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第三十四則 風穴一塵

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 衆に示して云く、赤手空拳にして千変万化す、是れ無を将って有と作すと雖も、奈何せん仮を弄して真に像ることを。且らく道へ還って基本有りや無しや。

挙す、風穴垂語して云く、若し一塵を立すれば家国興盛す。一塵を立せざれば家国喪亡す。雪竇柱杖を拈じて云く、還って同死同生底の衲僧有りや。

 風穴延沼禅師、南院の宝応慧順に継ぐ、臨済下四世、雪竇重顯禅師は青原下九世知門光さの嗣、赤手空拳にして千変万化す、千万異化身釈迦牟尼仏、なんにもないからなんにでもなれる、そりゃまったく物の道理で、ちらともあれば、それによって制限されるんです、いえちらともあれば、既に自由が利かないんです。参禅とは正にこの間の問題ですか、たんびにがらっと変り、ついにはまったく起こらず、しかもどういうものか、一塵立って家国興隆し、一塵立たずは家国衰亡す。たしかに平らかに他なしですが、どこまで行ってもということあります。雪竇柱杖を拈じて、かえって同死同生底の衲僧ありやという、どうですか、あい呼応しておもしろいでしょう。
 作者はという、まったく無から生ずる興亡戦、人類史も地球宇宙もないんです、一箇自足する凄ましさ。アッハッハ毎日命がけですか。あるときは降ってくる雪にしてやられ、あるときはびいと鳴く鳥にもって行かれ、天空を樹立しあるいは春風を吹き起こす。かつてあったものなんぞないです、たとい世間繰り返しだろうが、生まれてはじめてのたった今、どかんと真っ二つくわーっと甦ったり。そうねえこれ自殺志願者とか、世の絶望とか、なにしろ日本は滅びの道ですか、もう滅んでしまっているんですか、そういうときに、実にこの則はいいです。転んでもただでは起きないどころか、たといどうなったろうがほうら元の木阿弥、無に帰すること正にこれ、たとい百万も他に云うこたないんです。
 基本なしといえば是、基本ありといえば不是、なしといえば不是、ありといえば是。

頌に云はく、ほ(白に番)然として渭水に垂綸より起つ、首陽清餓の人に何似ぞ。只一塵い在って変態を分つ、高名勲業両つながら泯じ難し。

 ほ然は白髪の形容、太公望が釣り糸を垂れていて、西伯に起用されて周の国を興した、首陽清餓は、伯夷叔斎が周の栗を食わずに首陽山に餓死した、一塵立って興隆し、一塵立たず衰亡するを頌す、ともに大事件ですか。一塵あって変態を分かつ、これがありよう日常茶飯も、普通の人にはちょっと及びもつかぬ、逐一にこれ100%は同死同生底、でもこれでなくば、さっぱりおもしろうもないんです。泯は水のおもかげ、ほろぶ、高名は太公望ですか、勲業は餓死したほうですか、いやさそんなこた一瞬忘れちまうです。100%し尽くしたことはあとに残らない、太公望も伯夷叔斉も10%も現れはせんというのです。高名なり勲章なり、ゆえにもってこの世に
残る、歴史とはまさにかくの如くのがらくた。泯じ難し、残りあるものろくなものなし。歴史に学べなんて、百害あって一利なし、まそういうこってす。


画像の出典  オーストラリアの野生植物/方丈の旅行記より
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by tozanji | 2005-03-10 00:00 | 従容録 宏智の頌古

第三十二則 仰山心境


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 衆に示して云く、海は龍の世界たり、隠顯優游、天は是れ鶴の家郷、飛鳴自在。甚んとしてか困魚は櫟に止まり、鈍鳥は盧に棲む。還って利害を計る処ありや。

挙す、仰山僧に問ふ、甚れの処の人ぞ。僧云く、幽州人。山云く、汝彼の中を思ふや。僧云く、常に思ふ。山云く、能思は是れ心、所思は是れ境。彼の中には山河大地楼台殿閣人畜等の物あり、思底の心を反思せよ。還って許多般ありや。僧云く、某甲這裏に到って総に有ることを見ず。山云く、信位は即ち是、人位は未だ是ならず。僧云く、和尚別に指示すること莫しやまた否や。山云く、別に有り別に無しというは即ち中らず、汝が見処に拠らば只一玄を得たり、得坐披衣向後自ずから見よ。

 水たまりの雑魚やってないで、龍と化して自在に大海を泳げ、蘆中の鈍鳥してないで、鶴になって天を家郷とせよという、困魚は小魚、櫟は木でなくさんずいで水たまり。これ言句上、あるいは仏教思想という二次元平面です。実際ではない。どうしても漆桶底を打破してこれを得にゃ役立たんです。そこをまずもって見て下さい。
かえって利害を計るところたりや、まさにこれです、どうしようもこうしようもなくているんです。弟子が本山へ行くその日、父親がなくなって急遽実家へ帰った、わしに葬式してくれという、行くと、父親は安楽に死にあれこれ幸せであったという、ばかったれ、そいつは沙婆の人間のいうこった、なんぼ坐っても悟りの悪いやつ。
 仰山きょうさん慧寂禅師、い山霊祐の嗣、僧に問う、どこの人かと聞く、僧は幽州人ですと云う。汝彼の地を思うか、常に思う、このばかったれとわしはやっちまう、出家して何が故郷だ、たといどこほっつき歩こうが、到るところ即ちこれ、即ち得坐披衣向後自ら看よ、坐ったり衣を着てものをなす、他にはなんにもない、親しく万万歳を知る。それが仰山慧寂禅師ともなると、これが親切、彼中山あり河あり楼閣ありするだろうが、よく思うはこれ心、かれこれ思い浮かべるは境、その思う我を省みよという、思うというは如何と問う。あれこれあるもんじゃない、いいかと云うんです。僧云く、いえ、そのとおりだと思います、たしかに他にはないんですと云う。そいつは信位、あるべきことは知っている、だが仁位、おのれのものになってはいない。僧云く、和尚他に指示すること莫しやまた否や。別にあるなしのこっちゃない、汝が見処只一玄を得たり、かくあるべしと知って、ちらとも悟るんです、たしかに雑魚とは違う、存分の力量なんでしょう、でもどっかつながっている、生活になってないんです、彼岸を見ながら此岸にいる、一喝するに得坐披衣向後自ずからです。

頌に云く、外るること無うして容れ、礙ゆること無うして沖る。門牆岸岸、関鎖重重、酒常に酣なはにして客を伏せしめ、飯飽くと雖も農を頽す。虚空に突出して、風妙翅を搏たしめ、滄海を踏翻して、雷游龍を送る。

 法華経にあるという、親友の家に行き酒に酔うて伏す、親友官事に赴くにあたって宝珠をその衣に繋ぐ、酔い伏してかえって覚えぬ如くと、思想の酒に酔うという、世間では哲学宗教理想主義という、かえってその中に宝珠のあるのさへ気がつかぬのです、門牆しょうは垣根ですか、岸岸がんがんと読むとぴったり、関鎖重重です、一個人とはまさにこれ、おのれなにものであるかという、皮袋厳重にして、はっは糞袋てなもんで、食い飽きて農をたおす、頽は頁ではなくて貴です、頭の禿げたるさまですとさ、人の一生はかくの如し。いや人類史もさ。ではこれをぶち破って下さい。
自分という内も外もないんです、自縄自縛のがんがんじゅうじゅうを解いて下さい、礙ゆることのうして沖る、玉露宙に浮かぶんです、そうしてもって風力の所転ですか、金翅鳥は翼を開けば三十六万里という、龍を食う鳳凰ですか、いやいかん龍も出て来る、とにかく鳳凰と龍で決まり、たしかに自分に首を突っ込んで、ついには練炭火鉢じゃあんまり情けないです、色即是空却り見るに我なし、虚空に突出して、本来人の自由を味わって下さい。


画像の出典  オーストラリアの野生植物/方丈の旅行記より
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by tozanji | 2005-03-09 00:00 | 従容録 宏智の頌古

第三十一則 雲門露柱

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 衆に示して云く、向上の一機、鶴霄漢に沖る。当陽の一路、鷂新羅を過ぐ。直饒ひ眼流星に似たるも、未だ口扁擔の如くなるを免れず。且く道へ是れ何の宗旨ぞ。

挙す、雲門垂語して云く、古仏と露柱と相交はる。是れ第幾機ぞ。衆無語。自ら代って云く、南山に雲を起こし、北山に雨を下す。

 向上の一機という、ようやく坐が坐になるんです、自分というものみな失せてまったくにこうある、そうしてもって坐っても坐ってもということがある、これ結果を求める、こうなるべきという修禅じゃないんです、故に一機ぜんたいです。たしかに第幾機と問う、まさしく昨日のおのれ今日のおのれじゃないです。しかもそうですねえまったくの無反省、省みることないんですよ。霄漢は大空、天に沖するというと、お寺のおおやまざくらがそんなふうに咲いたですが、ようやく盛りを過ぎましたか、余談でした。鷂ははやぶさです、大陸の外れ半島の新羅を過ぎたんですか。扁擔への字です、口への字に結んで物もいえぬさま。直に得たり口扁擔に似たるを、などよく用
います、衆無語です。当陽の一路はまあ陽が当たるんですか、アッハッハこれ風景を見ておけばいいです。
 露柱俗語で大黒柱というんですが、そんなんでなく露はだかの柱です、どうにもぶち抜けなくて、柱を見て悟ったという人いました。露柱明道尼という庵主さんがいました。古くから仏の友人ですか、さあやってごらんなさい。露柱と相交わること、第幾機ぞと、自分失せて柱ばっかりになっても、つなげる駒ですか。それとも南山に雲を起こし、北山に雨降らせですか。向上の一機千聖不伝大いに楽しんで下さい。
というのもこれが生活だからです、一寸坐れば一寸の仏という、お寺に生まれりゃ説教じゃないんですよ、まずもってぶち抜いてからです。葛藤是れ好日あって、さながらに人生です。どこへ行き倒れかわからん托鉢行脚ですよ。

頌に云く、一道の神光、初めより覆蔵せず。見縁を超ゆるや是にして是なし、情量を出ずるや当たって当たることなし。巌華の粉たるや蜂房蜜を成し、野草の慈たるや麝臍香を作す。随類三尺一丈六、明明として触処露堂堂。
 一道の神光、だれあってそうですねえ、神光慧可大師以下まったく変わらぬ一道です、人間斟酌の預かり知らぬ神光です、初めより露堂々です。露柱丸柱がいいですな、まさにかくの如くにあるんです、見るという目がない、見縁という観念妄想を離れるんです、無眼耳鼻舌身意は、これ就中うまく行かんですよ、どうしても見る自分と見られるものという、架空から離れられんです。あるがようではない、情状で見てしまう。どうにかしようとしている間は駄目です、あるときそいつが失せている、露柱が手に入るんです、すると天地有情悉皆成仏、匂いといい声といい万物いっせいに蘇るんです。信不信の域を超えるんですよ。仏も神も一切預かり知らぬところで
す、しかもこのようにありこのように生まれている、なんたる幸せ200%かくの如くです。はいこれを如来、来たる如しといいます。だれあって如来です、ちらともこれを見ずに死ぬ、なんという情けないことですか。
 随類三尺一丈六とは、便利を云えば千万異化身釈迦牟尼仏ですか、あるときは一茎草あるときは丈六の金身、南山に雲を起こし、北山に雨降らせ、坐りながらどこへも赴くってことあるでしょう、あるいはトンボになったり、酒飲んでるやつの徳利になったり、わずかにこれ露柱。


画像の出典  オーストラリアの野生植物/方丈の旅行記より
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by tozanji | 2005-03-08 00:00 | 従容録 宏智の頌古

第三十則 大随劫火

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 衆に示して云く、諸の対待を絶し両頭を坐断す。疑団を打破するに那んぞ一句を消いん。長安寸歩を離れず。太山只重さ三斤。且らく道へ甚麼の令に拠ってか敢えて恁麼に道ふや。

挙す、僧侶大随に問ふ、劫火洞然として大千倶に壊す、未審かし這箇壊か不壊か。随云く、壊。僧云く、恁麼ならば則ち他に随ひ去るや。随云く、他に随い去る。僧龍済に問ふ、劫火洞然として大千倶に壊す、未審し這箇壊か不壊か。済云く、不壊。
僧云く、甚んとしてか不壊なる。済云く、大千に同じきが為なり。

 大随法真禅師、長慶大安の嗣、龍済紹脩禅師、脩山主と同じ、青原下八世地蔵桂しんの嗣、劫火、壊劫の時大火災が起こって三千大千世界が焼尽するという、そりゃ必ずそういう時は来る、あなたの浮き世が壊滅するんです、さあどうしますかってわけです。答えは二通りあって、大随云く随い去るんですし、龍済云く、壊せずです、でもって解決済み。そりゃ頭へ来るというのへ、大千と同じゆえにほうらそっくりっていうんです。頭とってみろってわけです。ものは自然じねんに落着せにゃならんです。そうかというときまったく大千です、地球が滅びようが仏法がどうだろうが、おっほう万歳てなもんです。そりゃ気違いだという、他の信心一神教なら気違いで
す、これはまったくさにあらず。
 諸の対峙を絶しという、まずこれをせんけりゃだめです。只管打坐の俎板の上に載せて、仏教も自分も世界ぜんたいも、四苦八苦過現未も一切合財です、答えを出して下さい。無門関いろはのい、アッハッハ従容録でした、両頭失せりゃ従うきりないですよ。疑団を起こし真正面に見据える、でなきゃ坐禅見習い仏らしいのうさんくさ。
そういうのは葬式稼業にわんさといる、人の死に立ち会うこともできぬ坊主ども、不愉快というより心理学の対象にしかならない。
 長安という悟る前も悟ったあともなんら変わらない、なにがどうなるってはなく日々是好日です、あらゆる一切にまるっきり他愛なく太山比類なき。
 逃げると追いかける、向かうと失せる、どうですか、真っ正面に見据えるとないんです。
頌に云はく、壊と不壊と、他に随ひ去るや大千世界、句裏了ひに鈎鎖の機無し。
脚頭多く葛藤に礙へらく。会か不会か、分明底の事丁寧はなはだし。知心は拈出して商量すること勿れ。我が当行に相売買するに輸く。

 鈎鎖機械、物をひっかける機械、知心、知音同士、当行は当店、壊と不壊と他に随い去るや大千世界、どうですか、たったこれだけに参ずるにいいです、何をか云わんただこれ、従うたって従わぬたって大千世界、ひっかっかるところなんにもなし、無に参ずるとはそういうことですよ。答えを出す必要がない=おまえはもう死んでいる、はいまっ始めからこれです。それ故脚頭多く葛藤に礙えらる、会か不会かという蛇足です、坐りながらこれやるんでしょう、はいご苦労さんと、やりながら糠に釘です、すなわち分明底の丁寧はなはだしアッハッハ。ちっとは知っているやつは=知らんやつは知音同士ですか、なにさとやこう云うんじゃないよ、当店の売買にゃ及びもつかんで、という当店とは天童山の我が店。


画像の出典  オーストラリアの野生植物/方丈の旅行記より
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by tozanji | 2005-03-07 00:00 | 従容録 宏智の頌古

第二十九則 風穴鉄牛

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 衆に示して云く、遅基鈍行は斧柄を爛却す。眼転じ頭迷ひ、杓柄を奪ひ将ゆ。
若し也た鬼窟裏に打在し、死蛇頭を把定せば、還って変貌の分あらんや也た無しや。

挙す、風穴郢州の衙内に在って上堂に云く、祖師の心印状ち鉄牛の機に似たり。
去れば即ち印住し、住すれば即ち印破す。只だ去らず住せざるが如きは即ち印するが是か印せざるが即ち是か。時に盧陂長老有り出でて問ふて云く、某甲鉄牛の機有り、請ふ和尚印を塔せざれ。穴云く、鯨鯢を釣って巨浸を澄ましむるに慣れて、却って嗟す蛙歩の泥砂に輾することを。陂佇思す。穴喝して云く、長老何ぞ進語せざる。陂擬議す。穴打つこと一払子して云く、還って話頭を記得するや試みに挙せよ看ん。陂口を開かんと擬す。穴又打つこと一払子。牧主云く、仏法と王法と一般。穴云く、箇の什麼をか見る。牧云く、当に断ずべきに断ぜざれば返って其の乱を招く。穴便ち下坐。

 遅基鈍行、なめくじの頭もたげ行く意志久し、まあどっちかというとわしもその類ですが、斧柄を爛却すとは、中国故事にある碁を打っていたら斧の柄が腐ったという、百年もたっていたなと。頭迷うとはえんにゃだったが自分はどこへ行った、頭がないといって騒ぐ、お釈迦さまがぽんとその頭を打って落着。えんにゃだったは女人です、わしの弟子みなで野球をしていたら、バットを持ったまま、ない、おれはどこへ行ったと歩き回るのがいた、印するに近いんですよ、身心失せてまるっきりないのを承認できないでいる、ぽんと落着すればよし。どうですかこれ、去れば即ち印住し、住すれば即ち印破す。放れるとあり、ましんに行けば破れるとは、そりゃつまら
んです、去らず住せざるが如きは印するが是か、印せざるが是かという、こりゃ人が悪いんですよ。はてなあと思わせ振りアッハッハ、それをしも印下欲しいと云い出で、盧陂長老なかなかのもんです。三拝してハイヨって手出せばいいんですよ、ぶん殴られようがかすっともかすらない。
 風穴延沼禅師は臨済下四世、南印の宝応慧順に継ぐ、郢州は楚の都があった、衙は役所、牧主は長官です、それがし鉄牛の機あり、請う師印を塔せざれ。印下してくれという、鉄牛の機なんてわしは知らんです、うっふぶっくり沈んじゃうよ。風穴云く鯨を釣って大海を澄ましむるに慣れて、かえって蛙の歩く水たまりにずっこけるを嗟す、気にかけているぞというんです。長老佇思す、穴渇してなんぞ進語せん、待っているんですよ、長老再び思いまどう、払子にうって、さあ云ってみろ見ようという、口を開こうとして打たれ。牧主云く、仏法と王法と同じだ、ほうなんでかな、断ずるとき断ぜざればその乱を招くと。すなわち穴下座。
 どうですか鬼窟裏に、そんでもいやとかやるんですよ、死蛇頭、理屈はこうだからやるんです、そのどっちかです、どんと一歩出てください。かえりみるに我なしです。重々わかっているのになぜ、断ずるとき断ぜねば乱を招くんです。心配ですか、アッハッハ乱なぞ百万回も招いてください、どうにもこうにもそんなのなくなっちゃうんですよ、風穴くだらんこと云ったら、頭ぶんなぐっちまうです。

頌に云く、鉄牛之機、印住印破。毘盧頂ねいを透出して行き、化仏舌頭に却来して坐す。風穴衡に当たって、盧陂負堕す。棒頭喝下、電光石火、歴歴分明珠盤に在り、眉毛を貶起すれば還って磋過す。

 毘盧頂ねい、毘盧舎那仏の頭の上、大仏さまの頭上ですか、ねい寧に頁、法身応身というんですが、化仏舌頭に却来きゃらいするという、年回回向にあります、却来して世間を観ずれば、猶夢中の事の如し。どうですか、いったん死んでしまって世間を振り返るんです、するとどうなる、自分という夢中の喜び、毀誉褒貶に預からぬ、いえたとい預かろうともさらりさらりとこうあるんです。向上向下他なしです。鉄牛の機という人の動かしがたいものがあります、印住印破という、噂にはよらんのです。
さあみなさん、事は単純です、早くもって本来の自由を得てください。
 いえさ健康にもいいですよ、十も二十も若返って長生きすること請け合い。人におもねるようなことやっていて、うさんくさい人生送らんのです、実際であり平らかに本来です。
 衡は権衡ではかりだま、自ら秤定の任に当たる風穴、負堕は、首を斬り臂を切って不敏を謝すことだそうです、くわーっと来たら、電光石火棒喝と行ずりゃいい、歴歴分明なんの隠れもないんです、眉毛をさっきするだにかえって過まつ。


画像の出典  オーストラリアの野生植物/方丈の旅行記より
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by tozanji | 2005-03-06 00:00 | 従容録 宏智の頌古

第二十八則 護国三麼

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 衆に示して云く、寸糸を挂けざる底の人、正に是れ裸形外道。粒米を嚼まざる底の漢、断めて焦面の鬼王に帰す。直饒い、聖処に生を受くるも未だ竿頭の険堕を免れず、還って羞を掩ふ処有りや。

挙す、僧、護国に問ふ、鶴枯松に立つ時如何。国云く、地下底一場の麼羅。僧云く、滴水滴凍の時如何。国云く、日出て後一場の麼羅。僧云く、会昌沙汰の時護法善神甚麼れの処に去るや。国云く、山門頭の両箇一場の麼羅。

 雲門云く、終日著衣喫飯して未だ嘗て一粒に触れず一縷の糸を挂けず。とあってこれを取る。一糸もまとわずじゃそりゃすっ裸の外道、一粒も噛むことなければ、焦面の鬼王は餓鬼道の王のこと、そりゃ餓鬼道に墜ちるというんです。じゃなぜ雲門大師ともあろうものがって、アッハッハ一糸もつけず一粒も嚼まず、清々この上なしの不染那ですか、なにだれあって日常正にこれ是の如くなんですよ。顧みて下さい。
でもってこう云ったとたんに一場の麼羅ですか。麼はりっしんがつく、梵語そのまんまの恥という、麼羅恥さらしです。 たとい聖人君子というより、聖処とは実に仏です、自分というよこしまを与う限りに去るが故にです、たといそうあったとて、百尺竿頭にあって、墜落の危険を免れぬ。高い木に登って、手を放せ足を放せ、しまい口でかじりついているところへ、下に人が通って大法を問ふ、さあどうするという公案があります、アッハッハこれ仏、いえ平地に乱を起こすんですか、どうやったら恥を蔽うことができるかとは、こりゃご挨拶。
 護国院守澄浄果禅師は洞山下疎山光仁の嗣、僧云く、枯松に鶴の立つとき如何、世法を去って仏法に就く、すべてを尽くし終わって枯松龍吟、そりゃそういうときがあるんです。どうだというんです。護国云く、地下底一場の麼羅、カリカチュアで云えば共産主義のキムジョンイルですか、アッハッハ笑われちまうか、なに人間のやるこたみな同じです、人間機械別様には動かん。そりゃ無理だよっていうんです、つまりいまだ去ってはいない。世法の延長、恥さらしがあるんでしょう。
 僧云く、滴水滴凍の時如何、一滴すりゃ凍るっていうんです、他なしと云いたかったんでしょう、そりゃここまで尽くすは大変です。護国云く、日出でて後一場の麼羅、こいつが一番よくできてます。目に浮かぶようなのがいいってほどに、感嘆させられる。
 会昌沙汰というのは、唐の会昌五年武宗が僧尼二十六万五百人に沙汰して、還俗せしめたという法難です。そのとき護法善神、仏法をまもる神様、一ならず何種もあって、お経にも読んでいるっていうのにどうしたってわけです。護国云く、山門頭の両箇、仁王さんです、一場の麼羅、こいつは冗談口みたいで笑っちゃうんですが、仁王そのものが麼羅、ユーモアなんぞでないところを如実に味わって下さい。
 はあてこう云うさへに一場の麼羅。禅坊主口はばったいんですか、いえだれよりも恥を知るんです、鍛えるってことないんですよ、一般は間違ってます。

頌に云く、壮士稜稜として鬢未だ秋ならず、男児憤せざれば侯に封ぜられず。翻って思ふ清白伝家の客、耳を洗ふ渓頭牛に飲はず。

 清白伝家の客、耳を洗う云々、ともに清廉潔白この上なしという、中国古代のいいつたえ。なにがし九州の長に登用されるのを断って、汚れだといって川で耳を洗っていた。牛をひく男が聞いて、やたいしたもんだといったら、そんなんじゃつまらん もっと名を馳せてという、男は川の上流に行って牛に水を飼う。壮士は青年男子、稜は勢い鋭きさま、鬢がまだ白くならない、不惜身命、時には死に物狂いにこれを求める。そりゃそうです、仏の示すどうしてもこれが欲しいと思う、口当たりも悪ければ、取っ付きにくいなんてもんじゃない、流行りすたりの殺し文句や、いいことしいの信仰の類じゃないんです。本当本来を知る、就中もってのほか。思量分別の他です。壮士稜稜として、ついにかくのごとくの無心、無眼耳鼻舌身意ですか、死んで死んで死にきって思いのままにするわざぞよき 枯松に立つ鶴ですか、思いのままになりそうで、地下一場の麼羅、君見ずや絶学無為の閑道人、妄を除かず真を求めず、本来本当のまっただなかに気がつく、これがどうしようもこうしようも、滴水滴凍の時如何、日出でて一場の麼羅。アッハッハ男児
奮発、憤ぜざれば侯に列せずですよ、さあもう一歩、百尺竿頭しがみつくところを放して下さい。死ぬよりないんです、そうですよすべて同じ方向です、捨てて捨てて捨て切るほかない、それたとい清廉潔白も遊んでるようなものなんです、どんともう一発。


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by tozanji | 2005-03-05 00:00 | 従容録 宏智の頌古

第二十七則 法眼指簾

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 衆に示して云く、師多ければ脈乱れ、法出でて姦生ず。無病に病を医やすは以て傷慈なりと雖も、条有れば条を攀ず、何ぞ挙話を妨げん。

挙す、法眼手を以て簾を指す。時に二僧有り、同じく去って簾を巻く。眼云く、一得一失。

 師とは医師のこと、医者多くして脈乱れとは世の中まずはそういうこと、法出でて姦生じ、法律です、法無ければ姦なしという、どうですか姦とは姦通罪外みなです、法無ければ姦ないんでしょう、かえりみて下さい。これはまあ法眼指簾について、とやこう云いたくなるところを喝したんですか。法眼宗の祖清涼文益禅師は地蔵桂しんの嗣、不知もっとも親切と云われて大悟する因縁は前出。簾すだれを指さした、二人の僧が立って行って、すだれを巻く、これを見て一得一失と云った、無病に病をいやすは傷慈、老婆親切ですか、なんで一得一失なんだ、それはA坊主ができていて、B坊主がいまだしだからだ、あるいはせっかく涼風を入れようとしたのに、一得一失があった、まがきの外を示すのに、条令条あれば条をよずんですか、かれこれ云い分があるのを、一得一失、まるっきり取っ払うんですよ。しゃば世界ひっかかりふわっと消えて、そうかあというんです、うわっと世界ぜんたいです、無所得です、自分という取りえ失せるのを体現して下さい、でなければ法眼せっかくの親切が、なんにもならんです、ハイ。

頌に云く、松は直く棘は曲がれり、鶴は長く鳩は短し。羲皇世の人倶に治乱を忘る。
其の安きや潜龍淵に在り、其の逸するや翔鳥絆を脱す。祖ねい西来して、何んともすること無し。裏許得失相ひ半ばす。蓬は風に随って空に転じ、紅は流れを裁って岸に到る。箇の中霊利の衲僧、清涼の手段を看取せよ。

 松直棘曲鶴長鳩短、一長一短これはこの通りなんですが、楞厳経にこうあるそうです、松は直く棘は曲がり、鶴は白く烏は玄し、荘子にまたあり、長者は余り有りとせず、短者は足らずとせず、是故に鳩の脛は短しと雖も之を続ぐときは即ち憂ふ、鶴の脛は長しと雖も之を断つときは即ち悲しむと、なんだかちんぷんかんぷんです。
羲皇は中国伝説の理想王三皇五帝です、人みな治乱を忘れるとほどに、治世が行き渡っておった、うっふっふ常この目の当たりの世の中ですよ。これをなんとかしよう、我と我が身を如何せんといって、仏門を叩く、生老病死苦を如何せんという、その逸するや翔鳥群れを脱するんですか、なんにもせなけりゃ潜龍淵にあるんですか、祖ねいのねいは示すへんに爾、親廟のこと、即ち祖師西来意と同じ、せっかく達磨さんがやって来たって、如何んともすること無し。どうですか、世間しゃばとして考えて、二通りありますか。なにも変わらんという、無老死亦無老死尽、無無明亦無無明尽、却来して世間を看ずれば、なを夢中の事の如しですか。よもぎというか草の穂は風にしたがって空に転じ、紅は流れに落ちても鮮明に岸に到る、一得一失まさにこれ。裏許は中国のこと、なんせ中国以外ないんだからさ、得失あい半ばすとはだれのこれ感
慨ですか。霊は幽霊というどっちも形容詞で、微妙幽玄というのは、自分失せてものみな現ずるありさまです、そうなった人はさあどうしますというんです。どうか答えを出して下さい。


画像の出典  オーストラリアの野生植物/方丈の旅行記より
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by tozanji | 2005-03-04 00:00 | 従容録 宏智の頌古

第三十三則 三聖金鱗

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 衆に示して云く、強に逢ふては即ち弱、柔に遇ふては即ち剛。両硬相撃てば必ず一傷有り。且らく道へ如何が廻互いし去らん。

挙す、三聖雪峰に問ふ、網を透る金鱗、未審し、何を以ってか食と為す。峰云く、汝が網を出来たらんことを待って汝に向かって道はん。聖云く、一千五百人の善知識話頭も也た識らず。峰云く、老僧住持事繁し。

 雪峰義存禅師、青原下五世徳山宣鑑の嗣、三聖慧然禅師は臨済の嗣です、強に逢うては弱、柔に遇うては剛という、世の常のありよう、女と百姓は同じという長いものには巻かれろ式じゃない、卑怯護身でなく、両硬あいうてば一傷ありを知る、これ就中うまく行かんですよ、かーつというとかーつやる、がんがんと打つとがんと鳴る鐘の如く。三聖問うて云く、網を透る金鱗、これは成句になっていて、迷悟凡聖の羅網すなわち、師家のかける網ですか、いいや自分で勝手にかけているんですか、これを透らにゃそりゃ問題にならんです、迷悟中の人という、凡人ありゃ聖人ありです、そいつを抜け出た金鱗大魚はいったい何を食っているんだという、どうだ云ってみろってわけです、なんにも食っておらんと云えば、そりゃ死んじまうってわけの、尽大千口中にありといえば、このばかったれとも、でもまたこれも常套手段ですか、わしも雪峰に同じい、汝が網を出で来たるを待って汝に云をうという。わかっていることをなんで聞くんだ、わからんことをなんで聞くんだ、迷悟凡聖時と今と雲泥の相違か、廻互まったく同じか、さあ道へと、一千五百人の学人雲衲を抱えた大善知識ともあろうものが、なんだ話頭も知らず、云うことも知らんじゃないか。これに対して老僧住持こと繁し、忙しくってなという、蛇足ながらアッハッハ老僧っての利いてます。

頌に云く、浪級初めて昇る時雲雷相送る。騰躍稜稜として大用を見る。尾を焼いて分明に禹門を度る。華鱗未だ肯て韲甕に淹されず、老成の人、衆を驚かさず。大敵に臨むに慣れて初めより恐るることなし。泛泛として端に五両の軽きが如く、堆堆として何ぞ啻千鈞の重きのみならんや。高名四海復た誰か同じぅせん、介り立って八風吹けども動ぜず。

 浪級は中国ほう(糸に峰のつくり)州龍門山にある放水路、その水が三段になったところを云う。焼尾は、鯉が浪級を登って龍と化すとき、雷鳴ってその尾を焼く、登竜門科挙の試験を及第して必ず歓宴を延ぶ、これを焼尾宴という。登竜門は日本に今でも使うんですが、ぶち抜いて仏となるたとえ、古くからに用いる、妄想迷悟中の鯉では、そりゃ問題にならない、騰躍おどり出て稜稜として、卒業しつくすさまですか、実感として味わって下さい、大用現前です。華鱗、鯉の鱗は食用になるが、龍の鱗はいまだかって韲甕鮨の器だそうです、鮨にゃならんよってわけです。老成の人は雪峰、大敵に臨むは三聖ですか、なにせいおどり出なきゃ問題にならん、この則どうなんですか、まだ尻尾焼かれってとこですか、アッハッハことはそんなこっちゃないよ、もとかくのごとく、泛泛として羽毛の軽き、堆堆として山の如くある、これ日常茶飯、意を起こし、くちばしを突っ込む七面六臂じゃないんです、われこそはいの一番という無意味、老僧事繁し、介護いらんっていうんですよ、介立独立に同じ、八風吹けども動ぜず、まさにこれ一箇のありようです、仏という何かあれば、虎の威を仮る狐です、よくせき看て取って下さい。


画像の出典  オーストラリアの野生植物/方丈の旅行記より
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by tozanji | 2005-03-03 13:26 | 従容録 宏智の頌古

第二十六則 仰山指雪

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 衆に示して云く、冰霜色を一にして雪月光を交ふ、法身を凍殺し漁夫を清損す、還って賞玩に堪ゆるや也た無しや。

挙す、仰山、雪獅子を指して云く、還って此の色を過ぎ得る者有りや。雲門云く、当時便ち与めに推倒せん。雪竇云く、只だ推倒を解して扶起を解せず。

 清廉の屈原を法身とすれば、清濁時に応ずる漁夫は応身の立場という。屈原は唐の詩人、冰は氷です霜と一色、雪と月光という、どうですか、風景のごとくに心事ありですか、思想観念を絶したさまですか。たしかに自分という一切を空ずる、そりゃ色あり形ありするんですが、大小色彩を絶したものがあります。どっちが大きいどっちが小さい、黒いか白いかと問われて、答えが出ない、知らないというんです。法身という目標もなく清濁という種々雑多もないんです。かえって賞玩に堪えるや否やというところが面白いんです、世間とは観念思想をもってするんですか、雪舟の水墨画も紙と墨を必要とする。とらわれないということあってこれを用いる。色即是空か
ら空即是色です。だからどうだといってつっぱらかるんですか、いえ時によってどうだとやり得るんです。
 仰山きょうさん慧寂禅師はい山霊祐の嗣、雪獅子は雪達磨です、指さしてこの色に過ぎるものありやと示す、これによって悟るものもあれば迷うものもあります。
でも平地に乱を起こすという、一波乱起こさなければそりゃあだめです。でたらめ思いつきじゃない、実にこれに過ぎたる色ありやです。白が明白っていうんじゃないんですよ、知識思想の及ばぬところです、人々看よという。これを聞いて雲門がそん時いりゃ雪達磨蹴倒したものをと云った。雪竇せっちょう重顯禅師は雲門三世智門光祚の嗣、碧巌録百則を著わす。云く、ただ推し倒すことを解して、扶け起こすことを知らんと云った、アッハッハまあそういうこってすか。これがちんぷんかんぷんの人は無縁の人、舌を巻く人は向上の人、雪竇をぶんなぐる底は、さて何人。

頌に云く、一倒一起雪庭の獅子。犯すことを慎んで仁を懐き、為すに勇んで義を見る。清光眼を照らすも家に迷ふに似たり、明白、身を転ずるも還って位に堕す。
衲僧家了いに寄ること無し。同死同生何れをか此とし何れをか彼とせん。暖信梅を破って、春、寒枝に到り、涼飃葉を脱して、秋、潦水を澄ましむ。

 これしきのことにずいぶんご丁寧な頌は恐れ入る、犯すことを慎むとは、雪竇扶け起こすを云い、為すに勇んでは雲門推し倒すを云う、別段仁義のこっちゃないんですが、大死一番して大活現成の伝家の宝刀に譬えた。清光眼を照らすも家に迷うに似たり、坐っていて思い当たることないですか、すべてを尽くして肉は悲しというのは西欧の詩人ですが、どっかお釣りが来る、垢取りせんけりゃならんという感想です。明白身を転ずるもかえって位に堕すの、虚々実々です。どっちがどうこうすべきだの問題ではない、問題ありながら卒業するんですか。完全とは何か、すでに始めっからこのとおり、生まれるから変わらないんです、坐禅をする前と終わった今と同じ、坐禅遍歴もまた同じ、さっぱり進歩も取り柄もなし、さてどうしますか。同死同生いずれ
を此としいずれを彼とす、うっふうこれに参ずるにいいですよ、事は簡単明瞭。
暖信せっかく梅が咲いたのに、寒気襲い、紅葉をひるがえして、寒風潦水水たまりを澄ましむる、はーいどっからどこまで繰り返して下さい、とほほうんざりってのいいですよ、彼岸にわたる法のかい、かいは同じことの繰り返し、アッハッハ吐く息吸う息。
去って下さい。


画像の出典  オーストラリアの野生植物/方丈の旅行記より
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by tozanji | 2005-03-03 00:00 | 従容録 宏智の頌古

第二十五則 塩官犀扇

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 衆に示して云く、刹海涯無きも当処を離れず、塵劫前の事、尽く而今にあり。
試みに伊をして覿面に相呈せしむれば、便ち風に当たって拈出することを解せず。且らく
道へ過什麼の処にか在る。

挙す、塩官一日侍者を喚ぶ、我が為に犀牛の扇子を過ごし来たれ。者云く、扇子破れぬ。官云く、扇子既に破れなば我れに犀牛児を還し来たれ。者対無し。資福一円相を描きて、中に於て一の牛の字を書く。

 塩官斎安禅師、馬祖道一の嗣、資福如宝禅師は仰山二世の嗣、刹はお寺に使ったりしますが、もとは国土の意の梵語、塵劫塵点久遠劫永遠の時、世間一般ものみなを含む、はてもないんですけれど、いつだってこの事の他なしです。塵劫前だろうがたった今。なに禅問答だ仏教のこっちゃないです、私どもの一挙手一投足もとっからそうできているってこってす。塩官和尚一日、侍者に犀牛の扇子を持って来いと云った、水牛の骨でできた扇子ですか、そいつは破れちまったと侍者がいった、じゃその骨持って来い、犀牛児は骨をいうらしいんですが、風に当たって、もとっから風ですか、むうとばかり黙っちまう、資福が出て、円を描いて中に牛の字を書いたというんです。こんなの臨済門下大好きで、所作とかなんとかやるんですが、自分どうもなら
ん、自救不了ではなんにもならんです。塩官ぶんなぐるか、払子を使うには、幸い資福はそんな玉じゃなかった。過いずれにかある、大切なことを忘れちまってはだめです、禅を習う、あっちもこっちも、毒にも薬にもならんの多いですが、この侍者の爪の垢でも煎じて呑めばいいです、どこまで行ったって覿面です、まっすぐ真正面の他ないです、世間にひけらかすんではない、ひけらかす世間を失う。死ぬとは自分を失う、淋しく切なく、まったくなんにもならんのへ、参じて下さい。許すのは自分が許すんじゃないんです、なんにもないものが許すっていえば許すんですよ、こっちからじゃない。

頌に云く、扇子破るれば犀牛を索む。捲攣中の来由あり。誰れか知らん桂穀千年の魄、妙に通明一点の秋と作らんとは。

 捲は木の丸盆、攣は手足の曲がること、円相にあてる、桂穀は円かな月、魄は月の輪郭光なきところを魄と名ずくと、月の朔。扇子破れて犀牛を求めるという、自分ぺっちゃんこになったら、残っているものがありますか、たいていあるんです、ではそれをどうする、手を付けなけりゃそれっきり。人間生涯玉に疵みたいとこあります、これを救うという、糊塗するんじゃない、さらけ出して牢獄に入るか、だったら疵失せるか、あるいはこれが大問題です、人いつの世だって同じです、いいかげんにしたらいいかげんにしかならん、対決して真正面です、罪を求めるに罪なし、空っけつになったら外と同じです。我というものを去る以外にない、実に我というかつては鼈鼻蛇であったこれなんぞ。円相を描いて牛の字を書きますか、そんなおまじないじゃどうもこうもならんていう、さらに全提のあるあり、正令全提牛ですか、うっふ牛であってもいい忘れ去るんですか。すると月のまわりは千年魄、あるいは却来して看ずるに、通明一点の秋ですか。さあ各正に以ておのれの円相を描いて下さい、どっか臨済坊主の掛け軸じゃない、そんなふざけたもんじゃないのです。


画像の出典  オーストラリアの野生植物/方丈の旅行記より
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by tozanji | 2005-03-02 00:00 | 従容録 宏智の頌古