隔たる、汝作麼生か会す。脩云く、毫釐も差有れば天地懸かに隔たる。眼云く恁麼ならば又争でか得ん。脩云く、某甲只だ此の如し和尚又如何。眼云く毫釐も差有れば天地懸かに隔たる。脩便ち礼拝す。

 一双なら孤鴈じゃないではないかという、なに孤鴈が一双です、これを知れるは出世間の出来事です、なみの考えじゃ届かんです、コンセンサス情識を免れる、たった一人になること色即是空です、地をうって高く飛ぶ孤鴈が、本則じゃなんせ二羽いるから一双。おしどりは鴛が雄で鴦が雌繁殖期しかいっしょにならんそうですが、仲睦まじい、池辺に独立です。師弟これ五百羅漢これ、たとい一千も他にありようはないんです。
 箭鋒あいささうは、弓の名人同士が争って、百歩離れて弓を射たら、矢尻と矢尻がうっつかって尽く落ちたという、列子陽問篇の故事、宝鏡三味にあります、そんなめんどうこといらん、いつだってぴったり、木人まさに歌い石女立って舞う、虚空の中の虚空です、過りっこない。
 鋸の山と谷みたい議論は、仏と外道の問答なんぞに出て来ます、こう云えばああ云う、たとい鸚鵡返しでも、そりゃ仏はまったく違うんですが、本則はさにあらず。毫釐も差あれば天地懸かに隔たる、坐っていて実にこれなんです、坐って坐って坐り抜いて、仏教辺のことはなにもってつうかあです、しかも本来のものではない。ほんとうの自由が得られない、あるいは得られていないことに気がつかない。どうしようもない、人間正直なもので釈然としないあとかたがあります。坐は楽うになるんですが、楽な上にも大安楽、かすっともかすらない上にもかすらないんです。
 思想人生観上毫釐も差あれば天地懸絶します、思想人生観なぞいうと笑われますが、結局は他にないんです、戒を第一安穏功徳の諸住所となすと、はいわしの人生観です、なるほどなあと思ったら忘れる。これ毫釐も差あれば天地懸絶と、なるほどなあということあったんでしょう、しかもおまえは非という、じゃあどうなんだと聞く。毫釐も差あれば天地懸絶といわれて、礼拝して去るんです、まずもって云うことないですな。

頌に云く、秤頭蝿坐すれば便ち欹傾す。万世の権衡不平を照らす。斤両錙銖端的を見るも、終いに帰して我が定盤星に輸く。

 天秤は蝿が一匹止まっても傾く道理で、ここには中国というか、むかしの棹秤の熟語が並んでます、秤は準衡権よりなる、準はつな衡はさお権はおもり。おもり重量の単位を、八銖で錙、三錙を両、十六両を斤ですとさ。定盤星は遊びというか無駄めもり、人間=はかりということあるでしょう、省みて下さい、たいていの人銭勘定ですか、これを何に標準をおくかというのが坐禅という、違いますか。
 他に標準をおく間はさまにならんです。万世の権衡不平を照らす、四苦八苦ということを知るには、まさに標準のうしてです、標準失せると自分自身が標準とは、斤両錙銖端的、ぴったり実にそのものです。もと蝿一匹とまってもというこれがありよう、さびっかす、妄想執念を免れてこうなるってわけです、でもって仏法という定盤星に負ける、無駄めもりにお手上げ万歳ってわかりますか、アッハッハなーんかぴったりです。


画像の出典  2004年・津軽/方丈の旅の記録より
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by tozanji | 2005-02-22 08:05 | 従容録 宏智の頌古

第十六則 麻谷振錫

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 衆に示して云く、鹿を指して馬と為し土を握って金と為す。舌上に風雷を起こし、眉間に血刃を蔵す。坐ながらに成敗を観、立ちどころに死生を験む。且く道へ是れ何の三味ぞ。

 挙す、麻谷錫を持して章敬に到り、禅床を遶ること三匝、錫を振るうこと一下、卓然として立つ。敬云く、是是。谷又南泉に到り、禅床を遶ること三匝、錫を振るうこと一下、卓然として立つ。泉云く、不是不是。谷云く、敬は是と道ふ、和尚什麼としてか不是と道ふ。泉云く、章敬は即ち是是、汝は不是。此れは是れ風力の所転、終に敗壊を成す。

 鹿を指して馬となし、なんか馬鹿なこと(故事はすなわち馬鹿の始まり。)を云ってんですが、これ平常もののありようと、人みなの持って回る落差ですか、情識界に溺れるのへ手を差し伸ばす。どうしたってそういうこってす。土と思い込む金だという、金と思い込む土だという、ちっとは眼晴ですか。二人の弟子がいて一は坐るに坐ってさっぱりです、一は適当にさぼってらちあかん、二人ともお払い箱にしたい、舌上風雷眉間血刃、アッハッハ匙を投げてなんにも云わんですか。親切この上なしは、是是よしよしといっちゃ春風駘蕩ですか、さあこれなんの三味ぞ、師はこれ三味わしらはしからずと、一向にそんなこたない、たといお経読んだろうが、同じいに三味ですよ。
 麻谷まよく麻谷山宝徹禅師、馬祖道一の嗣、章敬懐輝、百丈ともに馬祖の弟子、ちょっとばかり麻谷の悟るのが遅かったんですか、章敬のもとに行き、禅床をめぐること三匝、匝は三回でいいです、ぐるっと回るんです、そうして錫しゃくは杖の頭に鈴が付いて、托鉢行脚の持ち物、鈴をふるって突っ立った。章敬是是、よしよしと云ったんです。ぶん殴られるの覚悟で命がけでやったんですか、清水の舞台から飛び降りた。捨身施虎は一回切り、食われちまえば跡形も残らない、いえ骨は残ったってそりゃ残骸です、命消える。ところが消えなかった、しめしめってなもんで百丈のもとへ行き、禅床を遶ること三匝、錫を振るい卓然として立つんです、百丈不是。
 章敬は是といったのになんで不是だと聞く、百丈云く、章敬は是汝は不是と。こりゃこれでおしまいなんです、これはこれ風力の所転アッハッハところてん押し出すのは蛇足ですよ。なんの為の仏道修行ですか、禅坊主のありよう、見せるためじゃないんでしょう、わずかに一箇の本来性、満足大安心の故にです、自由の分なければ、馬鹿の薬です。がらくたこさえるだけです。
 成句があるんですな、維摩経方便品に、是の身は作無し、風力の所転なり。楞厳経瑠璃光章に、この世界及び衆生の身を観ずるに皆是れ妄縁風力の所転なり。
 だからといって、この世ははかないというのは俗説です、すなわち200%生死同じなんですよ。

 頌に云く、是と不是と、好し椦きを看るに。抑するに似たり揚するに似たり。兄たり難く弟たり難し。従也彼れ既に時に臨む、奪也我れ何ぞ特地ならん。金錫一たび振るうて太はだ孤標。縄牀三たび遶って閑ざりに遊戯す。叢林擾擾として是非生ず。想ひ像る髑髏前に鬼を見ることを。

 是と不是とよし椦き、きは衣へんに貴、糸のことけんきで罠、罠を設けたというわけではないんですが、ひっかかる間は使い物にならんです。抑揚上げたり下げたり、是と云われれば嬉しく、不是と云われればどうしてだと聞く。是非善悪に関わらずという、自分=知らないという、達磨さんの本来に落着しないかぎり、おれはいいおまえは悪いやるんです、悟っているか悟ってないかやるんです。わかりますかこれ。
 難兄難弟、東漢の陳元方が子長文と、季方が子孝光と、各その父の功徳を論ずるに決せず、太丘にはかる、太丘云く、元方兄たること難く、季方は弟たること難しと。
これまあ参禅にこういうことしている間は、そりゃどうにもならんです、よくよく顧みて下さい、奪おうが従う、ほしいままにしようが、そうやっているそのものなんです、死ぬとはそうやっているものが死ぬんです、でなかったらそりゃ楽ちんです。いえほんとうの安楽に入って下さい、とやこうの自分を脱する、身心ともに解脱する=是非善悪に管しないんです、そうして錫を一下卓然として立って下さい、天地そのものになって遊戯三味です。
 擾は騒がしい、そりゃどこの叢林、僧堂も是非善悪騒がしいですか、良寛さんの叢林は子供たちだったです、これはこれまたどえらい対大古法だったです。いやわしなんぞにはとうていできない、たとい髑髏前に鬼を見る底去って春風駘蕩も、世にいう良寛さんの絵に描いた餅はないです。


画像の出典  2004年・津軽/方丈の旅の記録より
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by tozanji | 2005-02-21 09:15 | 従容録 宏智の頌古

第十五則 仰山挿鍬

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 衆に示して云く、未だ語らざるに先ず知る、之を黙論と謂ふ。明かさざれども自ずから顕はる、之を暗機と謂ふ。三門前に合唱すれば両廊下に行道す。箇の意度あり、中庭上に舞ひを作せば、後門下に頭を揺かす、又作麼生。

挙す、い(さんずいに為)山仰山に問ふ、甚麼の処よりか来たる。仰云く、田中より来たる。山云く、田中多少の人ぞ。仰山鍬子を挿下して叉手して立つ。山云く、南山に大いに人有って茆を刈る。仰鍬子を拈じて便ち行く。
 黙論暗機ですか、風物ものみなぜんたいならざるはなし、山川草木鳥もけものもそうでしょう、人間だけがなぜか中途半端ということがあります。思想といい論文と云い宗教といい哲学というんでしょう、いずれ届かない、どうにも不満足です。信ずるものは救われるという、空の雲も花もそんなこと云わんです。信不信に依らずと云えば少しは当る、心して狭き門より入れという、では狭いきりだ、ついには100%信じろという、信じ切るとは忘れることだ。ここに至って黙論暗機です。
 黙論暗機を卒業すると、平和な地球のお仲間入りです。三門山門に同じ、空夢相無作の三解脱という、なんにもないんです、自分に首を突っ込まない。つうといえばかあというのは、言語上ですか、お経も行道もそりゃ日常茶飯です、舞いを舞えば頭をゆりうごかす、アッハッハがきだね、腮を取っちまって下さいよ。仏教のありよう個々別々。
 個人という根本です、囲わないんです、まさに手続き不要なんです。本則はこのまんまに見ておけばいい。い山霊祐禅師は百丈懐海の嗣、仰山慧寂禅師はその嗣、併せてい仰宗の祖、い山仰山と茶を摘むついで、山云く、終日茶を摘む、ただ子の声を聞いて子の形を見ず。仰、茶樹を撼がす。山云く、子ただ用を得てその体を得ず、仰云く、いぶかし和尚如何。山良久す。仰云く、和尚はその体を得てその用を得ず。山云く、子に三十棒を放つ。仰云く、和尚の三十棒はそれがし喫す、それがしの棒は誰をして喫せしめん、日く子に三十棒を放つ。これい山摘茶の公案というんだそうです。
 公案とは実際にあったことです、はーいまったく一回切りです。独創などいうインディビデュアルを超えています。

頌に云く、老覚情多くして子孫を念ふ、而今慚愧して家門を起こす、是れ須らく南山の語を記取べし。骨に鏤ばめ肌へに銘じて共に恩を報ぜよ。

 南山は天子の尊位、茆はかや、茆を刈るは百姓の卑位、田中より来たる乃至鍬を挿して叉手すより、天地宇宙まさに他なしの、師弟のみあって平らかなさまを頌すんです、そいつをまあ、お涙頂戴、こっぱずかしいやとは云いえて妙、頭ぶん殴ってやろうずの思い。骨にちりばめ肌へに銘ずというこれ、百歩遅い言い種もなんかびったりっていう、そっぽ向きたくなるところがよろしい。


画像の出典  2004年・津軽/方丈の旅の記録より
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by tozanji | 2005-02-20 11:04 | 従容録 宏智の頌古

第十四則 廊侍過茶

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 衆に示して云く、探竿手に在り、影草身に随ふ。有る時は鉄に綿団を裏み、有る時は綿に特石を包む。剛を以て柔を決することは、即ち故さらに是、強に逢ふては即ち弱なる事如何。

挙す、廊侍者徳山に問ふ、従上の諸聖什麼の処に向かって去るや。山云く、作麼作麼。廊云く、飛龍馬を勅点すれば跛鼈出頭し来る。山便ち休し去る。来日山浴より出ず、廊茶を過して山に与ふ。山、廊が背を撫すること一下。廊云く、這の老漢方に始めて瞥地。山又休し去る。

 深竿影草盗人の用いる道具、転じて師家の手段です、どうだと云うんでしょう、持ってるやつは自ずから現れ、草の影にも飛びつく、だからこうせにゃってこっちゃない、心身もてです。ないものはあるものを滅却ですか、あるときは鉄に綿を包み、あるときは綿に石を包みする、ノウハウがあるわけじゃないです。最良手段じゃない、それっきゃないんです。
 徳山宣鑑禅師は、青原下四世龍潭祟信の嗣、金剛経を背負ってやって来て、ばあさんに三心不可得いずれの心もて団子食うかと問われて、龍潭和尚を訪ねる、灯を吹き消されて忽然大悟。そりゃもうしっかりしてるんです。廊侍者、従上の諸聖、お釈迦さまはじめ仏祖方です、いずれの処に向かってか去る、悟り切った人はどうなると云うんです。困ったねえ、答えがわかってる人をアッハッハそもそも、云ってみろよってわけです、云うはしから倒壊すりゃいいんですがね、廊侍者云うも云いえたり、勅点は天子が勅命をもって点呼とある、飛龍馬西遊記の馬みたいなんですか、を呼び出したら、びっこの亀が出て来たという、けっこういいとこ行ってんですがね。
 これを落とすには便ち休し去るんですか、誉めてもけなしても、うなずいても増長慢という、無記ですか。見よというんですか。すでにして答えが出ているんですか。
 他日風呂から上がった徳山に廊侍者お茶をさし出す、その背中を撫でた、這の老漢まさにはじめて瞥地を得る、なんとまあまた休し去らんきゃならん、さて三回目はどうしますか、忘れたっても相手来りゃ思い出す。

頌に云はく、覿面に来たる時作者知る、可の中石花電光遅し。機を輸く謀主に深意有り。敵を欺く兵家に遠思無し。発すれば必ず中る。更に誰をか謾ぜん。脳後に腮を見て、人触犯し難し。眉底に眼を著けて渠れ便宜を得たり。
 覿面に来るとは真っ正面です、ただということ、人の喧嘩はおれがいいおまえがわるいだからとやる、鳥獣の喧嘩はそんなことせんです、縄張り争いはあっても喧嘩はないですか。虎の威を仮る狐じゃなくって、作者になって下さい、自ずからです、何万回しようが一回きりです。生きているってだけです、機というただこうあるっきりですよ、禅機なぞいうものないです。
 作り物は壊れもの、水は方円の器、機を以てすれば一歩遅いんです、そうではない他なしです。輸は負ける、廊侍者機峰鋭くですか、飛龍馬を勅点すれば跛瞥出頭とやる、ぶんなぐったら化けて出る、根本を切らねばだめです、おだてあげてさっと手を引くってのもあり、でもまあもう一枚切れ味のいい徳山輸機ですか。
 深意有りも遠思無しも、徒労に終わるんです、発すれば必ず中る底は、たとい坐禅只管打坐ですよ。どんなふうなめちゃくちゃだろうが、必ずそれ、当たり前だその他ないんです。とたんにふっ消えて百発百中は、なんにもないんですよ。
 脳後に腮は、えらのあるやつは悪者、油断がならんという、師家についてどうもそんなこと感じちゃだめです、眉底に眼なんか著けないんですよ、そんな持って回るこたいらんです、いつたい百発百中の他ないんです、いいですか最後に残った仏法です、勅点するそいつを失う、すなわち命失うんです、この世の存在を払拭です。飛龍馬も跛瞥もないんです、はじめて瞥地を得るという、無意味なんですよ。いやさ、だからといって無気力投げやりとは別個です。


画像の出典  2004年・津軽/方丈の旅の記録より
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by tozanji | 2005-02-19 04:01 | 従容録 宏智の頌古