<   2005年 03月 ( 31 )   > この月の画像一覧



帰依僧和合尊という、いったんまったく人間のしがらみを離れるんです、銀椀に雪を盛り、類して等しからずと、思想宗教、主義や理想に拠らんので、和合尊なんです、信ずれば救われるなど都合勝手ではない、万象とともにある、濁りに染まぬ露の玉。

 僧侶というもっともきらいなものの一つですが。
 死出虫稼業ではない坊主だっていますよ、どんなふうな付き合いでも、必ず救われる、いいことあるんです。

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画像の出典  東山寺/ 寺のパンフレットから
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by tozanji | 2005-03-21 00:00 | ぜんごぜんご

 

法として別にあるもんじゃないです、ものみなのありよう、物理法則と同じですが、物理学には観察者がいる、仏はただその中にある、これ雲泥の相違。

 法律とは関係があるんですか。

 ないと云うべきですか、これたとい人間の作ったものではないんです。


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画像の出典  東山寺の山門 /パンフレットから
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by tozanji | 2005-03-20 00:00 | ぜんごぜんご



禅機横溢、機峰鋭くなどいいます、特別にあるものではないです、もと本来のありよう、目から鱗が落ちるというでしょう、自縄自縛のとっかかりひっかかりが外れる、目から鼻へ抜けるより、目鼻なし、一を聞いて十を知るより、もとはじめからです、花鳥風月みなそうです、となりのトトロのように雨粒でぶるぶる。

 機という人間機械というとどうもあの。
 人間機械という微妙なものですか、だからって思想感情を容れる器です、仏教はこの器の問題といっていいんです、たとい極悪非道も一瞬のちには仏、そうですねえ、情状酌量のない刑法が正解ってね。


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画像の出典   東山寺の四天王像 由来
 四天王は仏界(ぶっかい/仏教世界)の中心にそびえ立つ須弥山(しゅみせん)の中腹にあって、仏法とそれに帰依した人びとを仏敵から守る守護神とされています。
 寺の須弥壇(しゅみだん)は須弥山をかたどったもので、須弥壇の四隅に配置される四天王は。次の役割を担っています。
持国天(じこくてん)は仏界の東方を守護し、国家の安泰をはかり、増長天(ぞうちょうてん)は南方を守護し、五穀豊穣を受け持っています。広目天(こうもくてん)は西方を守護し、弁舌さわやかに衆生を説得して仏門に帰依させ、多聞天(たもんてん)は北方を守護して、仏の説法の場を仏敵から守り、説法をすべて知恵にさせる役割を果たしています。
 
 平成三年から修復工事が始まり平成五年に完成し極彩色豊かな四天王として往時を偲ぶことができます。
 像はいずれもヒノキの寄木造り、内刳(うちぐり)の立像(りゅうぞう)で彩色がほどこされ、玉眼(ぎょくがん)が嵌入(かんにゅう)されています。 像の制作年代について 『栄村誌』 では、南北朝 (1336-92) ころと推定しています。

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by tozanji | 2005-03-19 00:00 | ぜんごぜんご

 

はい右に同じ、生死別段の区別はないです。生といい死という思い込みの殻を破って下さい。生死の中に仏あれば生死なし、仏は実際というねはんです。

 どうにかこうにか生きていますが、おもしろくないし時には無惨です。

 それをどうしたらいいかという、痛烈な問題なんです、生まれてよかったという、驚天動地の感動があります、どうかこれを得て下さい、我と有情と同時成道。


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画像の出典  東山寺の四天王
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by tozanji | 2005-03-18 00:00 | ぜんごぜんご

 

死にたいという人は、まず坐って「死にたい」と真っ正面に向かい合って下さい。因に仏教は生きながら死ぬことです。大死一番大活現成、至りえ帰り来たって別事なし、柳は緑花は紅、自分という架空が失せると、ものみな生き生きと、夢のように甦るんです。

 どうやったら死ねるんですか。

 忘我の方法があります、坐忘、坐している自分を忘れ去る、無我夢中をもう一歩進めるんです。


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画像の出典  東山寺のパンフレットより

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by tozanji | 2005-03-17 00:00 | ぜんごぜんご

 

ほどけば仏、自縄自縛の縄をほどき終わればもと仏。
自縄自縛の縄を自分と思い違えている、そこから一切苦厄が起こる。身心脱落、見るに目なく、我を求めるに我なく、真実不虚、まったくに他なしを知る。

 ぜんたいよくならなければ個人の幸せはないという、
仏は一箇仏なんですか。

 人類失せてもほどけば仏、一箇光明ならば周囲を照らす、他に人類を幸せにする方法はないです、しかもたった一人でできます。


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画像の出典  東山寺のパンフレットより

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by tozanji | 2005-03-16 00:00 | ぜんごぜんご

 

悟り終われば悟りなし、生まれる以前の元の木阿弥、仏に戻ることは一回かぎりです。世間のいう悟ったとは無縁の代物ですか、身心ともになしを知る、光前絶後の事、玉露宙に浮かぶ。自分というものがまるっきり失せてものみなぜんたいです、我と有情と同時成道。

 簡単にはできないんでしょう。
 元に返るだけのことです。
 現代人にできますか。
 思想の内容、考え方によらないですから、時代環境に関係がないんです。
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画像の出典  東山寺のパンフレットより

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by tozanji | 2005-03-15 00:00 | ぜんごぜんご



キリスト教の牧師がついには100%神を信ずることだと云った、100%信ずる=忘れること、生活の基は忘れ去って成り立っています、歩くのに歩くことを信じていたら転倒します、アッハッハ以下同文ですか。信不信に関わらず。心して狭き門より入れという、狭い門から入ったら狭いきりの、平和博愛といっては戦争と独善です、そうではない無門関です。人の信不信によらぬ広大無辺です。でも今不信の人、知識にたよる以外にない、足実地を踏まぬ、ふわついて幽霊みたいな人、坐っても坐っても坐禅にならんです。仏の家に投げ入れて、すべてをお任せという、人間とは他にはないんです。

 私もそうですが、たいてい無宗教でとにかく毎日暮らしていますが。

 無宗教なんてありえないんですよ、雑念とご都合主義と、ぜにかねうまいもの食い、種々雑多です、醜いだけです。ほんとうに生きた覚えもなく、一朝事あれば殺人事件か、でなくば心身症ですか。


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画像の出典
東山寺の四天王像
パンフレットより

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by tozanji | 2005-03-14 00:00 | ぜんごぜんご

 

世間大流行りの夢は妄想我欲、しまい夢の島ですか、どっか情けないんです。如無幻泡影という、はかないからという。人生五十年難波のことは夢のまた夢、信長秀吉の五十年は、並の人の百万年にも当たるんでしょう、沢庵禅師の夢、一年三百六十五日夢という、わかりますかこれ。現実であればあるほどに夢のようなんです。
スポーツに熱中する、あっというまに時間がたつ、夢中になるというんでしょう、三つのころまでの記憶がないのは、100%生きるからです、すると反省しない、どうやってこうやったという記述がない、一般に云う現実とは、脇見運転の追憶記述です。如来の悟りはありのまんま、夢とは正にこれを云うんです。

 夢を見るのはよくないんですか。

 必要だから見るんです、現実に満足しないから夢を見る、現実化したいから夢を見る。聖人に夢なしといいます、つまらない聖人なんぞお呼びじゃないという、いえ夢を見る必要がない=現実が有頂天の楽しさ、大満足だからですよ、これを知ることが解決の道です。人間の花に咲き開く。


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画像の出典
 東山寺の山門/ 東山寺の山門は「三間一戸楼門」 (さんげんいっころうもん) と言います。
三間一戸とは、正面から見て柱が四本建ててあって、柱と柱と愛だが三ヶ所あり、そのうちの一ヶ所が通り抜けできるという意味です。
 下層部分に屋根がなく、廻縁(まわりえん)の ついた門を、楼門と呼びます。
 今は瓦屋根ですが、昭和31年まではかや葺きでした。

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by tozanji | 2005-03-13 00:00 | ぜんごぜんご

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nothing なんにもなし。
私にはなんにもない、なんの持ち物もありませんと云う人に、では担いで帰れと云った。
「なんにもない」を見ている自分があります、では同じことです。
「なんにもないという自分がない」
参禅の基本です、花も空の雲も鳥もけものも、
「あなたはだあれ。」と聞けば、「知らない。」と答える、単を示す、禅とはこれです。

 なんにもない無は、人を救うことができるんですか。

 ないものは傷つかない、無心というんでしょ、たといどんなことがあっても、
心=自分は傷つかないと知る、これ以上の救いはないんです。



画像の出典  東山寺の看板
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by tozanji | 2005-03-12 00:00 | ぜんごぜんご