<   2005年 05月 ( 31 )   > この月の画像一覧

第六十一則 乾峰一画

c0015568_2232317.jpg

 衆に示して云く、曲説は会し易し一手に分布す。直説は会し難し十字に打開す。君に勧む分明に語ることを用いざれ。語り得て分明なれば出ずること転た難し、信ぜずんば試みに挙す看よ。

挙す、僧乾峰に問ふ、十方薄伽梵一路ねはん門、未審し路頭甚麼の処に在るや。
峰、柱杖を以て一画して云く、這裏に在り。僧挙して雲門に問ふ。門云く、扇子勃跳して三十三天に上り、帝釈の鼻孔に築著す。東海の鯉魚打つこと一棒すれば、雨盆の傾くに似たり、会すや会すや。

 越州乾峰和尚は洞山良价の嗣、ばぎゃぼん世尊と訳す、十方法界我が釈迦牟尼仏の声と姿と、ものみなあまねく仏如来というのに、いぶかし路頭いずれの処にありや、どこに現れているのかという、これ学人だれしもの疑問でしょう、すなわち自ら仏ならば十方仏、自ら知らざれば十方現れずです、どうかしてこれを知りたい、すでに機熟せりと問うには答えるんです、峰云く、杖に一画してここにありという、一画のここになり終わっておればいいんです。急転直下這裏にありです、就中そうは行かなかった、却って雲門に問う、雲門云く、扇子が躍り上がって三十三天に至り、帝釈天の鼻の孔にとっついた、今度は東海に巨大魚があってそいつぶんなぐれば盆をくつがえしたような雨が降るっていうんです、会すや会すや。自分という天地宇宙の異物として、架空の囲いをしている、なんせそいつをぶち破ってやろうという親切です、アッハッハ曲説ですか、委細に説くことはためにならぬといって、どっちみち身も蓋もない事実です。無眼耳鼻舌身意、身もなく心もないところへ帰家穏坐すればいい、直説は十字に打開、ぶった切って架空を粉砕する力、そりゃなんたってそいつが欲しい、たった一通りあるっきりの、こうして解説してなにが親切という、もとなんにもなりゃしない、むちゃくちゃめったらしてぶち抜いて下さい、いぶかし十方薄伽梵と当たって砕ける以外ないんです。師家としては会すや会すや、という他なく。何が分明語りえて分明というその外にあるんです。捨身施虎。

頌に云く、手に入って還って死馬を将って医す。返魂香君が危ふきを起こさんと欲す。一期通身の汗を拶出せば、方に信ぜん儂が家眉を惜しまざることを。

 混沌に目鼻をつけたら死んでしまったという、仏説を説くに当たって手に入るには手に入るんですか、いえそんなこたないです。説くといったって説く物がなく、一画してこれと示す以外になく、次に一画を外してそれと云うんですか、わしは他に接するに当たって、何をどうしたらいいかさっぱり不安です、自信なんかあったもんじゃない、でも相対すると、駄目だ、こうだとか予想外のことやってます。ちっとは外れたか、ええもうちょっとうまく云えりゃいいんだがと。わしに接するだけで幾分かはと、そりゃ思うには思ってます。か細い線みたい、板っぺらみたいの、せっかく三十三天築著大鯉の頭ぶんなぐって雨降らせも屁の河童、だのにってわけです。返魂香ですか、死んだら蘇るんです。いえ死んだらもっと死ぬってことないかって、あるんですよ。死ぬっきり自分の外が蘇るんですか、いえ外はもと外っきり、自分死ねば外=全体ってだけです、魂が返って来るんです、そのためにはちった汗流して下さい、でもって仏説なあるほどなあってことあります、たしかにこりゃ他なしだって感心します、いえ感嘆賛嘆威なるかな大慈大悲。なにしろとっ外して下さい。

画像の出典  オーストラリアの野生植物/方丈の旅行記より
[PR]
by tozanji | 2005-05-31 00:00 | 従容録 宏智の頌古

第六十則 鉄磨し牛

c0015568_21594084.jpg

 衆に示して云く、鼻孔昴蔵各丈夫の相を具す。脚跟牢実、肯へて老婆禅を学ばんや。無巴鼻を透得せば、始めて正作家の手段を見ん。且らく道へ誰か是れ其の人。

挙す、劉鉄磨い山に到る。山云く、老し牛汝来るや。磨云く、来日台山に大会斎あり和尚還って去らんや。山身を放して臥す。磨便ち出で去る。

 劉鉄磨はい山霊祐の嗣、自らを水こ(牛に古)牛となし劉尼をし(牛に字ーめうし)牛と呼んだ。鉄磨は鉄の臼生仏凡聖をすりつぶしちまうをもっての仇名、とにかく機峰鋭いことはそこらへん坊主の比じゃなかった。女というのはなにやらしても、喧嘩碁っていうか情け容赦もないとこあって、アッハッハさすがい(さんずいに為河の名)山も、身を投げ出してがばっと臥すほかないのがおかしい、おう来たか老し牛、牛というのはむかしから山のようにのっそり、雲衲の姿そのまんまです、牛と牛の挨拶ですか。すると五台山に大会斎があるが行くかという、文殊菩薩出現の霊山ですか、そりゃえらい人方いっぱい、お釈迦さんも来なさるんですか、おい行くかという、うん行くといってすましこんでいると、鉄磨の痛棒食らいますか、おまえどうすると聞いても、拳骨が飛ぶ、うっふっふ面白いですね、磨すなわち出で去る、用事おわったんでもう用なしです、老婆禅はたしていずれにありや、孤俊他に比べるなく、万万歳なることは始めて作家を見ると。無巴鼻とはどことっつかまえてこうじゃない、目鼻なしです、生死の中に仏あれば生死なし、自分といううやむや葛藤に如来あれば自分なしです、どうか早くこれを得て下さい、これが師弟の葛藤うやむやですか、物そのものですか、あるいはこれなんの事件ですか、よくよく見て取って下さい。多少は得るとこあるんですか。

頌に云く、百戦功成って太平に老ふ、優柔誰か肯へて苦(ね)んごろに衡を争はん。
玉鞭金馬、閑に日を終ふ、明月清風一生を富む。

 百戦功なって太平に老ふ、というのはい山鉄磨の間柄ですか、世間事に就いては一将功なって万骨枯るですか、禅問答機峰鋭くをひょっとして、そんなふうに思っていませんか、つまらんです。自分というのを天地宇宙に返還してしまって下さい、穏やかにして優柔誰かあえて衡を争わん、三国史にある合従連衡の策を挙げるんですが、どうもそんなことではなく、大法にかなっているか、おれが勝ったおまえ負けたってことではないというんです、木の芽吹くように春である、緑影さわやかに五月という、ここをもって何をあげつらい、何を切磋琢磨かというんです、苦はねんごろと読むらしい、自分というはみだしものを、叩き伏せる、あるいは絶えずそういうこと
あって、箇の大海三味です、自分という法海一切です、他になんにもありゃしない、玉鞭金馬い山劉鉄磨丁々発止ではないところを見て下さい。用事終わったら帰るんです、まったくそれっこっきりにする、これすばらしいんですよ、閑に日を終わるんです。だれかこれできるものありますか、明月清風一生を富むと、一人こうあり二人あり、十人あって祇園精舎、あるいは一所不定住もすなわち一生不離叢林です、劉鉄磨
という伝説をまずもって拭い去るによし。まあそういうこってす。

画像の出典  オーストラリアの野生植物/方丈の旅行記より
[PR]
by tozanji | 2005-05-30 00:00 | 従容録 宏智の頌古

第五十九則 青林死蛇

c0015568_21545759.jpg

 衆に示して云く、去れば即ち留住し、住すれば即ち遺去す。不去不住渠に国土無し、何れの処にか渠に逢はむ。且らく道へ是れ甚麼か恁麼に奇特なることを得るや。

挙す、僧青林に問ふ、学人径に往く時如何。林云く、死蛇大路に当る、子に勧む当頭すること莫れ。僧云く、当頭する時如何。林云く、子が命根を喪す。僧云く、当頭せざる時如何。林云く、亦回避するに処無し。僧云く、正に恁麼の時如何。林云く、却って失せり。僧云く、未審し甚麼れの処に向かって去るや。林云く、草深うして覓むるに処無し。僧云く、和尚も也た須べからく堤防して始めて得べし。林掌をうちて云く、一等に是れ箇の毒気。

 青林師虔禅師は洞山良价の嗣、学人径に行くとき如何、道を歩いて行くんですよ、如何なるか是れ道、道はまがきの外にあり、わが問うは大道なり、大道通長安です、ただの道ですよ、さあどうなんですかというに、死んだ蛇が大路にあたる、死んじまったやつが大道もくそもねえがというのは、半分脇見運転ですか、子にすすむ当頭することなかれ、だからどうだって云わない、まあ頭もげというも別ことですか。この僧へっこまない、師の尊答を拝謝し奉るってふうにゆかぬ、そんで当頭せざるとき如何、回避するに処なし、頭どこへもってたって処なし、頭なしでいいです、坐っていて当面いや頭あるような気がしている、どこへどうしようがない、恁麼の時如何です。是なんです、坐が坐になって行く様子、でどうなんですという、林云く、却って失せり、跡づけること不可能を知って、いぶかし甚麼れの処に向かって去るや、草ぼうぼう煙べきべき、求むるに処なしと云って、突っ込まれた、和尚もまたすべからく堤防して始めて得べし、こいつはただものでないんです、よくなんたるかを知っている、仏という無辺大に甘えるんじゃない和尚は和尚をやれ、アッハッハこれ以外にないんです、さすが林和尚、屁とも思わずは、でかした一等の毒気と。

頌に云く、三老暗に柁を転じ、孤舟夜頭を廻らす。蘆花両岸の雪、煙水一江の秋。風力帆を扶けて行いて棹ささず。笛声月を喚んで滄州に下る。

 三老謝三老ですか、舟の柁取りですってさ、柁とってるひまあったら急転直下すりゃいいって、たしかに暗夜に枕頭をさぐるといった塩梅に、命根を喪し、回避するに処なしなんですが、アッハッハ蘆花両岸の雪、蘆花って真っ白い花らしいんですが、語の響きとあいまって絶景ですか、煙水一江の秋と、まさにもって風景を楽しむが如くあるのは、この僧手応え風力の所転ですか、滞るなきをもって、林云く、草深うして覓むるに処なし、僧云く、和尚もまたすべからく堤防して始めて得べし、絶妙絶景を以て、滄州中国を去ること数万里という理想郷ですか、棹ささずして、一等是れこの毒気ウッフ笛声まさに月を喚んで下るんですか、はいご退屈さま。

画像の出典  オーストラリアの野生植物/方丈の旅行記より
[PR]
by tozanji | 2005-05-29 00:00 | 従容録 宏智の頌古

第五十八則 剛経軽賤

c0015568_2151209.jpg

 衆に示して云く、経に依って義を解するは三世仏の冤、経の一字を離るれば返って魔説に同じ。因に収めず果に入れざる底の人、還って業報を受くるや也た無しや。

挙す、金剛経に云く、若し人の為に軽賤せられんに、是の人先世の罪業ありて応に悪道に堕すべきに、今世の人に軽賤せらるるが故に、先世の罪業即ち為に消滅す。

 金剛経、大般若経題五百三十四金剛能断分の別訳だそうです、金剛経を背負ってやって来て、ばあさんに三心不可得とそのお経にあるが、いずれの心にて団子食うかと問われた徳山和尚など、けだし仏教の真髄ともいうべきものでしょう、六祖応無所住而生其心の因縁もこれに依る、よく出て来ます、どうもわし読んだことないです。
お経から仏教を求めるのは、三世仏の冤あだと読むごとく、ろくでもないことになるっきりです。アンチ仏教の坊主学者をこさえるっきり、もと仏があってお経です、ではお経なんかいらないといって、そりゃそのとおりなんです、まず仏である自分に行き合う、無自覚の自覚をえて七通八達です、言句上に求めて、経によって義を解するは、ただそういう三百代言を作るだけです、まったくつまらんのです。人を救うどころかその説、人に聞いてもらわねば収まりきらん、仏教を云々しながら仏教とは無関係。駒沢を出て雲洞庵に坐って、今の坊主どもはけしからんなどいって、不聊をかこつ変なのがいて、いじましいったらげじげじみたいのが、仏教だなぞやってた
り、こないだ覗いたら、もうだれも坐らなくなって久しい僧堂があった、涙流れたです、越後一の寺なる修行道場がなんたること。
 それでもこの項面白いです、まさに人を救うんです、たしかに達磨さんも他にないがしろにされ軽んぜられ賤しまれという、アンチ仏教坊主の中に、わしらたいてい異端阿呆扱いされて、でもそいつを顔に現わす、文句のたねにするなど愚の骨丁です。
法要にあって法要してりゃいい、蛙やうぐいすよりもちっとはましにお経あげてますよ、木石に等しいんです。せめてそれできなければ、先世の罪業の即ち為に消滅すと知ればいいです、そりゃもっともそういうこってす、いえ世の中軽んじられようが、自分卑屈卑小になってはつまらんです。今に見ていろ僕だってというも騒々しいです。只管に打ち坐るのに、そりゃまずもって一物不将来がいいです、百般糠に釘ですか、いいえ単にただ正令全提です、わきめもふらずです。たといお経もこれが助けになりゃいいです。

頌に云く、綴綴たり功と過と、膠膠たり因と果と。鏡外狂奔す演若多、杖頭撃著す破竈堕。竈堕破す。却って道ふ従前我に辜負すと。

 綴綴たり功と過という、そりゃあ功と過を勘定すりゃどうでもそうなるんです、功や全機元過や全機元というと、なんか大げさですが、功過人間さまの勝手です、いつだってそのものそれっきり。人間さまに二つないんです、膠膠たり因果もこれを云えばきりもなくとっつきはっつきするんです、たいてい気違いになっちまうというのも、気違いは犀利にできています、綿密というのか雑多じゃない、気違いと常人の区別がないのは、だからといいゆえにといって生きているんです。お経を読んでだから故にやるも同じです、犀利に尽くすと狂うんです、放下著投げうつともとものはそのとおり行なわれているんです。坐禅の方法これです、手つかずです。万法からすすみ
て我を証拠するんです、えんにゃだったは鏡に映る自分の姿を見て、それを愛するんですか、いつか気に食わない、わあわあいうて狂い出すんです、他に標準を求めることかくの如し、近似値ほどひどいんです、ただあるがまんまのぴったりとは、我からすすみて万法を求めては気違いです。えんにゃだったは自分がないといって走り回る、お釈迦さまがぽんとその頭を叩いて落着です、実にこれ修行の人です、自分がない、おれはどこへ行ったという人いましたよ、宝鏡三昧影形あい見るが如くに、ついに失せる、自分というものなけりゃいられないという思い込み、実はそれによって苦しんでいたのにです。なくっていいんですよはいぽん。破竈堕和尚という人、かまどをぶち割って、この竈泥瓦合成す、聖何れよりか来たり、霊何れより来たりて恁麼に物命を辜負するやと、竈の神が現れて、おかげをもって本来本性を知るといった。まあそういうこってす。いつまで煮炊きの竈やってないんです、辜負とは背くこと、人生最大の罪は自分に背くこと、自分というちらともありゃ背くんですよ。
[PR]
by tozanji | 2005-05-28 00:00 | 従容録 宏智の頌古

第五十七則 厳陽一物

c0015568_2147163.jpg

 衆に示して云く、影を弄んで形を労す、形は影の本たることを識らず。声を揚げて響きを止む、声は是れ響きの根たることを知らず。若し牛に騎って牛を覓むるに非んば、便ち是れ楔を以て楔を去るならん。如何が此の過ちを免れ得ん。

挙す、厳陽尊者趙州に問ふ、一物不将来の時如何。州云く、放下著。厳云く、一物不将来箇の甚麼をか放下せん。州云く、恁麼ならば即ち担取し去れ。

 厳陽善信、趙州の嗣とあるのでついにこれが基本技をぶち抜いたんでしょう、なんにももっていないと云う、放下著捨てろという、なんにもないものをどうやって捨てるんだ、そんなら担いで帰れ。まず十人中十人がこれです。なんにもない自分を見ているんです、見ている自分があることに気がつかない。空といい無心といいする、ちっとも空でなく有心です。ないんじゃなく騒々しいんです、楔をもって楔を抜くことの自己満足ですか、さっぱり仏教にならんのです、学者説教師のたぐいこれ、まったくマンガにもならんです、醜悪というより世間一般路線です、それじゃさっぱりおもしろくない。清々比するなき箇のありようという、絵に描いた餅じゃそりゃ、せっかくの人生台無しです、アッハッハ人生台無しにして初めて得るんですか。影を弄んで形を弄すること、いつまでたっても糠に釘です、はいまったくの糠に釘になって下さい。ついにはかすっともしない、声に出してもはやおしまいを知らない、知らないんで是ですか、人に感動を与える歌手というには、自己満足自己陶酔のこれっから先も無きがよく、音痴は音痴を気にするから音痴という根も葉もないんです、なにしろこの基本技をマスターして下さい、担いで帰れと云われてちらとも反省して下さい、たいていまったく気がつかない。すなわちどうしようもこうしようもない自分です、そいつをひっ担いでああでもないこうでもないが、免れない、せいぜい妄想が出なくなったとかすっきりしたとかやっている、すると別時元の木阿弥です、実になんにもなっていないということに、いやというほど気ずかされる。ちらとも反省しますか、学者だのとかてんから気も付かずに行く。人とはほんとうに切羽詰まるということなければ、担いで帰れの一言身にしみぬものなのか、本来真面目の比較を絶する一物不将来にでっ食わさぬのか、まそういうこったですが、ちらとも知ることあれば、他雲散霧消。

頌に云く、細行を防がず先手に輸く、自ら覚ふ心麁にして恥ずらくは撞頭することを。局破れて腰間斧柯爛る、凡骨を洗清して仙と共に遊ぶ。

 これは碁の話から来る、王質という人が斧を持ち山へ行くと、碁を囲む四人の童がいた、棗の実をもらって食べると飢えず年取らず、一局終わってみると、斧が錆び腐っていたという、聊斎志異にあったな。細行を防がず先手に輸は負けるんです、一石おくのをうっかりしていて取られちまうこと、これはせっかくなんにもないまで行って、もう一歩押すところを手抜きですか、実はこの一歩こそが坐禅であり仏教です。唯識がどうのあらや識がどうのお釈迦さんのころはああだこうだいう、学者仏教をまずもって捨てる、でなきゃ始まらんですが、ついには一物不将来です、もとなんにもないことを知る。生まれたまんまの本来人でこと足りるんです、他一切いらないという、出家とはそういうことです。世間事一切を尽くす、免れ出てということあって、すっぱだかです。自ら思う心麁は鹿が三つで荒っぽいんです、世間事=学者仏教がなんという恥ずべき荒っぽさかを知る、撞頭死ぬべくしてようやく仏入門です。一局尽くし終わって、腰間斧柯あらゆる手段は腐れ落ちるんです、もはや世間には帰れないんですか、アッハッハそりゃそうですが、却来する世間おもしろいんですよ、もっとも仙と遊ぶ以外ないとこありますがね。世の中に伍して行くんではなく、そうですねえ、こんなにおもしろいことかつてなかったんです。

画像の出典  オーストラリアの野生植物/方丈の旅行記より
[PR]
by tozanji | 2005-05-27 00:00 | 従容録 宏智の頌古

第五十六則 密師白兎

c0015568_21423326.jpg

 衆に示して云く、寧ろ永劫に沈淪すべくとも、諸聖の解脱を求めず。提婆達多は無間獄中に三禅の楽しみを受け、鬱頭藍弗は有頂天上に飛狸身に堕す。且らく道へ利害甚麼れの処に在りや。

挙す、密師伯、洞山と行く次いで、白兎子の面前に走過するを見て、密云く、俊なる哉。山云く、作麼生。密云く、白衣の相を拝せらるが如し。山云く、老老大大として這箇の語話をなす。密云く、爾又作麼生。山云く、積代の簪纓暫時落薄す。

 だいばだったは無間地獄に三禅という、色界の大三天だそうです、有心の禅ですか、まああんまり楽しくはないんですが、夢中の楽しみのようにも思える、うまく行ったよかった済々だのいって坐っている連中ですか、でもって妄想我欲界です、仏の行ないという、善行には届かないんです。だいばだったはお釈迦さまの従兄弟です、仏を謗り五逆罪を犯して生きながら無間地獄に落ちる。阿難をして伝問せしめるに、汝地獄にあって安きや否やと。我地獄にありといえども三禅天の楽の如しと。だからどうってことないんですよ、もう一つ抜けりゃほんとうの楽を知るんです、無間地獄がふっ消えます。
 うずらぼん仙人という、仙人五通を得て空を飛んで王宮に食し、王妃の手に触れて通力を失い云々、以後さまざまあって失敗して、定に入るには定に入れずなど、死んで飛狸となって三悪道に落ちるとある、これもよくよく自分の坐に省みりゃいいです、通力を得たい、たいしたものになりたいなどいって坐っていませんか。すんでに情欲に囚われて、元の木阿弥の積木遊びです。おれがなにをどうするという、その根本を切らねば、ただそいつにしてやられるんです。
 神山僧密禅師は、雲巌曇成の嗣、洞山良价の法友にして常に行をともにす、どうもこれ白兎が面前を走過する、うわっ俊なるかなというんです、すばやいな。山そもさん一句道へという。進士に及第して天子にお使えする官吏ですか、白衣という、なにしろこの上なしのまあ、破天荒という文字も、これに及第しない天荒というからに起こったという、たいへんなものであったんです。そやつを拝む如くという、白い兎と俊敏に過るからに云ったんですか、老老大大としてまあ世間ご老体みたいに云うなといった。じゃおまえそもさん、洞山云く、簪纓首飾りと冠のひも、そいつをつけた積代の貴顯がしばらく落ちぶれて乞食になる、といった。さあどういうこったか人々よく見てとって下さい。飛んで行く鳥を見て、はとだからすだいっているところへ、あれはわしだよと老師、一箇うけがうものなし、俊なるかなといって、暫時落薄ですか。

頌に云く、力を霜雪に抗べ、歩みを雲霄に平しゅうす。下恵は国を出で、相如は橋を過ぐ。蕭曹が謀略能く漢を成す、巣許が身心堯を避けんと欲す。寵辱には若かも驚く、深く自ら信ぜよ、真情跡を参へて漁樵に混ず。

 下恵出国、柳下恵という人出国しようとするのへ、どこへ行こうが同じだ、道を直にせば三たびしりぞけられる、まげて人に使えて父母の郷を去る如何と論語にある。
相如過橋は、司馬相如少にして書を好み剣を学んで云々、蜀城の北に昇仙橋ありと、題して日く、大丈夫駟馬の車に乗らずんば、またこの橋を過ぎずと。蕭曹、蕭何曹参ともに漢の帝業を助けた人物。巣許、堯帝の召すを聞いて耳をそそいだ許由、その水を汚れだといって牛に飲ませなかった巣父。なんたってまあこの則、本来載すべきにあらずの処があって、故事来歴もややこしく。密師伯という人はこれで見るかぎり、悟もなんにもない人で、なにしろ曹洞宗の開祖さんたる、洞山良价とともに旅をする、高位高官であったか、詩人であったかいい人だったんでしょう。力を霜雪にくらべ、歩みを雲霄に平らす、美しい女であろうが貴人であろうが、いえただの人であろうが、伝家の宝刀をふるうのに、目くじら立てるこたないというんです。あと省略、深く自ら信ぜよというのは余計事です、平らかでありゃいい、漁師も樵夫もないんです、でもまあ宗門人と混ずるのは健康に悪いです、なるたけ面見ないようにしてます、すっきりしないってえか、うすら気味悪いですアッハッハ。

画像の出典  オーストラリアの野生植物/方丈の旅行記より
[PR]
by tozanji | 2005-05-26 00:00 | 従容録 宏智の頌古

第五十四則 雲巌大悲

c0015568_21313177.jpg

 衆に示して云く、八面玲瓏十方通暢、一切処放光動地、一切時妙用神通、妙用神通且らく道へ如何が発現せん。

挙す、雲巌道吾に問ふ、大悲菩薩、許多の手眼を用いて作麼かせん。吾云く、人の夜間に背手して枕子を模ぐるが如し。巌云く、我会せり。汝作麼生か会す。巌云く、偏身是れ手眼。吾云く、道ふことははなはだ道ふ即ち八成を得たり。巌云く、師兄作麼生。通身是れ手眼。

 雲巌曇晟禅師は薬山惟儼の嗣、道吾円智は兄弟子、大悲菩薩という千手観音、千の手に眼がくっつく、偏はぎょうにんべんあまねく、通身と同じです、真夜中まっくらがりに背中に手を回して枕を探る如し、わかりました、偏身これ手眼。なを八成を得たりというんです。じゃどうなんですか、通身これ手眼。どっかちがうですか、ちがうんです、自分という会すという、なにかしらある、驢の井を見る影法師、わかりますかこれ、どこまで行ってもという気がします。あるいは日々背反、どうあっても葛藤です、しかもなおかつ、暗夜に枕頭をさぐるが如し。たとい葛藤も背反もです、すると自分という主中の主がこっちがわにないんです。彼岸というあっちがわばっかりですか、ふうっと失せて井の驢を見るという。師兄作麼生と云われて、通見是れ手眼云うことはまったく同じ。どうですか、葛藤が終わったかという、背反が納まったかという、納まることはまったく納まっている、しかも背反あり葛藤です、アッハッハ八面玲瓏も南天北斗も、呼吸のごとく千変万化ですか、しかも一瞬一瞬です、一切事処放光動地、一切時妙用神通、わしのようなぼんくらあほんだれは、なんせ毎日坐っています、坐るほかにないことを知っています。九十までは生きると占い師が云ったけど、いったん終わった生涯なんというかご苦労さん。もっとも報恩底未だ終わっちゃいない、安閑とはしておられんです、そうして昨日の我は今日にあらず、いやさまだまだまだです。

頌に云く、一竅処通、八面玲瓏、象無く私無うして春律に入る。留せず礙せず月空を行く、清浄の宝目功徳臂。偏身は通身の是に何似れぞ。現前の手眼全機を顕はす。大用縦横何ぞ忌諱せん。

 竅は穴一竅処通とは人間の存在そのものなんです、早くこれを知って下さい、妄想法界じゃどうもならんです、自分という架空の思い込みが、世間一般を形成するんです、それは千差万別というよりただの雑多です、人みな自閉症をまげて世間一般となす、中国人はかつてまさにこうある仏祖師方であった、わしのような半端が尊敬も、なを遠く及ばぬほどです、それが今の日本排斥運動の如きは、雑というも愚かとも云いようにないです。共産党という理想の為には何してもいいという、一神教のカリカチュアですか、そのなすこと真実の欠片もなく、しかもそれを世間一般と思い込むんでしょう、物笑いです。これをだが誰彼やってないですか、思い込むようにしか見えない、騒々しい淋しい、喧嘩の原因宗教のよってたつところです。ばっさり脱ぎ捨てて八面玲瓏、象なく私のうして春至って下さい。井の驢を見る、世間一般というあとかたもないんです、このとき初めて人間であり、平和を云い思想を持し得るんです、理想だの神さまだのいう雑っぱはた迷惑じゃない、微妙幽玄ですか。留せず礙せず月空を行く、清浄の宝眼功徳臂、なにものにも替えがたいんです。大悲千手観音あるいは稚拙にしてこのように象ると、いいですか、万億手眼通身あまねくこれあなたなんですよ、あなたという無自覚なんです。どこへ行こうが何しようが大用縦横です、もとこのように行なわれている、何ぞ忌諱せん、早くこれを知って下さい、でないと今生終わってしまいますよ。

画像の出典  オーストラリアの野生植物/方丈の旅行記より
[PR]
by tozanji | 2005-05-25 00:00 | 従容録 宏智の頌古

第五十三則 黄檗とう糟

c0015568_21281973.jpg

 衆に示して云く、機に臨んで仏を見ず、大悟師を存せず。乾坤を定むる剣、人情を没し、虎児を擒ふる機、聖解を忘ず。且らく道へ是れ何人の作略ぞ。

挙す、黄檗衆に示して云く、汝等諸人尽く是れとう(口に童)酒糟の漢、与麼に行脚せば何の処にか今日あらんや、還って大唐国裏に禅師無きことを知るや。時に僧あり出でて云く、衆を領ずるが如きは又作麼生。檗云く、禅無しとは道はず只是れ師無し。

 黄檗希運禅師は百丈懐海の嗣、臨済の師です。身の丈豊かにして一掌を与えるを以てす、生得の禅なりと、なんともずっぱり頼もしい感じです、とう酒糟の漢は酒かす食らう男、古人の糟粕たる言句葛藤に纏縛せらるをいうと、くそかきべらと同じですか、人のひりだしたものを、ああでもないこうでもないです、世間一般ならともかく学人出家がというわけです。せっかく生まれて生きた覚えもないではないか。100%生きるにはいったん死なねばならん道理です。思い込み観念の死=肉体の死、わがものにしようとする欲望をひっぱがされる。知識学問にしがみつくんですか、死にたくないというやつですよ、これが奪い去られる、肉体の死以前に真実のといったらいいか、ほんとうの死なんですよ。でもって100%生きとは比較に拠らないんです、仏を希求してついにそれっきりになった人が、まるっきり仏を知らないんです。
大悟した人が師を知らず。
 生まれたまんまの赤ん坊にして、世間あらゆる常識を貯えているんです、一切事を卒業して、乾坤天地宇宙です。人情というしがらみに拠らない、うっふっふ死にゃそうなる、もっともたいへんなこってすよ、わずかに自由を得る。肉親兄弟あるいは来し方無惨を免れる、いいえ免れるなんてことないです。黄檗の母何変わらずや、一箇のありようただこれ。他なしにこうあるっきりです。虎児を擒はとらえる、虎児を得るおたからを得るんです、たった一回きり取る、アッハッハ単純明解他なしですよ。
聖凡かまっちゃいられんですか。おまえらみんな人のかすばか食っている、そんなんで行脚したっても、昨日ばっかり、今日にならんていうんです。かえって大唐国に禅師なきを知るや。一僧出て、でもあなただって、こうして大衆を領しているではないかってわけです、檗云く、禅なしとは云わず、ただこれ師なし。どうですか見事にこれは一則です。

頌に云く、岐分かれ糸染んで太はだ労労、葉綴り花聨なって祖曹を敗す。妙に司南造化の柄を握って、水雲の器具しん陶に在り、繁砕を屏割しじゅう毛を剪除す。星衡藻鑑、玉尺金刀、黄檗老秋毫を察す。春風を坐断して高きことを放さず。

 曹はつかさ、獄官裁判官の意、祖曹でもって祖師方、せっかくお釈迦さまが単純を以て示し、天地有情と同時成道の、綿々他なしに伝わってきたのに、仏教思想だの宗宗門ノウハウだの、枝分かれ花連なりついには敗壊、ただすのにもって黄檗ほどふさわしい人はなく、司南造化というまっしんもってどうだとやるんです、しん陶はろくろ、雲水用具をこさえるはろくろにあり、行脚というからですが、まずはもってそういうこってす。繁砕じゅう毛は鳥のうぶ毛ですが、あっちこっち枝葉末節は、即ち我欲妄想に流れるによってです。そうではないはたしておのれはどうかという、それっこっきり、これが就中できないんです。世法は捨てても仏法は捨て切れぬ、おれはどうなった、道が進んだやれどうだという、結局は世法なんです。身心挙げて仏の家です、ちらとも悟れば仏に返す、帰依というこれ。いいですか、人という他に生き様はないんですよ、捨てるという捨てたという、なにかしら残ったらそりゃなんにもならんです、無料奉仕以外ないんですよ。するとものみな法界が応じてくれます。星衡藻鑑はかりの目が正確なことは、因果応報微塵もごまかしが利かんです、玉尺金刀たとい黄檗なくとも、おろそかにならぬばくやの剣です、ちらともありゃばっさり切られを知る、ようやく参禅の戸口です。高きことを許さず、そうですよ差し当たって先ずはこれに見習う。

画像の出典  オーストラリアの野生植物/方丈の旅行記より
[PR]
by tozanji | 2005-05-24 00:00 | 従容録 宏智の頌古

第五十二則 曹山法身

c0015568_21243843.jpg

 衆に示して云く、諸の有智の者は譬喩を以て解することを得、若し、比することを得ず、類して齊うし難き処に到らば如何ぞ他に説向せん。

挙す、曹山、徳尚座に問ふ、仏の真法身は猶ほ虚空の如し、物に応じて形を現ずることは水中の月の如し、作麼生か箇の応ずる底の道理を説かん。徳云く、驢の井を覩るが如し。道うことは即ちはなはだ道ふ、只だ八成を道ひ得たり。徳云く、和尚又如何。山云く、井の驢を覩るが如し。

 曹山本寂禅師、洞山良价の嗣、ともに曹洞宗の祖、諸の有智のものは比喩たとえをもって理解することができる、日常一般です、認識というたとえばこのようなものです、それで理解できたかというと、理解できたという思い込みですか、知識の交通整理、だからどうのの道です、これに疑問をもってはじめて、本当はという仏の世界です。そうして本当は何かというと、実に本則のごとく、仏の真法身は猶ほ虚空の如し、物に応じて形を現ずる以外にないんです。得る理解するという手応えがない、手応えをいえばものみな全体ですか=ナッシングですか、求め尽くして、終に求める自分を離れる、ぜんたいはるかに塵埃を出ず、ほおっと入ってしまっているのへ、入ったという、入っているという実感がない、これおもしろいんですよ。清々とか生き甲斐のはんちゅうを遙に超えるんです、だからおもしろいんです。その面白いことは、徳上座驢ろばの井戸を見るごとくという、そりゃまったく云い得ているんです、そいつを井の驢を見る如くという、がっさり落ちるんです、うわーっ全体、アッハッハまあそんなこってす。類して等しからず、混ずる時んば処を知る、意言に非ざれば、来機また趣むくと、洞山大師宝鏡三味にあるように、汝これ彼にあらず、彼まさにこれ汝と、このお経どこ取ったって別段のことはないんです、汝今これを得たりと、よろしくよく保護して下さい。

頌に云く、驢井を覩、井驢を覩る。智容れて外くる無く、浄涵して余りあり。肘後誰か印を分たん。家中書を蓄へず、機糸掛けじ梭頭の事、文彩縦横意自ら殊なり。

 ろばという愚鈍代表でしょう、無形容なんです、たしかに日常坐臥こうある、黒漆のこんろん夜に走るというより、暗室移らずですか、これを驢と云ったんです。
そうしてぜんたい井戸のようなのは、その真ん中にあるまっしんです。碧水層山玉を削りて円かなり、あるいは深い井戸の底という。なに開けていりゃいいんです、すべからく目は見開くべし、自閉症の坐禅やってるんじゃないんです、春風いたってあるいはしくしく雨が降る、まさにそれを呼吸しそれが呼吸する、わしみたいひなむくれ老人だろうが、青春であり父母未生前です。井驢を見る如く済々無窮を味わって下さい。
はあて誰が味わうんですか。そうですよこれなくんば仏教もへちまもないです。
家中に書を貯えずはまさにわしがこと、本棚なし、いつもどっか行っちまって、必要になると大変、たいていだれかの借りてほったらかし。本なんか読まないよという、だってつまらない、へたくそせせこましい、いやまあそういうこったが、智容れて外れるなく、浄涵して余りありは、まったくもってその通りです、そうねえ地球宇宙人間以外まさにそのように生きているんですか。記述したりだれかに伝えってこと、別段いらんのです。機梭糸をかけずとも文彩縦横無尽、勉強しないかってそんなことないです、でもまあさっさと忘れちまうほう早いか。うんいい文章つくってやろうか。
これはこれ風力の所転、感動を与えってアッハッハ餓鬼どものふりせにゃいかんぜ。

画像の出典  オーストラリアの野生植物/方丈の旅行記より
[PR]
by tozanji | 2005-05-23 00:00 | 従容録 宏智の頌古

第五十五則 雪峰飯頭


c0015568_2217886.jpg
 衆に示して云く、氷は水よりも寒く、青は藍より出ず。見、師に過ぎて方に伝授するに堪えたり。子を養うて父に及ばざれば家門一世に衰ふ。且らく道へ父の機を奪ふ者は是れ甚麼人ぞ。

挙す、雪峰徳山に在りて飯頭となる。一日飯遅し、徳山鉢を托げて法堂に至る。
峰云く、這の老漢鐘未だ鳴らず、鼓未だ響かざるに、鉢を托げて甚麼の処に向かって去るや。山便ち方丈に帰る。峰巌頭に挙似す。頭云く、大小の徳山末後の句を会せず。山聞きて侍者をして巌頭を喚ばしめて問ふ、汝老僧を肯はざるか。巌遂に其の意を啓す。山乃ち休し去る。明日に至って陛堂、果たして尋常と同じからず。巌掌を撫して笑って云く、且喜すらくは老漢末後の句を会せり、他後天下の人、伊を奈何ともせず。

 飯頭はんじゅという典座の下にあって大衆の喫飯にあたる、徳山宣鑑禅師は青原下四世龍潭祟信の嗣、三心不可得いずれの心をもってその団子食うかと婆子に云われ、ぐっとつまって龍潭和尚を訪ねる、もと大学者であった、手燭の火を吹き消されて忽然大悟、担って来た金剛経を焼く。これも有名なら雪峰飯頭も人のよく知るところ、徳山は結果が出たが、こっちは一場の漏羅ともいうべき。どうも知られているわりにはすっきりしない。末後の一句という巌頭の得意技であって、転ずるまた幾多ということらしいが、せっかく師匠の頭かっぱじいてまで、どうやらなんにもならなかった。どうしてもあるあると思っている、わしがちらとも気がついたとき、老師に食ってかかった。あるあるっていうから参じて来たのに、なんにもありゃしないじゃないかと、老師苦笑して、そりゃ仕方なかろうがという、こんな簡単明瞭をなんでといえば、そうさなちった仏教を説かねばと云った。由来わしのほうも四苦八苦して、ないものがいつまでもあったりしたです、でも渠は後の大雄峰です、雪峰がありと参ずる、得たりと参ずるんです。どうだという、鐘も鳴らん、鼓も打たんのにのこのこ出て来おってと、親分だろうが向こう敵なしの力量です。徳山何いうかと思ったらくるっと引き返す。この大力量、なんにもないっていう、ただそれだけのこってすが、なんにもないとは宇宙そのものです。宇宙っていうの語弊があるですが、もしや山の如くですか。蚊の食うほどもかすらんやつを、というより徳山の無心、雪峰の有心でしょう、そいつがのれんに腕押し。自分に返るー返らなかった、兄弟子の巌頭に挙す。巌頭伝家の宝刀末期の一句をもってす、徳山、肯わざるといえばぶん殴っても看板は維持せにゃならんところです。大力量またもはいといって休し去る、就中明日上堂、果たして尋常とはまったく違ったというんです。アッハッハ巌頭ならずとも大笑い、どうですか末期の一句三千里外に吹っ飛ばして下さい、そこらにひっかかって飯頭やってんじゃないんです。

頌に云く、末後の一句会すや也た無しや。徳山父子太はだ含胡す。座中亦江南の客あり、人前に向かって鷓鴣を唱ふること莫れ。

 含胡中国のスラングではっきり物云わぬこと、胡という漢に対する外国人ほどの意で、ここはどうもやっぱり含胡で、末後の一句などたわけたことを云って、なあなあずくで仕出かそうという感じです。末期の一句、ついに自分城を明け渡すんですか、これ坐っても坐ってもの処あって、道元禅師大法を得られる。なんで外国人如きがと侍者の云うのへ、如浄禅師が、あいつもずいぶん叩かれたでなと答える。どこまで行っても自分という、おれはというそやつが抜けないんです、末期とは死ぬる時、おまえ死んだらどうなると聞く、いえそのとかはか行かぬ答え、おまえ死んで三日もすりゃ完全に忘れられるよ、なに人の記憶にあろうがないと同じ、でもってものみ
な世間同じく、はいこれを大悟徹底というんだというと、きょとんとしている。そうなんですよ、禅といい参禅坐禅という、なにかあるものを求める、内面といい真髄というんでしょう、そうじゃない、虚空という別にあるもんじゃないです。外に向かって明け渡してゆく、ついに外なしです、みなさん方法が間違ってますよ、アッハッハ風景しかないんです、捨てる=死ぬとはこれ。
 詩経国風にあり、また祖録にも出て来ます、江南三月、鷓鴣鳴くところ百花開くという、あるいは江国の春風吹き立たず、鷓鴣鳴いて深花裏にありと、二千年来心の故郷ですか、江南はいいところなんでしょう、江南の客悟った人、悟ったといって歌い浮かれるのは、真であればそれっきり、ふりしたって騒々しい淋しいんですよ。


画像の出典  オーストラリアの野生植物/方丈の旅行記より
[PR]
by tozanji | 2005-05-22 00:00 | 従容録 宏智の頌古