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第三則 東印請祖

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 衆に示して云く、劫前未兆の機、烏亀火に向かふ。教外別伝の一句、碓嘴花を生ず。且らく道へ、還って受持読誦の分ありや也た無しや。

挙す東印度の国王二十七祖般若多羅を請して斎す。王問ふて日く、何ぞ看経せざる。
祖云く貧道入息陰界に居せず。出息衆縁に渉らず。常に如是の経を転ずること百千万億巻。

 情識の至るに非ずむしろ思慮を容れんや、木人まさに歌い石女立って舞う、とあるように、劫前未だ兆さずの機、もと我らがありようです、兆してもってこうありああありだからと行く、なに思想機用はそりゃそういうこったですが、それを人格と思い自己と思い込むから間違う。そりゃどっちかというとお客のほうです、これを情識という、情実常識ですか。別にだからってことないんですが、いったんはこれを離れるんです、烏亀火に向かう、功巧によらんことを知るんです。
 仏教はだから自分という常識の交通整理じゃない、仏教という能書きト書きじゃないんです、それらを容れる器なんです。どうもまずもってこれを知らんけりゃどうにもならんです。
 INなどすると10人のうち一人そうかと思い当たる、あとは他山の石ですか、とやこうああでもないこうでもないする、ちょこっとぶち破ろうとすると、アッハッハどっか行っちまう。
 だがこうと知っていざやり出すとなかなかなんです、死ぬことはだれでも出来る、老若男女貧富の差能のあるなしによらぬ、一瞬死にゃいいんです。それができない。
常識情実に固執して、捨てるはずが獲得し、死ぬための修行が生きるに化ける、なんともかあともなんです。
「坐るしかないのはたしかだ、だが坐ったらいいっての違う、どんなに坐ったってそりゃなんにもならない。」
 叩こうが喝しようが届かぬ。一転するんですよ、
「自分がなくなって寒さ、辛さばっかりになる、とたんに寒さも辛さも失せ。」
 という、逆境こそ親切。
 斎はおとき、供養のご馳走です、どうしてお経を読まないんだというのは、おときに着く前にお経を上げる習わしです、届かぬやつ相手に、届かぬやつが考えた便利お粗末、飯ありゃ食えばいいそれっきり、いいですかそれっきりができんのです。入息陰界とは体のこと、息を吸い込んでも体に入らない、実感なんです、まったくこの通りです、出息衆縁にわたらず、息吐いたって外へ出ない、ぜんたい我ならざるはなしとは、ついに我なしをどうか手に入れて下さい、たとい国王のぶつくさもどこ吹く風ですよ、したいやつにはそうさしとけってだけの、愚の如く魯の如し、臣は君に奉し子は父に順ずるんです、お経を読んだら賢いという、有用しゃば世界じゃないです、常に恒に、転ずること百千万億巻、そう云えばまったくの実感、云わずばそんなもんないです。
 直指人身見性成仏、不立文字教外別伝という、そりゃ他まったく役に立たんのを知って下さい、食い物の説明描いた餅みたって、腹いっぱいにならんです。碓嘴これ口なかったっけ、石臼のへりにも花が咲くっていうんです、作り物は壊れ物ばっかりの世の中、ついには心身症どっ気違いを、一枚ひっぺがして本当。

頌に云く、雲犀月を玩んで燦として輝を含む。木馬春に遊んで駿として羈されず。眉底一双碧眼寒し。看経那んぞ牛皮を透るに到らん。明白の心曠劫を超へ、英雄の力重囲を破る。妙円の枢口霊機を転ず。寒山来時の路を忘却すれば、拾得相将って手を携えて帰る。

 犀は月をもてあそぶと云われている、まあそんなんに坐って下さい、木馬、すぐれた馬というより人知衆縁によらんところがいいです、注釈じゃないそっくりそのまんまに味わって下さい、アッハッハ文人才子の届く能わずってね。牛皮に透るは、えーとだれであったか、弟子どもにはお経にかかずらわるなと云っておいて、自分は声明など口ずさむ、なぜかと問うたら、おまえらは眼光紙背に徹するからいかんと云った。世間のいう理解など中途半端、よこしまにするだけなんです。お経とうぐいすのホーホケキョ烏のかあと同断は、無意味雑っぱじゃないんです、完全に理解する=忘れるからです。良寛さん正法眼蔵の提唱中に大悟したという、はたして如何、忘れ去るときお経いかん、面白いんですよこれが、ちらとこの世に残っていると、わかるとはこういうことかと実に納得するんです、でもってそいつを忘れ。
 碧眼は達磨さんと同じインド人です、明白英雄曠劫を超え重囲を破る底、まさに碧眼一双寒しです、はいやってみて下さい、ふっと笑うと百花開くんです、これなに赤ん坊そっくり。霊とは幽霊と、ものみなのありよう、衆縁陰界という内外がないんです、そういう思い込みが失せてもって説教です、でなきゃどう説いたって嘘になる、近似値ほど害はなはだってこと。寒山拾得はどうもやっぱり実在の人物ですよ、山中の岩に落書きしたのが残って、寒山詩と伝わるんです。わっはっはなんてえ大騒ぎの偈頌ですか。


画像の出典  2004年・津軽/方丈の旅の記録より
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by tozanji | 2005-02-08 12:04 | 従容録 宏智の頌古

第二則 達磨廓然

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 衆に示して云く、卞和三献未だ刑に遭うことを免れず、夜光人に投ず、剣を按ぜざる鮮なし、卒客に卒主無し。假に宜しゅう真に宜しからず。羞珍異宝用不著。死猫児頭拈出す見よ。

挙す梁の武帝達磨太子に問う、如何なるか是れ聖諦第一義。磨云く、廓然無聖。帝云く、朕に対する者は誰そ。磨云く、不識。帝契はず。遂に江を渡って少林に至って、面壁九年。
 卞和三献は、卞和という人が玉を得て、楚の霊王に献ず、偽物を献じたといって足を切られ、武王即位してこれに献じ、また足を切られ、文王立つに至って玉を抱いて泣く、足を切られるは恨まず、真石を凡石となし忠義を欺瞞とされしことを恨むと、文王石を見るに即ち真玉なりとある。
 夜光投人は、鄒陽の詞、明月の珠、夜光の璧、暗を以て人に道路に投ずれば、剣を按じて相眄りみざるなし、何となれば因無うして前に至ればなり。眄ベンはながしめ横目に見る、鮮すくなしと読む。
 死猫児頭、僧曹山に問う、世間何物かもっとも貴き、山云く、死猫児頭もっとも貴し。なんとしてか死猫児頭もっとも貴き、師云く、人価を著くるなし。

 まあこれは本則の説明予防措置です、卞和三献は漢文の教科書にあった、足をあしきるという、あしきるという漢字があったな、ひでえこったと魂消た思いがある、とかく従容録は故事来歴が多い、衰微の兆候だつまらんといってないでアッハッハ勉強すっか、本来をお留守に注釈ばっかりという、有害無実ですか。
 梁の武帝は実在の人物で一代にして国を興し、とかく仏教に入れ揚げて、仏塔を建て坊主を供養し、自らも放光般若経なるお経を講義し、天花乱墜して地黄金に変ずるを見たという心境です。これをもって活仏仏心太子なる達磨さんに会う。如何なるか是れ聖諦第一義、仏教のエッセンスは何かと問う、磨云く、廓然無聖、エッセンスなんてないよ、個々別々ですか、がらんとこうあるっきり。なんだと、ろくでもないことこきゃがって、祖師西来鳴物入りでやって来た、わしの前に立っているおまえさんは何者だってんです。朕に対するは誰ぞ。磨云く、不識。知らないっていうんです。
「知らない。」
 この則の、どうですかというのはこれです。知らないって云えますか、なにかちらともらしいものあれば不可です。ちらともあるみんな嘘です、自分という嘘によって、知っているという偽によって世の中騒然です、戦争あり平和あり宗教あり思想ありする、地球をないがしろにする不幸そのものです、いらんことばっかりしている、歴史というがらくたの堆積です。
 花は知らないという、空の雲も水もいえけものも鳥もたいてい知らないの仲間です。
「早く人間も、知っている分を卒業して下さい。」
 そうしたら本当の大人になる、よって地球ものみなのお仲間入りですよ、お釈迦さまはそう云ったんです、これ仏、これ仏教の威儀です。
 如何なるかと問うときに馬鹿なやつほど、答えを知っている、そいつをなぞくってくれりゃそれでいいってんです、まるでなってない。天花乱墜地変黄金と云って欲しかった、要するに思想観念上のことです、奇跡といいパプテスマというもそれですよ、気違いの道です、結局は収拾が着かないんです、三つ巴にあい争うっきゃない。
そうじゃない、からんとなんにもないとはぜんたいです、個々別々です、まさにかくのごとくならば印下、ほんとうにやってごらんなさい、他のとやこうまるっきりかすっともせんですよ。
 せっかく卞和三献も三たび足切られですか、一般常識妄想ひっかきまわすっきり、仏の言はそりゃ通らないです。アッハッハ宗門が一番不通だったり、へたすりゃ殺されます。とかく知っている分かったことに終始する、夜光投人かくねんむしょうも不識も、卒客に卒主、ふわふわいいかげんは是、真実不虚には剣を按ずるんです、みなさん梁の武帝かしからずんば達磨さんかのどっちかですよ、そうです中間はないです。
 したがい江、揚子江をわたって少林寺に面壁九年。

頌に云く、廓然無聖、来機逕庭。得は鼻を犯すに非ずして斤を揮い、失は頭を廻らさずして甑を堕す。寥寥として少林に冷坐し、黙々として正令を全提す。秋清うして月霜林を転じ、河淡うして斗夜柄を垂る。縄縄として衣鉢児孫に付す。此より人天薬病と成る。

 せっかく廓然無聖も、仏という知らんものが挨拶、たとい痛棒一喝も届かず、ぶち破ることができなかった、逕庭は距離のあること。得は以下荘子にある、匠石という達人が斤、斧を揮って風を起こし、鼻を傷つけず、たかった蝿をことごとく追っ払ったという。武帝の武帝たるを破らずたかった妄想だけを払う、そりゃだれあってそうしたいところだが、せっかく親切もたいてい破り傷つける。人はいらんことに意を用いる、自分のよしあしじゃないんです、それがそのまんま転ずる外なく。失はという、孟敏という人、担っていた瓶が地に落ちてこわれたのを顧みずに行く、どうしてかと聞いたら、すでにこわれたものを、顧みたってなんにもならんと云った。故事なくたってまあそういうこったが、帝契わずさっさと去るわけです、参禅にはこれ是非善悪顧みぬこと、ものはやりっぱなしです、これができると直きですよ。一瞬前の自分はないんです、しかり今の自分もないです。
 寥寥冷坐黙々として正令を全提して下さい、まったく手つかずのただ。他入る余地がないんです。河は天の川斗は北斗七星、綿々としてが縄縄になって、織りなす古錦春象を含むが、此より人天薬病と成るですよ。そうです病に効く薬はこれっきゃないです。


画像の出典  2004年・津軽/方丈の旅の記録より
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by tozanji | 2005-02-07 03:50 | 従容録 宏智の頌古

第一則 世尊一日陞座

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従容録 宏智の頌古
万松老人、天童の覚和尚の頌古を評唱する従容庵録

  第一則 世尊一日陞座

 衆に示して云く、門を閉じて打睡して上上の機を接し、顧鑑頻申曲げて中下の為にす、那んぞ曲碌木上に鬼眼晴を弄するに堪えん、箇の傍らに肯わざる底あらば出で来たれ、也た伊を怪しむことを得ず。

挙す世尊一日陞座、文殊白槌して云く、諦観法王法法王法如是。世尊便ち下座。

 頌に云く、一段の真風見るや也た麼しや。(特地に眼を飄入せしむること莫れ、出ること還って難し。)綿々として化母機梭を理む(参差蹉了るを交う。)織り成す古錦春象を含む(大巧は拙の如し。)東君の漏洩を奈何んともすること無し。

 陞のぼる、世尊お釈迦さまが一日座に上る、文殊白槌して、カンと槌を打って大衆に告げるんです、諦観法王の法である、法王法かくの如しと示す、用事が終わった、世尊座を下るというのです。
 挙す、さあどうですかというんです、さあどうですか、お釈迦さんのようになって下さい、他なしです、第一則一番難しいです、通身もって、
「どうですか。」
 という、これができるかできないか。山川草木空の雲も天空の星もぴいと鳴く鳥も、まさにこうあって長口舌、法王法如是と示す、だれあって、人間の如来は人間に同ぜるが如し。
 いったんまず自分を去る、坐っても坐っても自分という従前の我を反芻し、嘗めくりまわして、どうして行かないんだとか、だいぶよくなったとか云っている、あるいはもうすぐという、百年河清を待つです、そうではない諦観です、自分といういらないものを捨てるんです、すると体もなければ心もない、生まれる以前死んだ後です、おぎゃあとこの世に生まれるとは、実にこのように生まれるんです、物心つく以前の赤ん坊は、恐ろしいほどの目をしています、宇宙の一欠片です、これを如来来たる如しといいます、七歩歩んで、六道輪廻を一歩抜け出でて、天上天下唯我独尊事です、文殊白槌して日く、諦観法王法如是、一枚自分というお仕着せですか、着たきり雀を脱げというんです、元の木阿弥はもとこのように現じている真箇です。
たしかに自分がまったく失せる、たとえば映画を見ると画面が自分です、すると見終ってなんの印象もない、覚えていることは思い出せばちゃんとある、哲学文学出身の人が、あれはああでこうでどちらかと云えば駄作でと批評する、このばかったれめがと喝す、あれはああなんだという以外になく、すなわち彼が批評の寸足らずを示す、届かないよというんです。
はたしてわしが世尊陞坐しんぞと読むんですがね、これ可か不可か、あるときは可あるときは不可、いいえ自覚症状なんかないです、多少ともこれが一則に参ずること一生をもてするんです。

門を閉じて、法らしいことのなんにもなし居眠りして上機を接し、機とは機峰だの禅機だのいう、なにそんな特別ないんです、どっかつまってるのが外れているだけです、目から鼻へじゃなく目鼻なし、一から十じゃなくもとぜんたいです、それ故中下も下下もいつか必ず上機です、如来あって如来に同じゆうする他なく。顧鑑頻申は振り返り身ぶりする、つまりだから理屈、間髪を置かずです、渇したり押し出したり、手段するんです、たまたま効くこともある、なかんずくそうは行かんですか、曲碌は今でも坊主が葬式法要に坐す、中国風真っ赤な椅子です、もと自然木を曲げてこさえた、鬼眼晴は、なんしろぶっ殺す以外に方法はないんです、貧乏人からゼニをふんだくる手段です、従前の自分というぬくぬくそこへ収まりついて、悪臭ふんぷんたるパンツをさ、脱いでみないとどっ汚さに気がつかん、どうしようもこうしようもないんです、しばらく匙を投げ。
 さあ文句あるやつは出て来い、他のこっちゃない、なでたりさすったりのしゃば一匁じゃないってこってす、取り付く島もないんです、取り付く島もないとわかったら、半分卒業です、アッハッハ取り付く島もないのほかに、仏も仏教もないんですよ。

 真風見るや、一段とはこの一則です、他にないんです、一般の人は妄想を除き真実を求めするんでしょう、そいつの裏腹破れかぶれです、つまらない人生、豚箱に入らなけりゃ自分で自分を豚箱に入れとか、アッハッハすっちゃかめっちゃかですか。だれかれ心身症の世の中、みなどっかおかしいんです。信仰がないからだという、たしかにそういうこったが、夢より出でてまた夢じゃしょうがない、真風見るや、いろんな着ているものあっさり脱げばそれでいいんです。
 もとこのとおりあり除くも求めるもないことを、身をもって示す。
 特別を云えばかえって狭き門です、抜けられない一神教、狂信をもってすじゃ、あほらしんです、100%信ずることは忘れるってこってす。忘れ去って、綿々機俊おのずから造化の神です、そのようにもと作られているんですか、なすことすべて是、良寛さんの書のようです、春象を含む人間本来のありようです、他の説得どうかしてこれをという、二の次三の次ですか、しかも東君の漏洩、東君春の神さまこれは文殊菩薩、いかんともしがたしです。
 るは糸へんに咎と書いて糸のこと、しんしさりょうは機を織る梭ひがあっちへ行ったりこっちへ来たり、糸を含むはあたりまえ、どうもせっかく第一則の頌は面白うにもなくと云ったら叱られるか、でも綿々として今に至る、ただじゃあただが得られないんです。
 大巧は拙の如し、よくあと絶えはてて下さい、あれ一句忘れたかまあいいか、面倒くさ。


画像の出典  2004年・津軽/方丈の旅の記録より
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by tozanji | 2005-02-06 13:59 | 従容録 宏智の頌古