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第三十八則 臨済真人


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 衆に示して云く、賊を以て子と為し、奴を認めて郎と作す。破木杓は豈に是れ先祖の髑髏ならんや。驢鞍驕は又阿爺の下頷に非ず。土を裂き茅を分つ時如何が主を弁ぜん。

挙す臨済衆に示して云く、一無位の真人有り、常に汝等が面門に向かって出入す、初心未証拠の者は看よ看よ。時に僧有りて問ふ、如何なるか是れ無位の真人。済禅牀を下って檎住す。這の僧擬議す。済托開して云く、無位の真人甚んの乾屎 ぞ。

 無位の真人面門に現ず、知慧愚痴般若に通ずという、すると一僧出でて、無位の真人何れに在りやと問う、その胸倉つかんでこらってんです、檎はてへんです、きん住生け捕りです、まごまごしてるやつを突き放して、無位の真人是れなんのかんしけつ、くそかきべらというのと、でかかった糞が出切らずに乾いて固まったというのとあるんですが、どちらもぴったり。人間思想分別、未消化うんち他人の食いかすをです、ひりだしたのを引っ掻き回すんですか、出切らずに固まったやつくっつけて歩いているんですか。正法眼蔵だなと本を書いてとやこう、どっ汚く醜いのは、まさにこれ乾屎厥、臭いしまあなんとかして下さいよって思うです。身心脱落、自分とい
うどうもならんの、賊を子となし奴隷を主人となしですか、こいつを正に免れるよりないんです、ぶっこわれひしゃくを以て祖先のどくろとなす、アッハッハ云いえて妙です、どっちも役立たずを後生大事する、世間一般これ、驢あんきょうろばの鞍、いっぱしの男が股がるにはです、そこらじっさのしゃべり中気の顎ですか、まあいいとこです。土を裂き茅を分かつは封土を安堵するたとえのようです、無位の真人たるを知る、もとっこ無舌人の弁、臨済一掌を与える、ぶんなぐるかつきっころばす、托開です、この僧うわってなもんで呆然、するとわきにいたのが、裾引っ張って、なんで礼拝せざる、お拝せんかという、僧拝する途中ではあっと気がつくんです、無位の
真人面門に現ずる、かんしけつ雲散霧消です。もとっからそうです、取り付く島もないんです。

頌に云く、迷悟相ひ反し、妙に伝えて簡なり。春百花を拆かしめて一吹し、力九牛を廻らして一挽す。奈かんともするなし泥沙撥らへども開けざることを、分明に塞断す甘泉の眼、忽然として突出せば、ほしいままに横流せん。師復た云く、険。

 迷いあれば悟りありです、あい反するところを一掃するにはどうしたらよいか、迷悟。念起念滅のまんまに面門に現ずるんです、無位の真人という、おれがというなにがしかを去って下さい、去るほどに全体なんです、アッハッハどこまで行ってもそれだけ、これを妙に伝えて簡なりです。大死一番でしょう、自分という取り柄がなんにもなくなるんです、死ぬとは正に死ぬ、すると百花花開いて春を現ずるんです、拆は土へんでたくと読む、ひらくの意です。これどんともう一発驚天動地という、どえらいこったには違いぬが、しみじみといったら情堕ですが、なんという淡いというか、しかも歓喜これに過ぎたるはなし。おれにはまだそんなものない、だからといって別
もの求めないで下さい、死ぬはずが生きようとする、とやこうのそのおのれを托開、突き放すんです。向こうからやって来るんです、向こうにある。力九牛を廻らして一挽する、迷悟そのまんま一掌ですよ。だからおれはしないんです、かんしけつのまんま、分明に塞断する蛇口です、忽然突出よりないんです、なにしろここに気がつくことです。臨済棒喝もなーるほどってわけです、趙州説得は能書きじゃないんです、いってみりゃどんでん返しですか、転法輪、だからどうの世間一般じゃらちあかん、険。

画像の出典  オーストラリアの野生植物/方丈の旅行記より
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by tozanji | 2005-03-31 00:00 | 従容録 宏智の頌古

第三十七則 い山業識

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 衆に示して云く、耕夫の牛を駆って鼻孔を曳廻し、飢人の食を奪って咽喉を把定す。還って毒手を下し得る者ありや。

挙す、い(さんずいに為)山仰山に問ふ、忽ち人有りて、一切衆生但だ業識茫茫として本の拠るべき無きありやと問はば、作麼生か験みん。仰云く、若し僧の来たることあらば即ち召して云はん、某甲と。僧首を廻らさば乃ち云はん、是れ甚麼ぞと。
彼が擬議せんを待って向かって云はん、唯業識茫茫たるのみに非ず亦乃ち本の拠るべきなしと。い云く善い哉。
 い山霊祐禅師は百丈懐海の嗣、仰山慧寂禅師はその嗣、い仰要路というものあり、まことにこの則も善き哉で、寒山拾得のつうかあですか、他なくにこうあるところ見事です。即ちい山不要の衆に示して云くです。耕夫の牛を駆って、鼻かんに綱つけて引っ張り回す、でないと手におえんらしいです、業識茫茫のとらわれ人間、無明煩悩どうしようもないんです、それがしと云って操縦するんですか、首を廻らせば是れなんぞ。アッハッハ今様人間の心理分析だの、めったくさとまるっきり違うんです、本当に効く薬はどうありゃいいんです。彼が擬議する、はてええとおれはやるんです、応えがない、応えようのない、飢人の食を奪って咽喉を押さえこんじまう、死ぬよりないっていう猛毒薬、ころあいはよしってんで、さよう業識茫茫たるのみに非ず、本のよるべきなし、根拠なし、まったくに奪う、いえ救い得るんですよ。如何なるか仏法の真髄、真髄でなくって皮袋だろうという。
 富士テレビとライブドアの一騎討ちですか、他山の石ですが、みにくいったらじじいども、嘘と裏腹ですか、いきなり屋の若い方がよほどすっきりする。たしかにテレビは面白くない、マスメディアという早晩滅びるんですか、云はば拠って立つところがない、視聴率に溺れて茫茫ですか、それじゃINはどうかというと、面のないなんでもありあり、未だ水準下。どうしたもんだといって弟子らが論ずる、あんなものは結局駄目か。人格なけりゃなんにもならんのは、人間社会です。いえ人間たといなにしようが人格です、必ずしっぺ返しを食うよりない。犯罪という糠に釘です、旧陋裁判の反省会じゃおっつかんです、司法は心に関わらぬと知ればいい。目には目をですか。
 業識茫茫もそれがしと、その意識なけりゃ首も廻らさず、擬議もなしはアッハッハ世も末、いや末法じゃという、おもしろうもないんですよ、末法だろうが一回きりの人生です、ついには本よるべきなしを知って、清々露堂堂です。

頌に云く、一たび喚べば頭を廻らす我を知るや否や、依きとして蘿月又鈎となる。千金の子纔かに流落して、漠漠たる窮途に許の愁いあり。

 一たび喚べば、おいと呼びなにがしと呼ぶ、頭を廻らすんですが、その我を知るやというんです、朕に対するは誰そ、磨云く不識。あなたはだあれと花に問う、花は知らないと応えるんです。人間だけが知っている、そうです知っている分がみな嘘です。醜く騒々しいんです。平和といっては戦争です、信仰といい思想といいろくでもないんです。でもこれ自分の辺に具現せねばしょうがないです、他山の石じゃないんですよ。依きのきはにんべんに希どうもよくわからんです。生まれついてより従いつく他ない生活ですか、反抗といい革命といったって首繋がっている、免れえないんです。満月たる自分が、オッホッホ自分という蘿つたかずらを通して、欠けて鈎となる鎌の月ですよ。あるいはそんじゃあといって釣針になるんですか。
 法華経にある長者窮子のたとえのように、長者として生まれて流落するんです。坐りなさい、なんでもありありでたらめめっちゃくちゃでいいですという、あなたの100%いえ200%マルですという。それがなかなかそうはならん、おれはだめだかすだやっているにつけ、坐禅はこうあるべき、仏教を見習えだからどうのです。
これを貧乏人困窮の子です。漠漠たるという、そうですよもとっから自分なんかないんです、自分なけりゃ満月という、実も蓋もない、おれの外は空虚、ばくばくたる云ってないで、ぽかっと捨てるんです、拠りどころがない、自分という根拠なし身心なし、空虚になったら空虚なし、単純な数学ですかわっはっは。

画像の出典  オーストラリアの野生植物/方丈の旅行記より
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by tozanji | 2005-03-30 00:00 | 従容録 宏智の頌古

第三十六則 馬師不安

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 衆に示して云く、心意識を離れて参ずるも這箇の在るあり、凡聖の路を出でて学するも已に太高生。紅炉併出す鉄しつり、舌剣唇槍口を下し難し。鋒鋩を犯さず試みに乞ふ、挙す看よ。

挙す、馬大師不安、院主問ふ、和尚近日尊位如何。大師云く、日面仏月面仏。

 馬大師、馬祖道一禅師は南嶽懐譲の嗣、容貌奇異にして牛行虎視舌を引いて鼻を過ぐとある、人気があった。すでに天寿を悟って病の床に伏す。院主お寺の事務を司る役目ですか、不安、四大不安病のことです、近日ちかごろどうですかとお見舞いです。馬大師云く、日面仏月面仏。馬大師は仏祖の最大級ですか、わしがこんなこというと顰蹙ですが、ばあさんがナムと名付けたどえらい猫がいた。半分山猫でうさぎややまどりなど取って食っていたが、甘えん坊のくせに山門を出ると知らん顔する、四キロ四方の雌猫を孕ませた。死ぬ三日前にわしがもとへ来て、水を含ませると飲み、それも取らなくなって終わる。荘厳であった。仏になっている、日面仏月面仏というと、申し訳ないこってすが、ナムの目を思い出す。
 空華なし第二月なし、生縁既に尽きてというんですが、もとわれらは浮き世南閻浮提に四大もてこうある、本当は如来とてきわなく時空を超えるんです、自覚乃至無自覚とはこれ、元に帰るんです。きれいさっぱり化縁すでに尽きるんです。それゆえに、心意識をはなれて参ずるも這箇ありと、凡聖の路を学するも太高生高尚なこったと、振り返り見るんです、アッハッハがんばって下さいってね。てつしりとは実に三角のとげのあるハマビシ人を刺す、鉄で作り紅炉に焼いて用いる武器、手も足も出ないってことです。
 此岸のあくせくですか、だれか仏教などやるより自殺すりゃいいといった、今の人の考えそうなこったが、あほらしいってより、たとい大死一番大活現成も、生きた人間のするこってす、生死を明きらむるは200%生きです。自殺したら生まれ変わってまた選仏場です。どうもならんこと云ってないで、剣槍鋒鋩ひとしきり、なにをこれ200%とやって初めて得べし。でなくば沙婆というビールの泡。

頌に云く、日面月面、星流れ電巻く。鏡は像に対して私無し、珠は盤に在りて自ら転ず。君見ずや 鎚の前百練の金。刀尺の下一機の絹。

 日面月面と云って、電光石火星流れ電巻くだけ余計のようなんですが、どの道人間には届かぬスピードです、感知できない。宝鏡三味とあるように、悟ったという人間本来のありようです。身心まったく失せてものみなです。すると像に対して私なし、形影あい見るんです。汝これかれに非ず。どうしてもこうならんきゃそりゃ仏教とは云われんです、坊主の説教、呆れてだれもまともに扱わんですか、学者にしろ世間一般にしろ、自分という迷悟中をもって迷悟中をさらけ出すだけで、たといなんにもならんです。光前絶後の事、玉露宙に浮く、ものみな尽くし切ってののちです、玉は盤上自ずから転ず、自分というなにかしら影のあるうちは駄目です。でんは金に占
でかなばさみ、てんかん押さえる方で、鎚は打つ方です、百戦錬磨の馬大師ですか。
すなわちそいつの彼岸です。刀一尺の下一機の絹という、もとなんにもないんです、大衆一万五千もふっ消えて清風。

画像の出典  オーストラリアの野生植物/方丈の旅行記より
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by tozanji | 2005-03-29 14:47 | 従容録 宏智の頌古

第三十五則 洛浦伏膺

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 衆に示して云く、迅機捷弁外道天魔を折衝し、逸格超宗曲げて上根利智の為にす。
忽ち箇の一棒に打てども頭を廻らだざる底の漢に遇ふ時如何。

挙す、洛浦夾山に参ず、礼拝せずして面に当って立つ。山云く、鶏鳳巣に棲む、其の同類に非ず出で去れ。浦云く、遠きより風に趨る、乞ふ師一接。山云く、目前に闍梨無く此間に老僧無し。浦便ち喝す。山云く、住みね住みね且らく草草怱怱たること莫れ。雲月是れ同じく溪山各異なり、天下人の舌頭を裁断することは即ち無きにあらず、争か無舌人をして解語せしめん。浦無語。山便ち打つ。浦此より伏膺す。

 洛浦山元安禅師、夾山善会の嗣、かっさんと読む薬山下二世、礼拝して聞法のありようは接心の独参、小参など今にそっくり残るんですが、形式あっておよそ仏法のぶの字もないのは、うるさったいだけでマンガにもならんですか、世間一般も形式だけの、精進料理に史跡廻りなど、だれも真面目に考えぬのは、応えられる僧がいないのと、真面目真っ正面に問うことを忘れた日本人ですか、人間の面していないのばっかりじゃ、そりゃこっちもという理屈で、もって騒々しいかぎりは、犬や猫に入れ揚げるしかない、なんといういじましさ。
 外道とは仏教以外を云うんですが、そりゃ仏教の独善かというと、他の一神教と同断じゃないです、仏教以外は外道なんです。本来本当じゃない、人をたぶらかし迷わせるんです。禅天魔といったのは日蓮ですか、おもしろいんですよ、だれも自分ありゃ自分のことしか云えない、他を誹謗する=自分を誹謗です。たとい仏祖の道であっても、ちらとも自分あれば、たしかに外道天魔、云うことは同じあるいな本来本当の人より、弁舌達者喝すれば古今未曾有の風景です、こいつを蚊食うほどもなく、夾山の如きは、住、やめねやみね、止せ止せっていうんです、しばらく草草怱怱たることなかれ、実にこれです、天下人の舌頭を切断することはなきにしもあらず、
そりゃ云うことは云いうる、これね、礼拝して問うところを、突っ立つ、一目瞭然というより、弱ったねこの人という、なんとかしてやろうと思う、そいつがなかなか、なんせ自信満々、云うことは心得ている、ところが常識なし、ものをぴったりということができない。「だからおれはいいんだ」というしかない、エガちゃんという人がこうだったし、トウテツさんという人が、なんにもないを「なんにもしない」と履き違える。自覚を待つ以外にないんですが、自覚のチャンスは目の当たりチャンスならざるはなしなんですが、就中夾山のようには行かない、月は同じぞ山あいへなれという
歌の文句も、無舌人の解語も、ついに伏膺、身に体して忘れえぬという、急転直下させるには、ちらとも自分あっちゃそりゃだめです。

頌に云く、頭を揺かし尾をふるう赤梢の鱗、徹底無依転身を解す、舌頭を裁断して饒ひ術有るも、鼻孔を曳廻して妙に神に通ぜしむ。夜明簾外風月昼の如し、枯木巌前花卉常に春なり。無舌人無舌人、正令全提一句親し。寰中に独歩して明了了。任従天下楽しんで欣欣ることを。

 赤梢の鱗しっぽの赤い鯉ですってさ、洛浦騒々しく一物不将来の時如何です、ないと云いながらあるぞ、あるぞやるんです、どうしてもこういうことあって、ついに転身の時を迎える。劇的といえばまさにこの則、いえあるいはたいていの則これです。
なんていうおれはと通身もってす、坐布を抛って三尺穴を穿つ。いえ我が物底無しですか。ようやく仏教の緒に就くんです。自ずからに知る以外にないですが、なんのかんの云ってるやつを、妙をもって、神をもって接するただの人、無舌人ですか山水長口舌、絶学無為の閑道人です。大ひまの開いた人が欲しいんです。楽しんで坐りなさいと老師はいった、そりゃまっぱじめからそういうわけですが、本来ほんとうの楽しさをを、何十年ようやくこれが緒に就くということあります。夜明簾外風月昼の如く、枯木巌前花卉常に春、卉は草に同じ、春風駘蕩も妄想迷いの延長じゃ、そりゃさっぱりおもしろくもない、いったん切って楽しいんです。いったん切る、自分
を観察しない、即ち正令全提です、いいですか、一生正令全提一句親しですよ、間違っちゃいかんです、沙婆流には推し量れんです、寰中は天子の幾内、直轄の地を云う、外れることないんです、大手を振って歩いて下さい、明了了、任せ従い天下欣欣アッハッハまさにかくの如く、ちっと頌が長いですが、文句云わんとこ。

画像の出典  オーストラリアの野生植物/方丈の旅行記より
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by tozanji | 2005-03-28 00:00 | 従容録 宏智の頌古



空としてなにかあるものではないです、空観なと学者のたわごとです、そんなあほなことを云っている自分を空じ切るんです、すると自分消えてものみなぜんたい、というそれをも観察しない、空前絶後の事、我と有情と同時成道です。

 仏教も仏教学もとんでもなく膨大です、人の一生では百万分の一も到達できないほどです、あれがみんなむなしいんですか。
 はいそのとおり、百害あって一利なしです、それによって暮らしの糧を得る、学者説教師本屋印刷屋の為にあるんです、もし仏を求めるんでしたら、見向きもしない覚悟が必要です。



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画像の出典  東山寺/ 曹溪山東山寺(そうけいざん・とうざんじ)の本尊は釈迦牟尼仏。 宝永五年(一七○九)の 『東山寺由来記』 によると、この寺は、鎌倉時代の中期、宝治二年(一二四八)、宋の蘭溪道隆禅師(そう の らんけいどうりゅう ぜんじ/一二一三 ~ 七八) によって開かれた古刹です。寺には禅師の持物 (じぶつ) の袈裟、数珠、香合等が伝えられています。
 その後天文三年(一五三四)、大面城主(おおもじょう主)・丸田伊豆守が七堂伽藍(しちどうがらん)をつくり、上州沼田の玉泉寺(ぎょくせんじ)五世宣州を招請して再興の折り、臨済宗から曹洞宗となり、山号も黄檗山(おうぱくざん)から曹溪山に改められました。
 曹洞宗の近郷一円の中心寺院でしたが、明治戊辰の役の兵火で本堂や庫裡を消失し再建、現在に至っています。
 本堂には五百羅漢などの諸物、江戸時代中期に建立の山門には栄町指定文化財の四天王像を安置。山門脇には山門と同時代に建立された高さ一丈余の延命子安地蔵、寺の裏手には三十三番札所にちなんだ石仏があります。

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by tozanji | 2005-03-27 00:00 | ぜんごぜんご



念起念滅という、人の心意識はぽっと出ぽっと消えるんです、すでにないものに捉まってああでもないこうでもないする、妄想といい自縄自縛の縄=自分といいます。あるときの接心に妄想だらけで困った、ようしなんとかしてくれようと云えばいうほどに頻出、真っ黒けになって四日もやっていたです、精魂尽き果てて、もはやこれまでどうとでもなれといったとたん、ふわあっとふっ消えてなんにもなくなった。
無心とは脳死じゃないんです、念起念滅を観察する念がない、するとまったくないんです。

 念力というサイコキネシスみたいなもんないですか。
 念力健剛という仏教用語で、これを知ってやり抜こうという不退転の決意を云うんです、超能力他あればそれによって迷うんです、心身の救いはまったく別です。


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画像の出典  東山寺の回遊式庭園/ 本堂裏手には、上山の借景を取り込んだ室町時代の作風を持つ回遊式庭園。禅寺のたたずまいをいっそう幽邃なものにしています。
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by tozanji | 2005-03-26 00:00 | ぜんごぜんご



結婚式の垂示に見を持つなという、見解の相違です、見解を持たなければ、諸問消える、いえ初めからなんも起こらんです、見の好きな人はいったん卒業して下さい、見解という中途半端、どんなに尽くそうが万分の一を知る。


 見がなければなんにも起こらんてそれ、海牛とか下等生物の日送りですか。
 いえ人間とかめっちゃくちゃの彼岸にあります、やっと地球のお仲間入り、花は知らずという知らずもっとも親切。知った分が嘘ばっかり、醜さ飽き飽きってね。


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画像の出典  東山寺庭園内/ 不動明王
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by tozanji | 2005-03-25 00:00 | ぜんごぜんご



心に二心あり従前の心と本来心と、すでにないものを振り返る、お化けにしてやられる心と、無心です。まるっきりない心、どうですかこれ、心が心を観察することの不可能、すべての救い、問題解決はここにあります、ものをそのまんまに見る、色即是空これ。

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 妄想まるけの世の中だから妄想まるけでいいんではないですか、テレビなんかクレイジー馬鹿ったいほど受けてます。

 結局飽きられてしまうんです、赤信号みんなで渡ればこわくないと云って、しまいのはて破廉恥犯罪大国とか、それが先進国というなら、犬に食われちまえってね。


画像の出典  五百羅漢像/東山寺蔵
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by tozanji | 2005-03-24 00:00 | ぜんごぜんご



単を示すと書く、自分は単純だというとき、自分を観察するでしょう、観察する自分とされる自分の不可能事、すなわち複雑です、心=自分は一つ、自分を知るとは自分を忘れること、我をかえりみるに我なし、これを禅といい無心、心なしと云います。けっこうできないんですよこの単純が。

 坐禅のノウハウ如何。
 ただ、まるっきり手つかず、なんでもありのめっちゃくちゃ、ついにはこれありと知ってまっしぐらですか
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画像の出典  東山寺山門脇の延命子安地蔵
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by tozanji | 2005-03-23 00:00 | ぜんごぜんご



三帰戒三聚浄戒十重禁戒、十重禁戒は不殺生戒不偸盗戒不邪淫戒、殺すなかれ、盗むなかれ、犯すなかれ、嘘をつくなかれ、酒に酔うなかれ以下です。仏戒は得度式、坊さんになる時に授かる、他はとにかく不殺生戒はどうもならん、菜っ葉だって生物だ、いやバクテリア一匹殺すなかれでは、生きて行かれん、さあ困ったです、汝よく保つや否や、よく保つといって、なにしろ式だけはすました。のちお寺をもってだれかれ接するに、駒沢の学生というのが来た、仏教科に入って以来疑問であったという、他はともかく不殺生戒はどうもならん、教授に聞くと、妄りに殺すなかれ、妄りに犯すなかれだという、おれはそんなこっては到底納得できないと云った。よく見ろとわしは云った、こいつは人間のこさえたものじゃないんだと。そうかといって、彼の体が倍にも膨れ上がったです、日ならずして、ちらとも悟って帰って行った。これをどう思いますか。

 キリスト教にある山上の垂訓と同じですか。
 おおもと同じだろうが、まったく別物になり終わる、たとい十重禁戒も人を縛る鎖じゃないんです、戒はこれ第一安穏功徳の処住所となすと、遺教経にあるとおりです。


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画像の出典  東山寺の看板/パンフレットより
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by tozanji | 2005-03-22 00:00 | ぜんごぜんご