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第八十三則 道吾看病


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 衆に示して云く、通身を病と做す摩詰癒え難し。是れ草医するに堪えたり。文殊善く用ゆ、争でか向上の人に参取して、箇の安楽の処を得るに如かん。

い山道吾に問ふ、甚麼の処より来たる。吾云く、看病し来たる。山云く、幾人有って病む。吾云く、病者と不病者とあり。山云く、不病者は是れ智頭陀なること莫しや。吾云く、病と不病と総に他の事に干らず、速やかに道へ速やかに道へ。山云く、道ひ得るも没交渉。

 道吾山円智禅師は青原下三世薬山惟儼の嗣、頭陀は僧侶のこと、智頭陀=道吾。い(さんずいに為)山の霊祐禅師は百丈懐海の嗣。いずれのところより、どこから来たというんです。看病して来た。幾人あって病む、いえ病んでるのと病んでないのといる。自分の生み出した思想分別にしてやられる、そりゃ病気です、声色の奴卑と馳走すという、本末転倒事です。苦しいしめったやたらだし、なんとしても看病せにゃならん、楽にしてやりたい。へいそうかいというんです、不病者ってのは智頭陀おまえだというんじゃないんかい。えっへえそうだなんてにはひっかからん。なにを云う、病だろうが病でなかろうが、総に他事にはかかわらず、病に会えば病きり、おれがどうのなと余計なお世話ですか、病と健康と引き比べてってのは無駄こと、病来たれば病よろしく、まあそういったわけです。さあ云えすみやかに云え。うっふたまげたやつだ、わかったわかった云い得るも没交渉、そっちの参考にはなりそうもないよ、かってにやってくれ、のこっとてめえを丸ごと放り出したんですか、担いで行く必要のないのが味噌、たいていここに至っても奪うしかないんです。

頌に云く、妙薬何ぞ曾って口に過ごさん、神医も能く手を捉うること莫し。存するが如くにして渠本無に非ず。至虚にして渠本有に非ず。滅せずして生じ亡びずして寿し。全く威音の前に超え、独り劫空の後に歩す。成平や天蓋ひ地ささぐ、運転や烏飛び兎走る。

 どんな妙薬も役立たず、神医も脈を取れず、どうですこれ糠に釘、言語によらずノウハウではないといいながら、坐る人必ずやるんです。どうあってはならぬ、どうあるべき、おれはだからという。殺し文句の世界ありお経あり色即是空だのです、ついに刀折れ矢尽きるんです、お釈迦さまと同じ菩提樹下に坐す以外になく。存するが如く渠本無にあらず、至虚にして渠本有にあらず、アッハッハ糠に釘これ、でもってそいつの皮一枚剥がれるんですか、なんて云うてみようもない、絶学無為身も蓋もなしにこうある。滅せず生ぜず云々これ、まさにかくの如しの千変万化、なにあろうが生活日常これ忘我です、他なんにもいらんを味わって下さい、たといどんなことあろうと、平成や天おおい地ささうです、これなんぞ。運転日月、金烏が太陽玉兎が月。
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by tozanji | 2005-07-21 00:00 | 従容録 宏智の頌古

第八十二則 雲門声色

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 衆に示して云く、声色を断ぜざれば是れ随処堕、声を以て求め、色を以て見れば如来を見ず。路に就いて家に還る底あること莫しや。

挙す、雲門衆に示して云く、聞声悟道、見色明心、観世音菩薩銭を将ち来たって餬餅を買う、手を放下すれば却って是れ饅頭。

 声色の奴卑と馳走すという、声と色という、見聞覚知のたいていがそりゃまったくの思い込みということを知らない、夢から覚めてまた夢のとやっている。どうしてもいったん悟、解脱ということあって、声と色の奴隷を免れるんです。自分という形骸を脱し去る、就中困難です、随処堕というだれかれみなどうしようもないんです、年をとるにしたがい骸骨です、常識の色餓鬼ですか、そいつがひっからびて棺桶です、みっともないったら死にとうもないってアッハッハ、ついぞ生きた覚えもないのにさ。如来を見ずです、来たる如し、あるがまんまを夢にも知らずあの世行きです、生まれ変わって出ておいでというほかなし、地獄の世の中六道輪廻とはこれを云う。路について家に帰る人ありや。雲門大師は雪峰義存の嗣、聞声悟道、香厳爆竹の因縁ですか、自分という架空を失せきって庭を掃いていたんでしょう、掃子に撥ね飛んだ石が竹に当たった、これによってはあっと一念起こるんです、我というものまったくなくものみながある、爆竹の機縁です。見色明心は、霊雲は桃花の色を見て心を明きらめたとある、花の綻ぶを見て悟ったという我国盤桂禅師、そりゃまったく同じなんです、桃花について忘我です、我というものなしに花を、空の雲を見てごらんなさい。常識の奴隷という、悪臭紛々たるお仕着せを脱いで、生まれてこのかたの宇宙風呂ですか。うわあ清々なんてものじゃないってわけです。ついにはもとこうであったと知る。たまたま観世音菩薩が、銭もって餬餅あんころ餅みたいらしいです、を買いに来た如く、観音如来としてこうある自分に気がつく、しゃばという世の中にしばらくあったということですか。放下すれば饅頭で、これあんこが中ですか、アッハッハ色即是空が空即是色なんて、そんなんにひっかからないんですよ。

頌に云く、門を出でて馬を躍らしめて讒槍を掃ふ。万国の煙塵自ら粛清。十二処亡ず閑影響。三千界に浄光明を放つ。

 門を出て馬を躍らしめてという、坐って坐って坐り抜いてという、求めるところを懸命に、不惜身命に求めるんですか、ではそいつを手放して行くんです。門の内から外へ、こうと取り込むんじゃなくて手放し、虚空というかすっともかすらない、なんにもないものに食われるんです。無茶苦茶です。百年万年無駄遣い、どうしようもこうしようも、とにかく捨てる。いいものほど役に立たない、アッハッハたいていこんなふうに坐って下さい、讒は手へんなんです、ざん槍で彗星ですとさ、即ち世の乱れる兆し、だれが乱す自分が乱す、あっはあそうかっていって止めればいい、無心無身なんにもないのを、なんにもないというんじゃそりゃしょうがないです。自ずから粛清はまったく手応えなしです。あるとき退屈あるとき退屈とはいわんのです、さあしっかり得て下さい。三千世界大光明、うっふ他にないんですよ、仏あって我なし、我あって仏なし、日々新たにという旧態依然という、一木一草まさにかくの如し。いいえすばらしいんです、愚の如く魯の如く、水自ずから澄む。
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by tozanji | 2005-07-20 00:00 | 従容録 宏智の頌古

第八十一則 玄沙到県

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 衆に示して云く、動ずれば即ち影現じ、覚すれば即ち塵生ず。挙起すれば分明、放下すれば隠密。本色の道人の相見、如何んが説話せん。

挙す、玄沙蒲田県に到る、百戯して之を迎ふ。次日小塘長老に問ふ、昨日許多の喧にょう甚麼の処に向かって去るや。小塘袈裟角を提起す。沙云く、遼挑没交渉。

 玄沙宗一大師、雪峰義存の嗣法名は師備、動ずれば即ち影現じ、覚すれば即ち塵生じと、これ参禅の様子です。すべてが自分でやっている、そいつを追いかけていては百年河清を待つです、挙起すれば分明、放下すれば隠密と、なにかあると思っている、そういうかぎり裏表なんです。もとまっさらだからという、でもってこうあるべきという、すると影現じ塵生ずです。いつまでたってもかくの如し、なあんてめえでやってるっきりっていう、ぼかっと一つ開けて下さい。勝手にやっとれでもいいですか、真っ正面向きますか、如来として現じ如来として空ず、自覚の外といったらいいですか。相見如何が説話せんと、あるとき道えばいい、ただそれっきり。玄沙が行くと百戯、いろんな芸事余興をもって出迎えた、次の日、喧にょうは門に市、あのにぎやかなのどうなったと聞く、長老袈裟角をとって示す、是は是なんでしょう、もしや百戯も仏法のうちなんて、そりゃ甘え根性です。沙云く、りょうは寮に頁です、りょう挑疎遠の意、没交渉もっきょうしょうと習わしに読む、関係がないっていうんです、昨日は昨日今日は今日、いいですか絵に描いた餅じゃないんです、一瞬まえの有耶無耶がもうない坐禅、有耶無耶が有耶無耶でないんですよ、だってさだれ観察しない、ただこうあるっきり、たとい千変万化もです。

頌に云く、夜壑に舟を蔵し、澄源に棹を著く。龍魚は未だ知らず水を命となすことを、折筋は妨げず聊か一攪すること。玄沙師、小塘老。函蓋箭鋒、深竿影草。潜縮や老亀蓮に巣くい、遊戯や華鱗藻を弄す。

 壑は谷、夜壑に舟をかくし、まあ百戯終わって静まり返ったんですか、でも百戯の真っ最中も同じく静まり返っています。なに変わることなく楽しいには楽しいいんです。澄んだみなもとに棹を著く、どうであったなど余計こと云わずもがなです、わと盛り上がって翌朝もう坐っています。坐中昨夜のことなんか思い出さないです、思い出したって、龍魚は未だ知らずです、住むべき水これとやるから坐が乱れるんです。まあそうであってはならぬからに、函蓋箭鋒ぴったり行っているか、深竿影草どうだ問題はないかとやる。一日能登の祖院に修行中の弟子を見舞い、翌日金沢に遊びして来ました、能登総持寺は美しい壮大な伽藍で、環境は申し分なしです。思いのほかの歓待を受けて恐縮でしたが、暁天坐中大梵鐘を打つという、いつごろから行なわれ出したか、そりゃこの事を知らぬ人のあてずっぽ有心のものです、我と我が身心とどうでもいったんは対決せにゃ得られんです、たわけた儀式慇懃じゃそりゃ届かんです。わが心の大本山に仏のほの字もないかと、伏せっていたら監院老師と二人訪ねて来て、法の話でした、滞るところあってどうしたらよいかという、施設して開枕にいたる。ふっと涙が出たです、よかったと思ったです。葬式バッタの世の中でもないんだなと思う。金沢は北陸新聞の記者にけっこう行っている人がいて、蕎麦屋から料亭兼六公園と案内して貰ったです、彼を相見し、接客業仲居の二、三人顔の和むのを見る。そうかわしも役には立つんだという。潜縮や老亀蓮に巣食い、遊戯や華鱗藻を弄ぶ、退屈もせんですがまったく心動かぬのです。夢のように楽しいんですか、カラオケには眠ったふりするよりなく、心身症のまだ睡眠薬飲んでいる女の子が、昨夜盛り上がった代り朝はぼけえとして、並んでチェックアウトしたら、たいへんお疲れのご様子でと云われて笑っちまった。アッハッハそんなこってへっこまんですよ。

画像  都会の中の春/東京都恵比寿2005年春
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by tozanji | 2005-07-19 00:00 | 従容録 宏智の頌古

第八十則 龍牙過板


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 衆に示して云く、大音は声希れに、大器は晩成す。盛忙百門市の裏に向かって呆を佯り、化故千年の後を待って慢緩す、且らく道へ是れ如何なる底の人ぞ。

挙す、龍牙翠微に問ふ、如何なるか是れ祖師西来意。微云く、我が与めに禅板を過ごし来たれ。牙禅板を取って翠微に与ふ。微接得して便ち打つ。牙云く、打つことは即ち打つに任す要且つ祖師西来意無し。又臨済に問ふ、如何なるか是れ祖師西来意。済云く、我が与めに蒲団を将ち来たれ。牙蒲団を取って臨済に与ふ。済接得して便ち打つ。牙云く、打つことは即ち打つに任す要且つ祖師意無し。牙後に住院す。僧問ふ、和尚当時翠微と臨済とに祖意を問ふ、二尊宿明かすや也た未だしや。牙云く、明かすことは即ち明かす、要且つ祖師意無し。

 龍牙山の居遁禅師は洞山良价の嗣、翠微無学禅師は丹霞天然の嗣、臨済義玄禅師は黄檗希運の嗣、如何なるか是れ祖師西来意、達磨さんが西インドから来た、さあどういうこったと聞く、仏とは何か仏教如何と問うと同じです。能書き説明はうそです、学者説法百万だらやったも届かぬというより、かえって遠くて遠いんです。まずこのことを知って、坐禅です。参ずるという、仏教について八万四千巻のお経がおっかぶさっていては、単を示すの坐禅にならない、学者布教師なんの為になす、立身出世のためにという、これが利己を捨てて仏の道です、われとわが身心を救えと願って仏なんです。如何なるか祖師西来意、庭前の柏樹子と、仏とこれ一心に取りすがっていたものを、頼りの杖をとっ払うんです。失墜して木端微塵ですか、死んだものは二度と死なぬ、では救う必要がない、アッハッハなんという清々まっ平ら。どう死ぬか死体じゃしょうがない。如何なるか是祖師西来意、禅板(坐禅に用いる椅板)を取ってくれ、取って来ると、そいつ受け取って打つ、打つだけよけいですかアッハッハ。打つはすなわち打つに任す要且つ祖師意無し、そうです再三にわたりやっている、担板漢じゃないかって、たといおうむ返しもです、首くくる縄もなし年の暮れ、どうですか、祖師西来意あったが正解ですか、なかったが正解ですか。学者坊主美食豊満底にはそりゃ無関係ですよ。ついには得るんですか、頓知とはこんなもんかな-んだっていう、そりゃ死ぬ思いもせん話。

頌に云く、蒲団禅板龍牙に対す、何事ぞ機に当たって作家とならざる。未だ成褫して目下に明なることを意はず、流落して天涯に在らんとすることを恐る。虚空那んぞ剣を掛けん、星漢却って機を浮かぶ。不萌の草に香象を蔵することを解し、無底の籃に能く活蛇を著く。今日江湖何の生礙かあらん、通方の津渡に航車あり。

 蒲団禅板龍牙に対す、龍の牙を抜くんですか、そうしたらまるごと仏、アッハッハ打つことはすなわち打つに任す要且つ祖師意無しという、死人底ですか、大活現成ですか、機にあたって作家ですか。成褫という褫ははぐとか奪う、あるいは脱ぐ解くという、成就結果まあ解脱ですか。流落して天涯流れ星の天涯孤独ですか、貴人の流落ですか、ややこしいったら、どっち転んだって人間たった一人、虚空なんぞ剣を掛けんです。祖師西来意をひっかついで右往左往じゃない、星漢天の川です、織女牽牛だって年に一回は逢い引き、取り付く島もない、そうなあこの世から食み出しものだって、すんばらしいったらお宝かくの如く。底の抜けた籠に猛毒蛇ってね、ついに得てもって、打つことは便ち打つに任す要且つ祖師意無しと。どうですか今日まったくだれ一人とて仏教のぶの字もないんでしょう、でたらめ解説ばっかり、アッハッハさあわしんとこへおいで、一喝ぶっ食らわせてあげますよってね。まあそういうこった。
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by tozanji | 2005-07-18 00:00 | 従容録 宏智の頌古

第七十九則 長沙進歩

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 衆に示して云く、金沙灘頭の馬郎婦、別に是れ精神、瑠璃瓶裏にじこうをつく。誰か敢えて転動せん。人を驚かす浪に入らずんば意に称ふ魚に逢ひ難し。寛行大歩の一句作麼生。

挙す、長沙、僧をして会和尚に問はしむ、未だ南泉に見みえざる時如何。会良久す。僧云く、見みえて後如何。会云く、別に有るべからず。僧、廻って沙に挙す。沙云く、百尺竿頭に坐する底の人、然も得入すと雖も未だ真と為さず、百尺竿頭に須らく歩を進むべし、十方世界是れ全身。僧云く、百尺竿頭如何が歩を進めん。沙云く、郎州の山、れい州の水。僧云く、不会。沙云く、四海五湖王化の裏。
 金沙灘頭の馬郎婦、僧問う如何なるか是れ清浄法身、師日く金沙灘頭の馬郎婦。金沙灘というところに美しい女がいた、魚籃観音の化身であったというんですか、よくお経を読む者に仕えんといって、ついにこれを娶る者あり、即ち門に入って女死すという、あとに黄金の鎖があったなど。観音の化導は他の説法の及ばぬところをもって、別の精神といった、じこうとい、じは滋のさんずいの代りに食、こうは食に恙、あわせて栗餅ですってさ、瑠璃の瓶に栗餅をつく、自家薬籠中の物ですか、世間一般はともかく仏教は別です。百尺竿頭に坐っていては、どうにもこうにもならんです。誰か敢えて転動せん、思い切って空中に身をなげうつ以外にないんです。観音菩薩かごから魚を取り出して売る、寛行大歩の一句ですか、仏教という仏という、なにか別にあるもんじゃないんです。さあ魚を売る如何。長沙は湖南長沙の景岑招賢禅師、南泉普願の嗣、南泉は馬祖道一の嗣、会和尚南泉下伝不詳、南泉に見みえざる時如何、会良久す、なんにも云わなかった、南泉に見みえて後如何、別に有るべからず。たしかになんたるかを弁える、もとこのとおりと云いたかったんですか、南泉とまったく同じですか、どうです。これを百尺竿頭に坐すと云った、一歩を進めよ、十法世界これ全身。この僧不会、さああなたはどうなんですか、郎州の山、れいはさんずいに豊れい州の水、山と川になりおわってごらんなさい、百尺竿頭から墜落すると命ないんです、自分失せてまわりばっかり、ですが死んで忘れられたんじゃない、四海五湖王化裏です。だから仏教なんですよ、ただでも世間のいうただじゃないんです。魚売りじゃなんにもならん。

頌に云く、玉人夢破る一声の鶏、転盻すれば生涯色色斉し。有信の風雷出蟄を催し、無言の桃李自ずから蹊を成す。時節に及んで耕犁を力む、誰か怕れん春脛を没する泥。

 会和尚良久する、威なるかな大慈大悲外道賛嘆して云く、というわけには行かなかった、自分を顧みる、観察したらおしまい、特派布教師などやって来て、威儀をただしていかにもらしくやって来る、一目瞭然なんです、自分という二分裂の、そわそわがさごそ、どうにもしょうがない輩です。宗門に仏教のぶの字もないんですか、だったらいさぎよく葬式稼業観光業に徹すればいい、さっぱりします。玉人夢破る一声の鶏、らしくに徹するところあって、参ずるにはさっぱりやっても来んのでしょう、そこでちっとはいけそうな坊主を使いにやった。南泉は師匠です、未だ見えざるとき如何、仏教を知らなかったとき如何、押し黙るのを見て、仕掛け坊主ひとりでに動き出す、見えて後如何、何かあったかと聞くに、会和尚、別に有るべからずと示す。まさに他なしなんですが、死んでいる、百尺竿頭清水の舞台です、一声の鶏ですか、どかんと墜落木端微塵です、生涯色色斉しという、色無いんですよ、色即是空空即是色とはいいながら、ほんとうのこれを夢にだも見ないんです。有信の風雷、アッハッハ長沙の意ですか十方全身を促すんです、ついに自ずからを知る、たとい泥んこまみれになってです、手前ご本尊乙にすましこんでなんていうの、仏教に関するかぎりはないんですよ。

画像  荒川(東京と埼玉の県境) 2005年春
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by tozanji | 2005-07-17 00:00 | 従容録 宏智の頌古

第七十八則 雲門餬餅


衆に示して云く、べん天に価を索むれば搏地に相報ふ、百計経求一場の麼羅、還って進退を知り、休咎を識る底ありや。

挙す、僧雲門に問ふ、如何なるか是れ超仏越祖の談。門云く、餬餅。

 雲門文偃禅師、青原下六世雪峰義存の嗣、雲門餬餅という、多少かじるとじきに耳に入って来る、洞山麻三斤など、いわく噛み難く、嚼しがたしと。取り付く島もないんですか、すなわち完全、満天に価を求むれば満地にあいささうんですか。べんは糸に免で満と同じく、搏地即ち満地だそうです。百計千謀といい経歴馳求という、そうですよ、たいてい雲門餬餅、ごまの入った餅ですとさ、これに出食わすと百計千謀し経歴馳走するんです、いったいなんだといって答えを出したい。答えを出すとはどういうことか、餬餅こびょうと答えがあるのに、それをまた答えるとは、なにか持ち物総動員してかくあるべきやるんです、どっかの物差しに触れるという、納得という変なことをする。どうですか、餬餅とわかんなかったら、わかろうとする自分を捨てる、すなわち、自分という根拠、囲い込みを明け渡して下さい。餬餅と、まずは見るもの聞くものになり終わって下さい、オウと云えばまさにぜんたいオウと応えるんです。悟りといい超凡越聖という、そうしたいらん手続きが不要です。この世に納得すべきなんの必要もないんです。進退を知るとは自ずからです、ぴったり実にきしっとしているんです。これを野狐禅天下取ったふうにやると、乱暴で雑っぱです、こっちの岸です、一神教の独り善がりになります。休咎という、悟ったにしろ悟り終わって悟りなしにしろ、ちらともかくあるべしといえば、よって滞るんです。餬餅はたして薬弊、さあどうです、いえわしについていえば毎日坐して、かろうじて自救不了を知るんですか。はいお粗末。

頌に云く、餬餅を超仏祖の談と云ふ、句中に味はひ無し如何が参ぜん。衲僧一日如し飽くことを知らば、方に見ん雲門の面慙じざることを。

 そりゃそうです、餬餅ごまの入った餅を超仏越祖の談義とする、いったいどういうことか。味わいなし如何が参ぜん。取り付く島もないただの人。世間一般ただの人とどう違うんですか。ことは同じ雲泥の相違ありとは、微塵もつくなし、ゆるがせにならんことは、何比較するといったって、蝶や花や鳥や雲と同じです。一点ゆるんだら滅びる、いえまったく様にならんのです、まあそんなふうにアッハッハ取り付いてみますか。たしかに超仏越祖といって、何別にあるものではない、うさんくさい一物もとっつかないです。坐っていてどうですか、自分というごつごととして箇の坐状がありますか、たといあったとてそれ自分のものですか、多々あろうがなんにもなかろうが、念起念滅、自分の持ち物ないんです、すると坐として成立するんです、これを万松老人は一日もし飽くことを知らばと云ったんです、まったく終わった人の、日々是好日、仏向上の事です、たしかに邵陽老人はでたらめ云わんというんですよ。

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by tozanji | 2005-07-16 00:00 | 従容録 宏智の頌古

第七十七則 仰山随分

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 衆に示して云く、人の空に描くが如き、筆を下せば即ちあやまる。那んぞ模を起こして様を作すに堪へん、甚麼を為すに堪へんやO万松已に是れ詮索を露はす、条あれば条を攀じ、条無ければ例を攀ず。

挙す、僧仰山に問ふ、和尚還って字を識るや否や。山云く、分に随ふ。僧乃ち右旋一匝して云く、是れ甚麼の字ぞ。山、地上に於て箇の十字を書す。僧左旋一匝して云く、是れ甚麼の字ぞ。山十の字を改めて卍の字となす。僧一円相を描いて両手を以て托げて修羅の日月を掌にする勢いの如くにして云く、是れ甚麼の字ぞ。山乃ち円相を描いて卍字を囲却す。僧乃ち楼至の勢いをなす。山云く、如是如是、汝善く護持せよ。

 仰山キョウサン慧寂禅師はイ山霊祐の嗣、僧あり問う、和尚字を知っているかというんです、馬鹿にするな字ぐらい知ってらあといって、ふっと考えると知らない、むしろ知らん字のほうが多いじゃないか、山云く、分に随うですか、アッハッハ禅問答そんなレベルじゃないという、じゃどんなレベルですか、僧すなわち右にぐるっと回って、これなんの字ぞという、うっふっふ字を描くってどういうことですか、このへんで思い当たって下さい。哲は口を折るなどむだこといってないんです、山地面に十の字を描く。これおもしろいでしょう、虚空というなんにもなしを、画策する発明するっていうんですか、まどろっこしいですねえ言葉は、僧左へぐるっと回って、これなんの字ぞ、こうありゃこうって、強いて云えばそういうこってす。山十の字を卍にする、説法も煮詰まったんですか、いようって大向こうから声がかかりますか、僧一円相を描いて修羅八荒の大見栄です、これなんの字ぞ。卍を囲んでOを描いて、山如是如是、この事をよく保護せよという、いいですなあすらっとどこも凹凸なし、さあよく保護して下さい、人生まさに始まったんですよ、人もなく生死もなくっていうあっけらかんが。条令あれば条令による、なければ判例におるの、しゃば世界浪花節じゃないんです。

頌に云く、道環の虚盈ること靡し、空印の字未だ形れず。妙に天輪地軸を運らし、密に武緯文経を羅らぬ。放開捏聚、独立周行。玄枢を発して青天に電を激す。眼に紫光を含んで白日に星を見る。

 道環という過去七仏からお釈迦さままた我に至る八十六代ぐるっと回って過去七仏へと、これもし同時的同じ空間内に見るとき、まさに仰山と門下のやりとりに似て、虚みつることなしと、あっけらかん世間云うには絶対空間ですか、廓然無聖不識という、空印の字未だあらわれずです、妙に天輪文武経緯はまあ大げさって、いえ箇の微妙玄用はふうっと消えてしまうんですよ、なにかある世界あるというそれがない、大活現成のアッハッハ原点ですか、坐ってはそうなりそうならずして、なにさあ如来とて、あるいはわしのようないびつ、なんの取りえなしにもこうある、この世のこと終わったら、また別の世に現ずるんです、弟子どもと掃除しおわって、自然林とあまり変わりもないお寺が清々する、如来ここにおわせりという記述です、わしというこう手を出すことは出したですか、それも一瞬には違いぬが、訪れた人には一瞬の無上上です。
放開捏聚独立周行、そうですよここに全世界三世現ずるんです、生きています呼吸しているんです、だからすばらしいんです、青天に電を激し白日に星を見るんです、さあ参じて下さい、仏教ですよ、一箇半箇あとを継いで下さい、これあるによって人類があるんですよ。

画像の出典  アスター、マリーゴールド、ノースボールの寄せ植え/静岡県
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by tozanji | 2005-07-15 00:00 | 従容録 宏智の頌古

第七十六則 首山三句

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 衆に示して云く、一句に三句を明かし、三句に一句を明かす。三一相ひ渉らず、分明なり向上の路。且らく道へ那んの一句か先に在る。

挙す、首山衆に示して云く、第一句に薦得すれば仏祖の与めに師となる。第二句に薦得すれば人天の与めに師となる。第三句に薦得すれば自救不了。僧云く、和尚は是れ第幾句に薦得するや。山云く、月落ちて三更、市を穿って過ぐ。

 首山の宝応省念禅師は風穴延昭の嗣、この則なんか都合にそう云っちゃ悪いんですが、わが意を得たりという気がします。後学の有耶無耶が、いえさよくぞ云ってくれたというんです。第一句という、これを得んがためにまっしぐらです、師普ねく叢席を歴り常に蜜に法華経を誦す、人呼んで念法華となす、晩に風穴の会中に於て知客にあたる、一日侍立のついで、風穴垂涕して告げて日く、不幸にして臨済の道吾にいたって地に墜ちんとす、師云く、一衆に人なきや乃至念法華を放下してついに得るんです。かくのごとくに古人大苦労の末に、超凡越聖ついに仏祖を超えるんですか、たしかにそういうことあるんですよ。たといお釈迦さまだろうが為に説く、これあって初めて仏、仏教です。そうしてこの中に住して普く知るんです。平らかの日々是れ好日という、そんなものあるわけがないです、坊主や学者の類実際には何も知らんで、かくあるべしをもってす、とんちんかんの罪科はなはだしいです。そうではない七転八倒あり、あるいは激烈な葛藤です。第二句という、ついにようやく人天の導師です、まさにこの人をおいてないんです、よくよく知るんです。依存症ゼロの人ってこれ、たいへんですよ、そうしてもって第三句自救不了オッホッホこれ実感ですよ、まさにまったく。かつては本来人掃いて捨てるほどいたんですか、いえいえ同世代三人もいりゃそれ、光明この上なしです。和尚は第幾句かと問われて、月落ちて三更という、よくよく味わって下さい、市、市井売り買いの場ですか、市を穿って過ぐ、本来性これの実感たることよくよく知って下さい。

頌に云く、仏祖の髑髏一串に穿つ、宮漏沈沈として密に箭を伝ふ。人天の機要千鈞を発す、雲陣輝輝として急に電を飛ばす。箇の中の人転変を看よ、賤に遇うては即ち貴、貴には即ち賤。珠を罔象に得て至道綿々たり、刃を亡牛に遊ばしめて赤心片片たり。

 自分というものが失せて行く段階です、坐禅とはこれを楽しむんです、仏祖の髑髏一串です、もとないはずのものが、自分というよこしまに依って、これを私するんです、返却し返却しもって行く、ついになんもなしと思えたところから始まるんです、仏向上の事悟後の修行といいますが、天下取ったという、みな人の得がてにすとふうずめ子得たりという、まずそいつを手放して下さい、宮漏とはむかしの砂時計ですか、沈沈として密に箭を伝え、そうですよ坐るっきりないんです、時が解決すると一般は云うんですが、昨日の自分は今日ではないがあるっきり。千鈞の弩弓ですか、不思議でしょう、ただ自分がないっきりなんです、そいつが千軍万軍に当たる、そうですねえ無手勝流です。雲陣以下坐中にあって肯うところです。この中の人転変を見よ、電は発したらおしまい、なんの跡形も残らん、賤には賤、賤には貴と法界そのものになり終わるんです、無無明亦無無明尽ですか。刃を亡牛に遊ばしめてという、十牛の図ですか、牛いなくなってまるっきりただの人は、打てば響くなんてもんじゃないんです、触れるものみな真っ二つ、赤心洗うが如く、三句に薦得すれば自救不了です、首くくる縄もんあし年の暮れは、春風いたって百花開くんです。

画像の出典  ノウゼンカズラ/静岡市 2005年 7月
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by tozanji | 2005-07-14 00:00 | 従容録 宏智の頌古

第七十五則 瑞巌常理

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 衆に示して云く、喚んで如如となす、早く是れ変ぜり。智不到の処、切に忌む道著することを。這裏還って参究の分ありや也た無しや。

挙す、瑞巌、巌頭に問ふ、如何なるか是れ本常の理。頭云く、動ぜり。巌云く、動の時如何。頭云く、本常の理を見ず。巌佇思す。頭云く、肯ふ時は即ち未だ根塵を脱せず、肯はざる時は永く生死に沈む。

 巌頭全豁禅師は徳山宣鑑の嗣、瑞巌師彦はその嗣、如何なるか是れ本常の理と、どうしても仏を願い仏道を求めるからに、たしかなものすばらしいもの、金剛不壊ダイヤモンドの高価頼り甲斐を思うんです、実はそういっている自分自身が、まさにそのものこれ、永遠不滅と云えば即ちまっただなかです。まっただなかにあって却って見ることができないんです。千変万化するまっただなかです、本常という他に見る、あるいは物差しをあてがえば、滞るよけいことです。禅問答のちんぷんかんぷんではない、平らかにこれを知って下さい。喚んで如如となす、坐っていてこうだというんでしょう、実に得たりとやったとて、ついに一物も得ずとしたっても、次にはもう別ことに追われている、なにやかや捉まっているかぎり、ひょうたんなまずです、ころんころんと糠に釘。
智不到の処、切に忌む道著することをという、だからと顧みるにそりゃ同じこったです。アッハッハさあどうすればいい、かえって参究の分ありや無しや、それだから頭云く、動。動の時如何、なんとしても答えを出したいんです、自分=答え、三世の諸仏知らずに安住しないんです、だからといって、まさにこれ肯う時は未だ根塵を脱せず、肯はざる時は永く生死に浮沈すと、かく真っ正面に云っても、言下に大悟すとはなかなかもって行かんです。さあどうです
か、こやつぶち抜いて下さいよ、手もつけられんと知って、即ちこれほど楽なこたないんです、坐=安楽の法門。

頌に云く、円珠穴あらず、大璞は琢せず、道人の貴とぶ所稜角無し。肯路を拈却すれば根塵空ず、脱體無依活卓卓。

 年上の弟子があって円珠と名付けその奥さんを明珠と名付けた、弁護士大学教授であったが、六十でスキ-を覚えて世界中のゲレンデを渡り歩いたり、限定解除をとって1500ccに乗って来たり、活発発が惜しいことに、ガンになって死んでしまった。穴あらずの円珠さんに、今はの際に行きあったんだと思っている。大璞白玉だそうです、この事をなす人なにものにもならん、なれんといったらいいのか、世の中の出世街道たといあくせくが身に就かんのです、アッハッハなにをやっても元の木阿弥。わしはまあ役立たずだが、たしかにそういう人がいるもんです。そうですよ、坐禅をやっても元の木阿弥、坐禅三段とか免許皆伝なんてにいかない、なんにも得ないんです。そうしてどうしようもないこやつを、惜しゅうもない、虚空という虎に食わせて一巻の終わりですか。うっふっふじくじくとさっぱり終わらなかったり。昨日の自分はもうないってことだけある、いやさ自分というから食み出して久しいんですか、まあやっとくれ死ぬかこれしかないという、そうさなあ年よりじっさ。でもっていろっけあったりなかったり、どうすればいいこうすればいいの道ではないんです。肯路を拈却するという、すべてをなげうって答えを待つんです、ついになんの答えもなし、さあどうするというんです、答えはないんです、ものみなと強いていう脱退無依活卓卓。

画像の出典  ミニ ひまわり/ 静岡市2005年7月
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by tozanji | 2005-07-13 00:00 | 従容録 宏智の頌古

第七十四則 法眼質名

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 衆に示して云く、富満徳を有って蕩として繊塵無し。一切の相を離れて一切の相に即す。百尺竿頭に歩を進めて、十方世界に身を全うす。且らく道へ甚麼の処より得来るや。

挙す、僧法眼に問ふ、承まはる教に言へること有り、無住の本より一切の法を立っすと、如何なるか是れ無住の本。眼云く、形は未質より興り、名は未名より起こる。

 法眼宗の祖清涼文益禅師、これはまことに平らかに説く、他の禅師大善知識というお騒がせとはだいぶ違う、さすがに法眼、そうですよ、応無所住而生其心、まさにこうあるこれを、なにか特別のことだと思ううちはこうはいかない。承まわる教えというのは維摩経なんだそうが、そんなんどのお経だって同じに一切です。尽くしているというんですか、一言半句で足りるんです。足りないのは自分が足りない、もと長者窮子が、富満徳をたもって蕩として繊塵なしです、ゼニカネ女などの手段を必要としないんです。放蕩息子のどけちじゃない、一切の相を離れて一切相に即す、もとどっぷり浸けです。他にないんです、それを他に求めようとするから、法あり空あり一切ありするんです、手放しても手放さなくとも同じたって、手放さなきゃそりゃわからんです、わからんけりゃおもしろくもなんともない、高い木の上に上って、手を離し足を離し、口でもって噛みついているやつに、下に人あって仏を求めている、さあどうするという公案、答えはたった一つ、口を開いて説教しろというんです。捨身施虎は仏教の根幹、他のヒンズー教やら修行者らとまったく違うんです、人格高潔や神仏のらしい様子じゃない、端にこれ、十方世界に身を全とうするんです。ものみなこうあるという、この事実に住する、死んじまったらもうない理屈、すると平らに出るんです、形は未質よりおこり、名は未名っより起こる、どうですか並み大抵でしょう、かくの如くあるしかない、アッハッハあなただって云い得て妙ですよ。

頌に云く、没蹤跡、断消息。白雲根無し、清風何の色ぞ。乾蓋を散じて心あるに非ず。坤与を持して力有り。千古の淵源を洞らかにし、万象の模則を造る。
刹塵の道会するや処処普賢。楼閣開くるや頭頭弥勒。

 没蹤跡断消息、みずとりの行くも帰るも跡絶えてされども法は忘れざりけりと、まずもってこれを得て下さい、坐っても坐ってもどこか繋駒伏鼠、どうしても糸のふっきれぬ凧をやっている、就中この期間が長いんですか、七転八倒し地獄とはこれ仏のありようを知って仏ならざる時と、なんで外きりないのに内動くかと、先師仏祖の蹤跡なにも特別はないんです。必ずこれあってこれを得る他はない、ついに得て落着は、乾蓋散ずるんです。心という用いてどうこうしない、たとい一切妄想も出るに任せ消えるに任せです、だからどうのまったくしない、すると我という失せて、坤与ここにこうして大盤若なんです、千古の淵源という、他の発祥源はないんです。乾坤宇宙歴史も哲学もなにがどうあろうと、自ずからあるよりないんです、あっはっは万象の模則を造ると、まあ荷厄介なこといわない、ただです、物まねするんならこれ以上はないってやつ、さあ刹塵の道ぶっこわれ破家散宅の道です。会するや否や、処処普賢行ない清ますこと第一等、大行普賢菩薩、あまねくということですよ、楼閣そりゃまあ世界全体ですか、開くこと頭頭弥勒、智恵一等文殊菩薩としたいところをさ、とにかく弥勒も文殊もあなたの内にしかないんです、あなた=内なしってね。

画像の出典  金魚草の花壇/静岡県の県道
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by tozanji | 2005-07-12 00:00 | 従容録 宏智の頌古