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第五十一則 法眼航陸

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 衆に示して云く、世法の裏に多少の人を悟却し、仏法の裏に多少の人を迷却す。忽然として打成一片ならば、還って迷悟を著得せんや也た無しや。

挙す、法眼覚上座に問ふ、航来か陸来か。覚云く、航来。眼云く、航は甚麼の処にか在る。覚云く、航は河裏に在り。覚退いて後、眼却って傍僧に問ひて云く、汝道へ適来の這の僧、眼を具するや眼を具せざるや。

 法眼宗の祖清涼文益禅師は地蔵桂しんの嗣、覚上座という人に、舟で来たか歩いて来たかと聞く、舟で来ました。舟はどこにあった、河ん中にあった。覚上座退ってのち、かたわらの僧に、どうだあいつは悟ってるんか、悟っておらんのかと聞く。
つまりこれだけのこってす。悟ってたんですか、悟ってないんですか。首をかしげたらはあてどうなんです。正解不正解は自分の辺にOX付けてください、Xを付けてもOをつけてもかすっともかすらんようだと、はあてお話にならんですか、お話にならん人大正解ですか。
 どこから来たか、南から来ましたという、世法ですか。
 答えに響きありという、問うより先に答え、東西南北の風をいとわずですか、庭前の柏樹子と道おうが関といおうが、急転直下するものはする、迷う者はかえって迷うんです、世法を用いるに世法に堕しじゃ、そりゃ生臭坊主の説教みたいに、お布施稼ぎ以外なんにもならんですが、かつてそうではなかった。大道長安忽然大悟は、まがきの外にありと知っても就中とやこうするんです。どこまで行っても迷悟中という、法眼云く、迷悟中と=もとこのとおりの他はなんにもないというのに、どうしてこんなに苦労するのかという、わずかに自分という寸分なんです。そいつがとっつこうはっつこうするんです。正師にも迷わされ邪師にも迷わされというは、迷わされる自
分があるからです。単純な問題。

頌に云く、水水を洗わず、金金に博へず、毛色に昧うして馬を得、糸弦靡うして琴を楽しむ。縄を結び卦を描いて這の事あり、喪尽す真淳盤古の心。

 水は水を洗わず、金は金と交換しない、博は貿易なりとあります、まあそういうこって、仏について仏を説くは下の下ですか、仏教について仏教云々は最低ですか、この事少しでも身につけばそこを以て当たるんです。生臭坊主のわしは女の子大好きの、仕方ない身の上相談引き受けようというと、いえこうして目前するだけでいいという、どっか開けるらしい、わしとて未だしだろうが、誰彼しばらくすると元気になる。檀家なぞとくに無駄話しかしないのです。老師に会うと会うだけでがっさり外れるという、先師古仏たしかにそうであったな。それにしちゃアッハッハオウムやなんとか教みたい、人も寄らんきゃぜにも集まらんな。世法とは違うんです、良馬を選ぶのに毛色に拠らないという、同じ羽根の鳥を呼ぶ一神教じゃないんです、ふりとらしいの嘘八コンクラーベなどいう、どうしてキリスト教の牧師やら、ああいう複雑怪奇な面してるんだろ、そりゃまあわからんこともないけどさ、本当を知らないってだけのこと。真実なけりゃ多数決ですか、民主主義という信仰ですか。琴中の趣を知らば何ぞ弦上の声を労せんという、これも中国の故事ですが、音楽を知るは音楽家であることを要せぬ、むしろ音楽家とはつきあいたくないんです。大人しかこの事に能るなし、ものごとの本来しかないんです。縄を結んで言葉とし八卦を描くもまだなつかしいですか、盤古とは中国開闢の祖ですとさ、即ちそれ以前に向かって求めるがよ
く。

画像の出典  オーストラリアの野生植物/方丈の旅行記より
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by tozanji | 2005-05-21 20:44 | 従容録 宏智の頌古

第五十則 雪峰甚麼

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 衆に示して云く、末後の一句始めて牢関に到る。巌頭自負して上親師を肯はず、下法弟に譲らず、為復是れ強いて節目を生ずるや。為復別に機関ありや。

挙す、雪峰住庵の時、両僧あり、来って礼拝す。峰、来たるを見て、手を以て庵門を托して、放身して出でて云く、是れ甚麼ぞ。僧亦云う、是れ甚麼ぞ。峰、低頭して庵に帰る。僧、後に巌頭に到る。頭問ふ、甚麼の処より来たるや。僧云く、嶺南。
頭云く、曾て雪峰に到るや。僧云く、曾て到る。頭云く、何の言句か有らん。僧前話を挙す。頭云く、他は甚麼とか道ひし。僧云く、他、語無ふして低頭して庵に帰る。
頭云く、噫当時他に向かって末後の句を道はざりき。若し伊に向かって道はば、天下の人、雪老を奈何ともせじ。僧夏末に至って、再び前話を挙して請益す。頭云く、何ぞ早く問はざる。僧云く、未だ敢えて容易にせず。頭云く、雪峰我と同条に生ずと雖も、我と同条に死せず、末後の句を知らんと要せば、只だ這れ這れ。

 雪峰巌頭ともに徳山門下、巌頭が兄弟子です、人も知る雪峰の、我今始めて鰲山成道は、兄弟子巌頭と鰲山というところに、雪に閉ざされて、雪峰は坐し巌頭は足つん出して寝ている、乃至は門より入るものは家珍にあらずという言下にこれを得るんです。この則どうですか、雪峰悟をえたあとですか前ですか、うっふっふどっちでもいいから面白い。もっとも放身して出でてという、並みの人には出来ないですよ、我ごとに投げ与える、これできりゃもうそれ十二分なんです、痛快この上なし。巌頭は、五十五則にあるんですが、師匠の徳山をとっつかまえて、末後の一句やるんです、こんな老婆親切男いないです。そこがぞっこん好きなんですが、しっかりしていることは、他仏祖師方と引けは取らんです。末後の一句さえ道い出でたら、せっかく雪峰も、天下の人如何ともし難し。大丈夫万々歳になったというのに、惜しいことをした。こう云われちゃこの僧忘れることできんです、せっかく雪峰と同死同生底だっていうのに、そいつに気がつかない、すなわちお釣りが出た。どっちみち低頭して帰るも、これなんぞも、寸分の別途ないんです。手つかずならもとかくの如し、どうですか急転直下しませんか。おれのやってること余計事、いったいなんでっていうんです、はいこれ末後の一句。
末期が終わったら死ぬばかり、アッハッハ死人に口なしですか。

頌に云く、切磋し琢磨し、変態しこう訛す。葛陂化龍の杖、陶家居蟄の梭。同条に生ずるは数あり、同条に死するは多無し。末後の一句只這れ是れ、風舟月を載せて秋水に浮かぶ。

 切磋琢磨は今に残った成句ですか、玉を磨いて光りを放つ、せっかく切磋琢磨したやつを、変態こう訛です、変態は今は別様に使うようですが、昆虫の変態など、要するに様変わるんです、こう訛、訛は方言なまり、ごうかという成句があったはずですが、こうは肴に几又です、末後の一句という正論仏教にはあんまりない語ですか、もっとも禅門そこばくの手段、正統仏教とは且喜没交渉ってとこあります。仏教学者も行ない清ましたって、自救不了、まったくなんにもならんのに説教だの、うるさったいばかりです。そんなふうで他の一神教となると恐ろしいです、人類迷妄の歴史は、二千年の落とし前をいったいどう付けりゃいいって、もはや地球を滅ぼすばかりですか。葛陂化龍は、むかしばなしみたいなので、薬売りが壺の薬を売って、売り終わると壺の中に入っている、長房という人が見ていぶかしんで問う、ついで杖をもらって飛んで行き龍に化した云々。陶家居蟄も、蟄龍といってもぐっている龍ですか、雷鳴って龍と化す話、まあ適当に解釈して下さい。生きるは同条数あり、解釈の分にはさなざまあったって、現実はただ這れ、ただもうこうあるっきりです。死ぬるはたった一個。これがどうしても外道にはわからない。せっかく正法眼蔵を外道のまんまじゃ、そりゃ死んでも死に切れない。魚変じて龍と化す那一著如何がです、なにをどうあったってやって下さい、末後の一句アッハッハ死んだらなんにも残らないのですよ、風流の外から面と向かって下さい、枯れ木にも花とともに春風いたる。

画像の出典  オーストラリアの野生植物/方丈の旅行記より
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by tozanji | 2005-05-20 00:00 | 従容録 宏智の頌古

第四十九則 洞山供真

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 衆に示して云く、描不成、画不就、普化は便ち斤斗を翻し、龍牙は只半身を露はす。畢竟那んの人ぞ。是れ何の体段ぞ。

 挙す、洞山雲巌の真を供養するの次いで、遂に前の真を貌する話を挙す。僧あり問ふ、雲巌祇だ這れ是れと道ふ意旨如何。山云く、我当時幾んど過って先師の意を会す。僧云く、未審し雲巌還って有ることを知るや也た無しや。山云く、若し有ることを知らずんば争でか恁麼に道ふことを解せん、若し有ることを知かば争でか肯へて恁麼に道はん。

 普化盤山宝積の嗣、「明頭来也明頭打、暗頭来也暗頭打、四方八面来也旋風打、虚空来也連架打。」という普化宗の祖。臨済にろばと云われて驢鳴をなす、普化驢馬という。盤山順世に当たり、衆に告げて云く、我が真を貌し得るや否や、衆写すところの真をもってす、山肯ぜず、普化出でて斤斗とんぼがえりを打つとある。貌はしんにゅうがついているんですが、同じく顔をかたどるの意、真今でいうなら写真です、むかしから葬式に位牌と真を持つ。描不成、画不就はつまりそのまんまでいいんですが、鳥を描いても鳴き声はかけぬ、花を描いてもにおいはかけぬとあります。龍牙は洞山良价の嗣、龍牙山居遁禅師、徳山に問うて、学人ばくや(吹毛剣)によって師匠の頭を取る時如何と。山首をつん出してカという、師云く、頭落ちぬ、山呵呵大笑す。これをもって洞山に挙して初めて省す。ほんにばくやの剣の自信があったんでしょう、しかもなお半身。本則の学人も、いぶかし雲巌かえって有ることを知るやと、問うときに相当の自信があるんです、自信のある分が駄目ってこと知らない、おそらく有ると云えばあやまち、無いといえばあやまちアッハッハさあどうするってわけです、洞山あるいはその通りに答えて、学人の自信を根底から奪い去る、さしのべた手を引く如く、はあっと墜落なんにもない、そうですよ恐怖の一撃。

 頌に云く、争でか恁麼に道ふことを解せん、五更鶏唱ふ家林の暁、争でか肯えて恁麼に道はん、千年の鶴は雲松と与に老ふ。宝鑑澄明にして正偏を験す、玉機転側して兼倒を看よ、門風大いに振るって規歩綿々たり。父子変通して声光浩浩たり。

 洞山雲巌を辞す、山問ふ、和尚百年の後人、還って師の真を貌得するや否やと問はば如何が祇対せん。巌良久して日く、祇だ這れ這れと。この則はこれを踏まえてもって挙す。いかでか恁麼に道うことを解せん、ただこれこれと、五更夜明けを待ってにわとりが時を告げる、そりゃ日本でもずっと家林の暁だったです。そのかみただこれと示されて、なんという衲はと省す。千年の鶴はという洞山大師です、仏向上事昨日の我は今日のおのれに非ず、巌良久してただ這れという、そっくり手に入ったという一瞬の夢です。宝鑑澄明という宝鏡三味に拠る、正偏兼倒という洞山五位から来る、いずれ本来事玉機転転人々門風大いにふるって下さい。得た得ないじゃない毎日命がけといったふうですよ。命がけが悪かったらなめくじのなんにもならんでいいです、あるいはわがもの底無し、あるいはかすっともなく、日々葛藤を日々是好日です、人の日送り如何、父子変通して声光浩浩たり、手前味噌の孤独独創みたいうさんくさいものないんです、逐一において天上天下。

画像の出典  オーストラリアの野生植物/方丈の旅行記より
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by tozanji | 2005-05-19 00:00 | 従容録 宏智の頌古

第四十八則 摩経不二

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 衆に示して云く、妙用無方なるも手を下し得ざる処有り。弁才無礙なるも口を開き得ざる時有り。龍牙は無手の人の拳を行なうが如く、夾山は無舌人をして解語せしむ。半路に身を抽んずる底是れ甚麼人ぞ。

 挙す、維摩詰、文殊師利に問ふ、何等か是れ菩薩入不入の法門。文殊師利日く、我意の如くんば一切法に於て無言無説、無示無識にして諸の問答を離る、是れを入不入の法門となす。是に於て、文殊師利維摩詰に問ふて云く、我等各自に説き已る、仁者常に説くべし、何等か是れ菩薩入不入の法門。維摩黙然。

 これは維摩経入不入法門品第九の文だそうです、維摩詰イマラキールテ無垢称と訳す、釈尊と同時代の人維摩居士。文殊菩薩は智恵第一の、普賢菩薩は行ない清ますこと第一の、お釈迦さまの両脇侍です。菩薩入不入の法門とは、無漏余すところなしです、説いても説かずとももとこの通り、自覚するも無自覚も同じです。これを得るにはまさにこれに住すしかなく、文殊菩薩、我が意の如くなればと、各自まさにもって示して下さい。唯物論がどうの唯識だ空論がどうのと、たわけたことをいう人、たといなんの為にし、たとい得てなんになるかという、まっぱじめの問題に答えを出して下さい。でないと長柄を北に向けて南を求める、マンガにもならんのです。外道の云うかいなくではなく、一切法の疵あるなく、無言無説無示無識、一輪の花のように諸の問答というも塵埃です。さあ道うてみろと云われて、黙然ですか、そんな花ないですよ、すみれ一輪百千万億です、しかもなんというけれんのなさ。人間も人間の如来に同ぜるが如し、なんの過不足もないはずです、だのになんの言説。

 頌に云く、曼殊疾を問ふ、老毘耶、不二門開けて作家を看る。 表粋中誰か賞鑑せん、忘前失後咨嗟すること莫れ、区区として璞を投ず楚庭のひん士、燦燦として珠を報ず隋城の断蛇、点破することを休めよ、 瑕を絶す、俗気渾べて無うして却って些に当たれり。

 曼殊は文殊に同じ、毘耶は毘耶城に住んでいた惟摩居士のこと、入不入の不二の門開けて、かつて見たこともなかった、思想観念によらぬ世界です。思い込みによらぬ作家を見るんですこれあって初めて仏教帰依です。らしいにせのキリスト教じゃないんです、信じたって迷妄、みんなでもって神のみもとへ、選良だろくでもないことしてないで、人間も脳味噌にしてやられ卒業して、新人類ですか。アッハッハどうにもこうにもの今世紀、生まれ変わって下さいよ、こんなふうじゃやってられんです。この項中国人垂涎の玉について、漢和辞典で捜す玉ばっかり出て来ます、玉に民は燕みん玉に次ぐものとあります、みん中玉表、表は石で中に玉、せっかく玉なのにそれに気がつかない。惟摩黙然呆然自失も、咨嗟ため息して嘆くんです、なにさそんなこといらんよっていうんです。楚庭ひん月に賓です士、卞和三献の故事です、両足切られてなをも献じて玉なりとす、いいからまっしぐらにやれってこってす。隋城断蛇は、大蛇の疵を治してやったら玉を吐いて報いた、明なること月の照らすが如く、明月の珠と名付くとある。まあ蛇だって珠を報ずるってわけです、点破するたいていの人これです、せっかく坐りながら点検です、いいのわるいのやっている、入不入の法門思い切って点破、点検するから破れるんです、これをなげうつんです。疵を絶することもと疵なし、手つかずの法門安楽の法です、すなわち手を付ければ手を付けたがあるんです、付けなければもとない、只管打坐、俗気さらになけれぼそれを瑕疵です。惟摩居士ならずはたといこれを得ずですか、人人大いに真正面。

画像の出典  オーストラリアの野生植物/方丈の旅行記より
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by tozanji | 2005-05-18 00:00 | 従容録 宏智の頌古

第四十七則 趙州柏樹

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 衆に示して云く、庭前の柏樹、竿上の風幡、一華無辺の春を説くが如く、一滴大海の水を説くが如し。間生の古仏迴かに常流を出ず。言思に落ちず若為んが話会せん。

 挙す、僧趙州に問ふ、如何なるか是れ祖師西来の意。州云く、庭前の柏樹子。

 祖師西来意とは達磨さんがインドからやって来た意とは、ということです、柏は日本のかしわと違って松に近い常緑樹だそうです。如何なるか是れ祖師西来意、庭前の柏樹子と、禅問答代表みたいになって、型にはまって目前の露柱だの、卓子だのやってます。猿芝居の晋山式や小参問答など、それを見た県会議員が、さすが坊さんはえらいもんだ、師の尊答を拝謝し奉るたって、わしら議会納得させるのには命がけだと皮肉った。自浄作用のない若い坊主ども、云う甲斐もないんですが、庭前の柏樹子という破天荒なんです。仏という悟ったらという、なにかしら思い込みがいっぺんに吹っ飛ぶ。飛び板の辺に乗っていたやつが、飛び板ないんです、真っ逆様に墜落して七分八裂する、いえあとかたないんです。アッハッハこりゃ話堕に落ちたですか、大趙州なんたってとやこうの余地ないです。とうやこうがとやこうと回向する、一華無辺の春、一滴大海水です。間生古仏、五百生の大善知識といわれる、六祖また大趙州です。ちなみに竿上の風幡は、六祖風動幡動の則です、風も動かず幡も動かず汝が心動くなり、はいこれ体現して下さい、ほんに木の葉揺れずこっちがこう揺れ動くんですよ。

 頌に云く、岸眉雪を横たへ、河目秋を含む。海口浪を鼓し、航舌流れに駕す。撥乱の手、太平の籌。老趙州老趙州、叢林を攪攪して卒に未だ休せず。徒らに工夫を費やして、車を造って轍に合す。本技倆無うして壑に塞がり溝に填つ。

 面白いですね、岸が眉で河が目で河口ではなくて海の口、航跡が舌、これ文人ならでかしたというんでしょうが、実に五体あっちがわというんでは百歩遅いんです、庭前の柏樹子と、なり終わって毫髪も残らんのです。だからこの頌は、風景だけがある、面白いのはそこなんです。なんとも譬えようにないんですよ、そこからして言語する、我という架空に陣取ってとやこうを、まずはぶっ食らわせ撥乱の手です。
籌ははかりごと、太平という人情沙汰ではない所をもってす。老趙州老趙州です、まさに右に出るものはいないんです。六十歳再行脚、我より勝れる者はたとい三歳の童子と雖もこれに師事し、我より劣れる者は、たとい百歳の老翁と雖もこれに教示すという、齢百二十までも叢林僧堂です、帰依僧和合尊の拠るところ、祇園精舎です、よどんでるやつひっかきまわして、未だ休せず、よどんでいるというのは、転法輪仏教の車かくあるべしと、工夫してもって轍に合わせること。そうではないもと技倆なくして、だからとか頭の鉢通さないんです、壑は谷、太平まったいらをとやこうってのどかんとやるんです。どうにもこれが籬の外大道長安。

画像の出典  オーストラリアの野生植物/方丈の旅行記より
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by tozanji | 2005-05-17 00:00 | 従容録 宏智の頌古

第四十六則 徳山学畢

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 衆に示し云く、万里寸草無きも浄地人を迷わす、八方片雲無きも晴空汝を賺す。是れ楔を以て楔を去ると雖も、空を拈じて空を柱ふることを妨げず。脳後の一槌別に方便を見よ。

 挙す、徳山円明大師衆に示して云く、及尽し去るや、直に得たり三世諸仏口壁上に掛くることを。猶ほ一人有って呵呵大笑す、若し此の人を知らば参学の事畢んぬ。

 徳山円明大師は雲門の嗣、これは三心不可得いずれの心にか団子食らうと云われて、龍潭和尚を訪ねる徳山とは違う、徳山九世です、しかもまあ痛快至極の説得ですか。及尽し去るや、参禅はこれすべてを尽くして後なんです、学者余外の人とやこういう、口幅ったい連中のアッハッハ、百生ほどはあっさり卒業するんです。なにとやこう云おうが先刻承知という、いえ尽くし終わって忘れ去るんです。すると二度と迷わない、いえなんにも云うことない、云わない、云いえないんですよ。口壁上にかかる、なを一人あって呵呵大笑、見ずやというんです。この人を知らば参学の事畢わんぬ。はーいこの人を知って下さい、まさにもって他には方法がないです。万里寸草なしにきれさっぱりする楔です、くさびになる風景ですか、片雲なき晴空賺はだます、そんなもんにだまされちゃだめですよっていうんです。自分でもって掃き清める、楔を以て楔を抜こうとする、そうしている自分如何の問題です、すべてを尽くそうが、尽くしているそいつがあっちゃ、空を拈じ空を柱えるんです。よって脳後の思いももうけぬ一撃です。いえさ棚からぼた餅じゃない、やっぱり自ずからなんです、そうしてどうあったろうが坐るよりないです。わかりますかこれ、そうねえ全生涯捨てるっきりないです。仏もなにも一切です、捨てるも捨ておわって呵呵大笑。

 頌に云く、収。襟喉を把断す。風磨し雲拭ひ、水冷ややかに天秋なり、錦鱗謂ふこと莫れ慈味無しと、釣り尽くす滄浪の月一鈎。

 収、まあ一巻の終わりってなもんです、もうまるっきり先なし、もとこの通りあったということを知る。天地宇宙歴史人生ビッグバンもさ一場の漏羅と云った具合で、無始無終こうあるという。そりゃ人が見るなら、風磨雲拭水冷ややかに天秋、いやもう空っけつ、どうにも取り付く島もないんですが、花あり月あり楼台あり、わっはっは我が青春てなもんで、ものみなぜんたいです。慈味というたとい錦鱗の、鳳凰だろうが龍だろうが、これを知れるなしです。蛇足ながらかつて寸分の苦労があったんですか、釣り尽くす滄浪の月一鈎、別に問題はないよ、まったくの余計ごと。

画像の出典  オーストラリアの野生植物/方丈の旅行記より
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by tozanji | 2005-05-16 00:00 | 従容録 宏智の頌古

第四十五則 覚経四節

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 衆に示して云く、現成の公案只だ現今に拠る、本分の家風分外を図らず。若し也た強ひて節目を生じ、枉げて工夫を費やさば、尽く是れ混沌のために眉を描き、鉢盂に柄を安ずるなり、如何が平穏を得去らん。

 挙す、円覚経に云く、一切時に居して妄念を起こさず、諸の妄心に於て亦息滅せず、妄想の境に住して了知を加えず、了知無きに於て真実を弁ぜず。

 これおもしろいんです、著語があって不と各節に付く、ノーノーっていうんです、わしもまったくそういって読んでたですが、これもっとも基本の坐の工夫かくのごとくなんです。円覚経清浄慧菩薩の章、非思量底を知らしむとあります。非思量底いかんが思量せん、一切時にあって妄念を起こさずという、身心ものみなを、念起念滅する一般解、というともののたとえですが、そやつをよこしまにする、特殊解するんです、アッハどうもこのたとえあんまりよくないな。孫悟空の頭の鉢ですか、よこしまわがものにすると痛むんです、おれがやったらもうどっかうまく行かない、解放する明け渡すんです、すると虚空が虚空を坐禅するふうです。一応こんな目安でやって下さい。人間、いえわしのこってすか、どうしようもこうしようもないとこあってじきにおれがやっちまうです、なんの取り柄もない、かすにもならんとこをもって、挙げてお手上げです。すると仏の世界に現ずる無自覚ですよ。公式としちゃあまったく二二んが四です。しかもこれ世の人あるいは一神教主義主張の知らないところは、妄想なけりゃないがマル、妄想を除いて真実を求めよう、あるいはそんなことできっこないから、なあなあコンセンサスやるんです。この世を線型に支配しょうという無理無態ですか。君見ずや絶学無位の閑道人、妄を除かず真をもとめず、手つかずの工夫です。まったくただの只管打坐です。そうして工夫がうまく行っているときに、円覚経とねえふーんてなもんですよ、本分の家風強いて節目にあたらず、混沌に目鼻を付けると死んでしまう、そりゃ端にわがことかくの如しだからです、はい手放し。

 頌に云く、巍巍堂々、磊磊落落、閙処に頭を刺し、穏処に足を下す。脚下線絶えて我自由、鼻端泥尽く君けずることを休めよ。動著すること莫れ、千年故紙中の合薬。

 巍高いありさま、巍巍たる金相、堂々たる覚王と、如来お釈迦様の形容です。
ものみな失せて内外同じ、周囲になり終わるんです、自分というよこしまの分がないんです。巍巍堂々とも言葉足らず、磊落もなをけい礙ありですか、威儀これ仏法と云われる所以です。でもそれ宗門人みたいに無内容の猿真似じゃみっともないきりです、心理学の対象にしかならんです。閙はさわがしい、穏はその反対ですか、とかく手を付けたがる、そりゃ騒がしいっぱなしじゃ困る、穏やかに眠っちまってもしょうがない、なんとかしようというんです。なんとかぴったり行くってんですが、脚下線絶えて自由、手を付けない正解なんですよ。鼻の頭の泥ってこれ精妙剣のたとえだったですか、どんな手練れもあるだけ余計なんですよ、これ坐の辺に証明して下さい。
楽になった、なんという広大無辺もまたその皮一枚むけてってことあります。ついにはまったくの手付かず、大海三味箇の大海に埋没するがごとく、どっちどう転んだっていいってことがあって、始めて動著する莫れの仏教入門です。はい今ではもう二千年来の円覚経合薬、なに変わらずの珍重。

画像の出典  オーストラリアの野生植物/方丈の旅行記より
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by tozanji | 2005-05-15 00:00 | 従容録 宏智の頌古

第四十四則 興陽妙翅

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 衆に示して云く、獅子象を撃ち、妙翅龍を博つ、飛走すら尚ほ君臣を分つ、衲僧合さに賓主を存すべし。且らく天威を冒犯する底の人の如きは如何が裁断せん。

 挙す、僧興陽剖和尚に問ふ、娑 海を出でて乾坤静かなり、覿面相呈すること如何。
師云く、妙翅鳥王宇宙に当たる、箇の中誰か是れ出頭の人。僧云く、忽ち出頭に遇ふ時又作麼生。陽云く、鶻の鳩を取るに似たり。君覚らずんば御楼前に験して始めて真を知れ。僧云く、恁麼ならば叉手当胸退身三歩せん。陽云く、須弥座下の烏龜子、重ねて額を点じて痕せしむることを待つこと莫れ。

 興陽山の清剖禅師は大陽警玄の嗣、妙翅鳥金翅鳥ともいい、龍を食う鳥、鳳凰ですか、天空の王さまです。娑かつは立に曷しゃから龍王、龍の大王ですか、海中に暴れているやつが飛び出した、さあてまったく納まって覿面に相呈するとき如何、どうだおれはかくの如し、和尚さあ道え、というわけです。そりゃあもうやったあどんなもんだいです。陽和尚、妙翅鳥王まさに宇宙にあたる、はいよってなもんです、でどこに出頭人がいるんだ。忽ち出頭にあうとき如何、おれだおれだっていうんです、アッハッハ笑っちまうんですか、鶻はくまたかです、くまたかが鳩を取るようなもんだ、君覚らずんばは、平原君趙勝という人の御楼前に、美人の首を斬ってかかげる故事です、とやこういってないで斬るもの斬ってそれから道えっていうんですか。もし本当にそうだってんなら、胸に叉手、手を組んで退身三歩せん、ならそうすりゃいいのにまだおれはという、須弥壇、蓮華座の床足に烏亀子を用いる、盲の亀を踏んづけているんです、ばかったれえめが、もう一度額に点す、おまえは未だし、駄目だなんとかせえって云われたいのかってこと。飛走、鳥やけものでさえ君を分つ、ましてや衲僧賓主を存す、彼我雲泥の相違が見えないんです。どうしても得ようとする、ついに得たという、天下取っただからどうだの世界です、これが根底くつがえって始めて仏教ですか。発露白仏、うわあなんつうこったおれはという、通身上げての、百年なんにもならずはの大反省です、するとようやく坐禅になりますよ。以無所得故、菩提薩たです。かつての大力量が点と線ぐらいにしか思えんです、われ無うしてものみな、ものみなが坐禅する、わかりますかこれ。

 頌に云く、糸綸降り、号令分る、寰中は天子、塞外は将軍、雷驚いて蟄を出だすことを待たず、那んぞ知らん風行雲を遏むることを。機底聯綿として自ずから金針玉線あり、印前恢廓として、元鳥てん虫文なし。

 糸綸、綸旨みことのり天子の言葉、寰中幾内天子の直轄です、塞外は関所の外、将軍が天子の勅を受けて布令する諸国をいう。糸綸下りとはどういうことですか、だから抜きの言です、物まねでない自ずからなんです、仏教という別誂えを仮りないんです、世間一般のまた自然とは、雲泥の相違のあることを見て下さい。良寛さんの記を見ると、独創なんてものないといっていい。人まねだれでもできることであったり、万葉から一歩も出ぬ歌であったりします。しかもなをだれにも真似できんです、真似したらひっくりかえるっきりです。さあどういうことです。寰中天子他にはないです。蟄は虫土にひそんでいる龍ですか、一喝驚いて飛び出すという、飛び去ってなくなりゃいい。風行雲をとどむることを知るんですか、不可能ですか。織りなす古錦春象を含むという、仏教開始の合図ですか、自ずから金針は、かくあるべしという捺印はんこ要らないんです、ゆえにもって廓然無聖まさに快廓です。てんはてん字などいう中国の古字虫文も同じどっか複雑怪奇です、そういうことやってないでからり本快事。

画像の出典  オーストラリアの野生植物/方丈の旅行記より
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by tozanji | 2005-05-14 00:00 | 従容録 宏智の頌古

第四十三則 羅山起滅

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 衆に示して云く、還丹の一粒鉄を点じて金と成し、至理の一言凡を転じて聖と成す。若し金鉄二なく凡聖本同じきことを知らば、果然として一点も用不著。

挙す、羅山巌頭に問ふ、起滅不停の時如何。頭咄して云く、是れ誰か起滅す。

 羅山道閑禅師は巌頭全豁の嗣、巌頭は徳山宣鑑の嗣、還丹は神仙秘密の霊薬という、一粒用いて鉄を金に変え、至理の一言凡を聖にかえという、世の中一般の希求です。なぜにそうなるかというと、どっかに不満があるからです、不満なく遊び惚けている三つの子は、たいていそんなこと云わんです。不満のよって来る所を何かと問えば、たいていいろんなこと云います、でもそれ念起念滅する、それを観察するという、これがたった一事によるんです。まずもってこれを知って下さい、知ってもって念起念滅を観察しない工夫です。起滅のまんまにある、ぽっと出ぽっと消えるそのまんまなのに、どうして返り見る、うるさったいだけです。もとないものに煩わされる、これが大問題なんです。いえ人の問題他になし、歴史も宗教も哲学思想も、もとこれの問題なんです。よって還丹の霊薬なにをもってという、処方箋なんかない、まっすぐです。真正面に向き合うとない、だって心が心を観察すること不可能事です。巌頭云く、是れ誰か起滅す。わたくしごとでいえば、かつて摂心に妄想煩瑣に悩まされ、なんとかしようと思った、なんとかしようと思うほどにいよいよです、もう真っ黒になってやってたです、四日めであったか精魂尽き果てて、もうどうにでもなれといったとたん、ふわあっとなんにもなくなった。からんとしちまって脳死みたいです。なんのことはない起滅する念を観察しないだけです。無心心なしとはこれ、自然のありようなんです。念を念が見るというのが不自然なんです。よって悩み苦しむんです、アッハッハそれを妄想というんです。即ち歴史の始まりですか。

 頌に云く、老葛藤を斫断し、狐か窟を打破す。豹は霧を披して文を変じ、竜は雷に乗じて骨を換ふ。咄。起滅紛紛是れ何物ぞ。

 か穴に巣やっぱり穴です、老葛藤を斫断し狐か窟を打破すとは、まさにこれ坐禅そのものです、なにしろいつだって老葛藤、どこまでいっても、いいのわるいのさあどうだです、これをどうにかできれば、きれいさっぱりしたいと踏ん張るわけです。さあどうしたらいいですか、坐るっきゃないです、アッハッハ換骨奪胎ですか、豹は霧によって模様を替え、竜は雷によってという、機縁に触れてがらっと変わる、転ずるんですか、はい坐って下さい、要は自分をもて運んで得ようとしないんです、自分明け渡して行くんです。換骨脱体もがらっと変わろうが観察しないんです。昨日の我はもうないんです、念起念滅をそのまんま。どうしてもそれができないったって、はい坐って下さい。坐るしか解決の方法ないですよ。他人はこれを知らないんです、知っているあなたこそ幸いです、まっしぐらに坐って下さい、坐が坐を知る、風景が風景を坐る、虚空が虚空を息づくんです、この間まったくあなたの取り柄なし、もと起滅紛紛もはいどうぞごかってにというぐらい、まずはあるいは目を向けるとないんです。

画像の出典  オーストラリアの野生植物/方丈の旅行記より
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by tozanji | 2005-05-13 00:00 | 従容録 宏智の頌古

第四十二則 南陽浄瓶

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 衆に示して云く、鉢を洗ひ瓶を添ふ、尽く是れ法門仏事、柴を般ひ水を運ぶ、妙用の神通に非ざることなし。甚麼としてか放光動地を解せざる。

挙す、僧南陽の忠国師に問ふ、如何なるか是れ本身の盧舎那。国師云く、我が与めに浄瓶を過し来たれ。僧浄瓶を将って到る。国師云く、却って旧処に安ぜよ。僧復た問ふ、如何なるか是れ本身の盧舎那。国師云く、古仏過去すること久し。

 南陽慧忠国師、六祖大鑑慧能の嗣、鉢は鉢の子鉄鉢応量器、お釈迦さんの頭蓋をかたどったと云われ、地に落とせば即刻下山と、飯を喫する器。浄瓶は水を容れる、インドのむかしからの持物であった、水の国日本には馴染まない。趙州鉢盂を洗い去れ、瓶に残月を汲んで帰れという、とくに喚起せずとも、ものみな、行ない起居すべてが仏教です、一一にこうあって他なし。外道のわからんのは、なにかしら別にあると思っている、共産党が、アッハッハまだ共産党ってのもアホらしいんですか、無だ、ないなんて云ってないで、もっと大切なものをという。大切なものほかになしを知る、これが大変なんですか、たとい学人もまたこれです。神様仏様形而上学、虎の威を仮る狐。よりよいこと、頼りがいっていうのは仏教にはないです。ただの現実です。実にこれを知る、また大変です。死んだら戒名はいらん、なんにもつけないでくれと共産党が云う、いいようで、そうではないんです、一神教のなれのはて、キムジョンルを生むしかない、浅薄の故にですが。
 思想観念のかんしけつ、哀れ本来事を知らずに死ぬ、この僧五十歩百歩です。
如何なるか是れ、本身の盧舎那、毘盧舎那仏大仏さんですか、盧舎那遍一切処、光明遍照という、即ちその中にありながらこれを問う、忠国師知らしめる為に、浄瓶をもってこいと云った、もって来てまだ気づかない、ではもとの処へ返しておけという、ほかになんにもないことを知らん。無とはこれです、宇宙万物のよって立つところです。
花無心にしてという、思想分別の根拠じゃないです、主義という愚問ではなく、平和だ戦争という空騒ぎじゃないです。僧また問う本身の盧舎那如何、古仏過去すること久し、花も鳥も達磨さんもお釈迦さんも説くこと久しく、おまえの問ふに会って我もまたかくの如し。

頌に云く、鳥の空を行く、魚の水に在る、江湖相ひ忘れ、雲天に志を得たり。疑心一糸、対面千里、恩を知り恩を報ず、人間幾幾ぞ。

 鳥の空を行く魚の水にあり江湖あい忘れと、ものみなまたかくの如し、これ一般の人自然に親しむ、酒はうまいというのと違うんです、魚行いて魚の如し水自ずから澄む、これを得るのに全生涯抛つんです、自分というちらともあれば疑心暗鬼です、対面千里自他の区別になってしまうです。無という即ち架空の我なしを知る、就中どこまで行ってもということあります。ほんとうになくなって坐って下さい、心意識のあるなしに関わらず、まさにもって他なし、筆舌に尽くせぬ正令全提、たとい百歳の中一瞬たりとも償って余りあるんです。恩を知り恩を報ずることは、せっかくこれを知る、正師に会へるは浜の真砂の一握にも及かぬという、大恩これを報ずるに、ま
たいくばくぞ。どうかこれを得て下さい。人類破れ惚けようが絶滅もこれあれば是。

画像の出典  オーストラリアの野生植物/方丈の旅行記より
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by tozanji | 2005-05-12 00:00 | 従容録 宏智の頌古