<   2005年 04月 ( 30 )   > この月の画像一覧

如来

如来=来たる如しという以外になんの思想も持たない、これを如来といい仏といいます、花も如来、山川草木空の雲も、鳥もけものも如来です、人間だけがどうしてすったもんだ。はい人間の如来は人間に同ぜるが如し。いったんとやこうを卒業して下さい、却来して観ずれば猶夢中の如しと。

 如来という恐い存在とアポルローンという花やかな姿があります、同じ人間ですが。
 まったく同じ人間です、一神教よりもエトルリアの人間像のほうが如来に同じくです。心という顧みないんです、一心顧みることの不可能。

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画像の出典  東山寺の蔵書より
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by tozanji | 2005-04-10 00:00 | ぜんごぜんご 二字

忍俊

忍俊=忍耐という仏語はないようです、銀椀に雪を盛り明月に鷺を蔵す、類して等しからず、混ずる時んば処を知るという、主義主張の物差しによらぬ四面楚歌です。耐えるというんじゃないんです、まるっきり露堂々、仏の間髪を入れずです。

 仏はオールマイティ常勝将軍ですか。
 天子です、いえたいてい負けてばっかり。

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画像の出典  東山寺の蔵書より
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by tozanji | 2005-04-09 00:00 | ぜんごぜんご 二字

修行

修行=仏道を習うというは、自己を習うなり、自己を習うというは、自己を忘れるなり。自己を見ることの不可能という、単純極りないこれをまっしぐらです。思い当たって終わり、思い当たるを無自覚という。他にはまったくないことを知ります。

 沢木興道さんの坐っている写真を見て、これは人に見せるための座禅だといった人がいますが。
 はいあのお方はついの一度も修行をしたことがない、いいかえれば修行ばっかしですか。

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画像の出典  東山寺の蔵書より
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by tozanji | 2005-04-08 00:00 | ぜんごぜんご 二字

妄想

妄想=四六時中妄想も自分の生み出すものなんか一つもないのに気がついて下さい、どんな妄想も自分の自由にはならないです。ではこれをどう扱ったらいいか、手つかず。ぽっと出ぽっと消える、後を追わなければもとなしを無心といいます、まったくないんです。

 発明や個性やというのは妄想によるんではないですか。
 妄想はかえって殺すんです、むしろ思考停止を呼びます、ほんとうの独創は無心がこれを生みます、そ間違えてはいかんです。

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画像の出典  東山寺の蔵書より
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by tozanji | 2005-04-07 00:00 | ぜんごぜんご 二字

外道

外道=仏教以外のすべて、主義や思想宗教を云います、たとい世界の三大宗教も、それによってとたんの苦しみを味わう。多数決や陪審員制ではない、真実不虚ということです。平らに見れば一目瞭然、あるいは歴史の証明するところです。ほんとうに我と我が一切です、まっすぐにどうぞ。

 仏教も外道に入ることがあるんですか。
 99%外道であったりします、名ばかりの仏教、本人大まじめだってそっぽを向きっぱなしとか、葬式稼業宗門仏教その他、でもちゃんと伝わっています、だったら云うことないです。

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画像の出典  東山寺の蔵書より
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by tozanji | 2005-04-06 00:00 | ぜんごぜんご 二字

解脱

解脱=仏に生まれて仏に立ち返る、その他のことは二の次三の次と知って、流転三界中恩愛不能断、棄恩入無為真実報恩者、自分という架空を捨てる、身心を脱し夢から覚めること、このように解かって、我という皮袋を脱ぐ、真空の妙智です。

 脱した、解かったということはありますが。
 答案が作れるほどのものは、なんの役にも立ちませんよ。
 でもあいつは悟ってるといったりしますが。
 わがもの底無し、一回切りのその跡形なし。

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画像の出典  東山寺の蔵書より
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by tozanji | 2005-04-05 00:00 | ぜんごぜんご 二字

仏教

仏教=仏に生まれて仏に返る、人はいつか迷い出して四苦八苦する。この世を選仏場といいます。今生に於て仏になりたい、もういっぺん元に戻りたい、帰家穏座する、でなくば惨憺たるものです。それ故の仏教です。禅堂をまた選仏場といいます。

 正師に出会うことは浜の砂ごの一握にも及かぬと云いますが。
 出会っております。

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画像の出典  東山寺の蔵書より
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by tozanji | 2005-04-04 00:00 | ぜんごぜんご 二字

第四十一則 洛浦臨終

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 衆に示して云く、有時は忠誠己れを叩いて苦屈申べ難く、有時は殃及んで人に向かって承当不下なり。行に臨んで賤しく折倒し、末期最も慇懃。泪は痛腸より出ず、更に隠諱し難し、還って冷眼の者有りや。

挙す、洛浦臨終衆に示して云く、今一事有りって爾諸人に問ふ、這箇若し是と云はば即ち頭上に頭を安ず、若し不是ならば即ち頭を斬って活を覓む。時に首座云く、青山常に足を挙げて白日灯を挑げず。浦云く是れ甚麼の時節ぞ這箇の説話を作す。彦従上座有って出でて云く、此の二途を去って請ふ師問はざれ。浦云く、未在更に道へ。従云く、某甲道ひ尽くさず。浦云く、我爾が道ひ尽くすと道ひ尽くさざるに管せず。従云く、某甲侍者の和尚に祇対する無し。晩に至って従上座を喚ぶ、爾今日の祇対甚だ来由有り、合さに先師の道ふことを体得すべし、目前に法無く意目前に有り、他は是れ目前の法にあらず、耳目の到る所に非ずと、那句かこれ賓、那句かこれ主、若し揀得出せば鉢袋子を分付せん。従云く、不会。浦云く、爾会すべし。従云く、実に不会。浦喝して云く、苦なる哉苦なる哉。僧問ふ、和尚の尊意如何。浦云く、慈舟清波の上に棹ささず、劒峡徒らに木鵝を放つに労す。

 洛浦元安禅師は夾山善会の嗣、せっかく臨終にのぞんでついに法嗣を得ずですか、そんなことはあるまいと思ったのに、千五百の雲衲、とりわけ首座あり従上座あり、忠誠おのれを叩いて苦屈述べ難くですか、殃病わざわいという、眉間に我あり、自分というそいつがひっかかっていると、承当不下手も足も出ないんです、わずかにおのれを囲う、まさにもうそれっきり。爾にんべんがついてましたが汝と同じです、一事を問ふ、まったくに一事の他なく。是と云はば頭上に頭を按じ、いいですかこれが仏教です、一般の思惟とちがうんです、できたといえば回答がある、できたというやつも回答も自分なんです。不是なれば頭を切って活と求む、不是というのはあるんです、あるから許せない、そいつをぶった切れってこと。元の木阿弥はぜんたい手つかず、おぎゃあと生まれたとき、風景だけがあった=自分だったです。取り戻すとなあるほどなあっていうより、当前です、他ありっこないんです。なにをとやこう云うことない。
 首座云く、青山常に足をあげて白日灯をかかげず、青山お墓なんですが、云いえたりっていう絵に描いた餅です、浦云く、これなんの時節ぞ、住んでいない作り話をするなって云うんです。彦従上出て、この二途を去って請ふ師問はざれ、仏と仏を見る自分の二途です。どこまで行ってもこれを、そうですいっぺんに去る、問はざれという、どうです、問はざれとこうありますか。浦云く、ようもわからん更に道へという、それがし道ひ尽くさず、どんなに道をうが尽くし切れずという。阿呆め、わしはおまえの云い尽くす云い尽くさぬに管せず。いいですなあ、これに参じて下さい。それをまあ侍者だからもう云わんですといって引き下がる。常ならほっといて機会を待つんですが、今はそうはいっとられん。 晩に至って、先師夾山禅師の語を用ふ、目前に法なく意目前にあり、自分という皮袋破れてぜんたい我の、ぜんたいと我を引いて下さい、まさに目前法なく、意目前にありです、切々たるあり、那句かこれ賓那句かこれ主、従上座ついに不会、会すれば印下しようというのに。
 苦なるかな、慈舟棹させども棹ささず、木鵝は浮木、杭州五雲和尚座禅箴にあり、流に剣閣に沿ふて木鵝に滞ることなし、仏を得る急流です、取り付く島もないのに取り付こうとする、浮木をやっている、そいつをまず粉砕する。行に臨んでかるがるしく折倒し、末期もっとも慇懃、わっはっはどうしようもないです、苦なるかな徒らに木鵝を放つ。

頌に云く、雲を餌とし月を鈎として清津に釣る。年老ひ心孤にして未だ鱗を得ず。一曲の離騒帰り去りて後、汨羅江上独醒の人。

 詩人屈原、官を辞して離騒経を書いてのち、汨羅江に沈んで卒すという故事を踏まえて。孤独という世間一般、あるいは詩人のそれとは、たった一つ違いは、孤独を云々しない、一個即ち唯我独尊です。雲を餌にし月を鈎にして、そりゃ清津、仏教仏のみなと、彼岸に大魚を釣り上げるんですが、たとい心孤にして未だ一鱗を得ずとも、縦横無尽太平に遊戯するんです、年老いついに一箇も得ず、苦なるかな徒らに木鵝を放つ。そりゃまあそういうこってす。良寛さんに跡継ぎがあったか、地球宇宙みな跡継ぎ、焚くほどは風がもてくる落ち葉かなですか、裏を見せ表を見せて散る落ち葉ですか。わっはっはわしはもうちょっとがんばってみます、年老いてなんにも
ならずは、無老死亦無老死尽。

画像の出典  オーストラリアの野生植物/方丈の旅行記より
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by tozanji | 2005-04-03 00:00 | 従容録 宏智の頌古

第四十則 雲門白黒

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 衆に示して云く、機輪転ずる処智眼猶ほ迷ふ、宝鑑開く時繊塵度らず。拳を開いて地に落ちず、物に応じて善く時を知る、両刃相ひ逢ふ時如何が廻互せん。

挙す、雲門乾峰に問ふ、師の応話を請ふ。峰云く、老僧に到るや也た未だしや。
門云く、恁麼ならば即ち某甲遅きに在りや。峰云く、恁麼那恁麼那。門云く、将に謂へり侯白と、更に侯黒有り。

 こりゃ公案の中でももっとも噛み難く飲み下し難しっていうんでしょう、雲門文偃禅師は青原下六世雪峰義存の嗣、沙婆流にいうならこれまた不出世の大家です、越州乾峰禅師は洞山良价の嗣、上堂に云く、法身に三種の病二種の光あり、須べからく是れ一一に透過して始めて得べし、須べからく知るべし、更に照用同時向上の一竅あることを。雲門衆を出でて云く、庵内の人甚麼としてか、庵外の事を見ざる。師呵呵大笑す。門云く、猶ほ是れ学人の疑処。師云く、子是れ甚麼の心行ぞ。門云く、也た和尚相任せんことを要す。師云く、直に須べからく与麼に始めて解して穏坐すべし。門応諾す。すなわちこれあってののちの経緯でしょう、三種の病二種の光はどうぞ適当にお考え下さい、思い当たるというのは坐っていてです、通身思い当たって次に
はないんです、次いで通身失せるんです。庵内の人なんとしてか庵外を見ざる。どうですかこれ、大問題たらざるを得ない、自分というどう逆立ちしたってその中の問題です、実に仏教はその外にある。漆桶底を打破して、坐が坐になりおわるふうで坐っていて、さらにこれです。ちらとも自負するあれば庵内です。学者禅師どもきらきらしい禅境という、そんなものないです、ただの日送りです、一般の見る風景しかない。
そいつにむかって捨身施虎です。なんというつまらん四苦八苦の末にという、しゃあないどうもならんわと捨てる、ほんとうに他なし、浮き世もなんも200%自足するんですよ。呵呵大笑を強いて云えば内外なしですか。これなんの心行ぞ、もう一発ぶんなぐる、吹っ飛んで行けばよし、直きにすべからく「始めて解して」穏坐すべしです。さあでもって本則です。師の答話を請ふと云う、どうか云って下さいという、さすがにひっかからんですか。老僧に到るやいまだしや、これ思想分別上のこっちゃない、どうだおれっくらいになったかは世間一般、そうではない、おれに会ったらおれになっているんだろう、他なんかあるかって云ってるんです。宝鑑宝鏡三味です、形
影あい見るがごとく、向こうがこっち、汝これかれに非ずです。恁麼ならば云々、はてわしは遅きに失したか、アッハッハ問うだけ野暮ってね、恁麼那恁麼那そうかそうかってんです。ちえ白だと思ったら黒だってさ、侯白という男すりが、地下鉄サムですか、これも名人が、侯黒という女すりにしてやられる故事です、どうもこうもならんわってこれ、アッハッハ人と人が親しく付き合う常道です。

頌に云く、弦筈相ひ銜み、網珠相対す。百中を発って箭箭虚しからず。衆景を摂っして光光礙ゆるなし。言句の総持を得、遊戯の三味に住す。其の間に妙なるや宛転偏円、必ず是くの如くなるや縦横自在。

 網珠というのは一の明珠内に万象倶に現ずという、ほか複雑怪奇な説なんですが単純にこれ帝釈天の網珠、天網快快粗にして漏らさずなどいう、講談師の語もこれによる。弓の弦と矢筈が銜はくつわ、ぎょうにんべんに卸とあって同じです、あいはむんです。明珠と明珠が相対すんですな、するとなにをどうしようが、当たらずということなし。一般ぼんくらと同じにして光通達です、銀椀に雪を盛りです、おりゃそうでなけりゃ意味ないです。われらが箇のありよう、まったく他なし。言句の総持を得る、語未だ正しからざるが故に、重離六交遍正回互と算木六十通り分いっぺんに見える、もと人間のやることなんぞ決まってるんです、場合の数があるだけそっくり
です。ゆえに遊戯三味、だれがなにしてどうだって云われると、へえっていってだまされているっきり、嘘いおうがなに云おうがよしよしの老師は、すなわち相手が転ぶ、申し訳なかったなといったってよしよし。これなんぞ、妙なるかなは坐って下さい、坐にまさるものなし、たといどんなものにも代え難いんです、宛転偏円世の常もって縦横無尽。

画像の出典  オーストラリアの野生植物/方丈の旅行記より
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by tozanji | 2005-04-02 00:00 | 従容録 宏智の頌古

第三十九則 趙州洗鉢

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 衆に示して云く、飯来たれば口を張り、睡来たれば眼を合す。面を洗ふ処に鼻孔を拾得し、鞋をとる時脚跟に模著す。那時話頭を磋却せば、火を把って夜深けて別に覓めよ。如何が相応し去ることを得ん。

挙す、僧趙州に問ふ、学人作入叢林乞ふ師指示せよ。州云く、喫粥し了るや未だしや。僧云く、喫し了る。州云く、鉢盂を洗ひ去れ。
 趙州喫茶去と同じく知れわたって、飯食ったか、なら茶碗洗っておけという、右禅問答代表といったふうです。でもこれ本当に知る人皆無といっていいんでしょう。たいてい茶碗洗ったって、なんの足しにもならんです。
九このまり十まりつきてつきおさむ十ずつ十を百と知りせば良寛辞世の歌といわれるこれ、君なくばちたびももたびつけりとも十ずつ十を百と知らじおやとつけて、はじめてそのなんたるかを、わずかにかいま見るんです。まり一つつけないんですよ、いいかげんであり、ことをなすにお留守、すなわちなってないんです。
趙州無字と同じく、むうとなりおわる、どうしてなかなか一苦労です。わしんとこは鶯のホーホケキョ蛙のげこでもいい、鳴いてみろ鳴けたら卒業という、就中できないです、それじゃ地球のお仲間入りできないよって、地球の困ったさん人間です。
 作入叢林修行道場僧堂そうりんに入るんです、学人修行僧のわたしに乞う師指示、しいじと読みます、わしも老師にどうしたらいいと聞いた。「ただ。」というんです。まるっきりただと。由来今日にいたるアッハッハ万年落第生ですか。ただの垂語、飯には口を張り、睡眠には目を合わせですか、なんせいつだって大仰なんだから、面洗うとき鼻孔を拾得しが面白いです、わらじには脚跟下模著、もしそれをもって本来人、仏教にならんというんです、一句を用いえんようじゃ、飯食っても美食飽人底、あいまいな面して蘊蓄の、うす汚いのそりゃ五万といますな、今の人ほん
とうに味わいうる不可、ソムリエよりゃ赤ん坊の方がたしかですか。すなわち徳山手燭吹滅を味わって下さいというんです。ふわっとごったくさてめえを吹き消しゃいいんです。

頌に云く、粥罷は鉢盂を洗はしむ、豁然として心地自ずから相ひ符す。而今参じ飽く叢林の客、且らく道へ其の間に悟有りや無しや。

 粥罷おかゆの終わったあと、しゅくは、今も叢林僧堂で使っています。一生不離叢林はわしらが基本です、他になんの生活もないんです。文人墨客の一人暮らしなんてものないんですし、隠居隠遁なおさらないです。良寛さんの対大古法、つまり先輩古参は子供たちだった。こんなすざまじい叢林はないです、わしなんぞにはとってもできない。アッハッハまったくなにするかわからん子供です、とうとう一生をともに過ごす。鉢の子洗っておけという、一般のまったくうけがい知らざるところです。
参じ飽いてとはふしだら放逸の反対です。大趙州われより勝れる者は三歳童子もこれを師と仰ぎ、われより劣れる者は百歳老翁もこれに教示しという、六十歳再行脚、かくあってしてはじめて喫茶去です。只管打坐、ただという他にはないんです。鉢盂を洗い去れ、豁然心地の、そうです跡形もなくあい符すんです、この間悟りありやなしや、はいよろしくよく参じて下さい。

画像の出典  オーストラリアの野生植物/方丈の旅行記より
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by tozanji | 2005-04-01 00:00 | 従容録 宏智の頌古