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第七十三則 曹山孝満

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 衆に示して云く、草に依り木に付き去って精霊となり、屈を負び冤を銜んで来たって鬼祟となる。之を呼ぶ時は、銭を焼き馬を奉む。之を遣る時は水を呪し符を書す。如何が家門平安なることを得去らん。

挙す、僧曹山に問ふ。霊衣掛けざる時如何。山云く、曹山今日孝満。僧云く、孝満の後如何。山云く、曹山顛酒を愛す。

 依草付木の精霊というまあたいていみなさんのことです、酒を飲んで風月に親しみ、自然はいいだの地球を愛するだのいうこれです、清らかに見えて汚れです、無心にみえてまったくの独善です。したがい屈をおび、欝屈するんですか、冤罪です。おれはいいんだけど世の中が悪いとかやる、アッハッハそうねえその他の人あんまりいない。人間仏と生まれてお化けですか、幽霊みたいな鬼になって祟る、でもって紙銭を焼き絵馬を供えして、あるいはお呪いして護符をもって水に流ししている、テレビとか公共のなにがしみなこれ、実はただもうつまらんだけだったり。家門の平安ということを本質知らないのです。
 曹山本寂禅師は洞山良价の嗣、洞山の宗師に至って最も隆なり、故に曹洞の称ありと、曹洞わが宗の祖です。僧問う、霊衣喪服ですか、着ていないどういうわけだ、掛けざる時如何、僧服着るのと同じですか、なにかしら霊力とかいう、世間一般そんなふうに考えていたんでしょう、今日真っ黒い作務衣きて頭つるっつるに剃って歩いている兄ちゃん、アッハッハこれやっぱりまだそういう尾ひれ引いているんですか。タブ-なしのなんでもありになると、やたらアホ臭くなったり、どこまでいってもどうもならんのは、依草付木の精霊を免れんからですか。山云く、曹山今日孝満、三年の喪も明けたで孝養存分だといった、うっふどうだってなもんです。馬鹿坊主まだ聞いている、孝満の後如何、山云く、顛酒、酒に酔いつぶれているってわけです。せっかく世の中生きているんですよ、自縄自縛の縄ふっきって思う存分やって下さい、たった一日でいい、他の百生をも救うんですよこれ。なぜかっていうんです、市長の演説成人式にやってないでさ。

頌に云く、清白の門庭四に隣を絶す、長年関し掃って塵を容れず。光明転ずる処傾いて月を残す。爻象分るる時却って寅に建す。新たに孝を満ず、便ち春に逢ふ、酔歩狂歌堕巾に任す。散髪夷猶誰か管係せん、太平無事酒顛の人。

 清白の門庭とまた故事来歴があるんですが、要するに先祖が清廉潔白な人物で代々これを継ぐとある、仏という四隣を絶する潔白ですか、そりゃまあそういうこって濁りにしまぬ露の玉、心は汚れずこぼたれずという、なぜかというに無心です、ないものは損なわれない、ゆえに金剛不壊たるを知って仏教です、人の救いなんです。ゆえに長年とざし来たって塵を容れずは不都合、そんな荷厄介なこたいらんです、百害あって一利なしですか、即ちもと汚れない一微塵もつかず、不染那です。無生を知る、頓に自覚する無自覚、光明転ずるところ傾いて月を残す、ほうら気がついたらたった一箇の月、交象分時とは陰と陽が変じて春来たる、寅は東の方、春は北斗七星の柄が東をさす、枯木巌前花草常春、死んで死んで死にきって思いのままにするんです、とらわれのお人形さんじゃない、操りの縄んふっ切れるんです、すなわち春に逢う、酔歩狂歌頭巾が落ちたらそのまんま、ざんばら髪夷猶千鳥足もそいつを観察する人がいないんです、衒いや物まねじゃない、太平無事の酒顛です、別に酒飲まんたっていい、一生に一度こうあって、アッハッハこの世をおさらばして下さい。

画像の出典 
ゼラニューム
・風露草(ふうろそう)科。
・学名 Pelargonium zonale
Pelargonium : テンジクアオイ属
zonale : 環状の紋のある
Pelargonium(ペラルゴニューム)は、ギリシャ語の「pelargos(コウノトリ)」が語源。実の形がこのくちばしに似ていることから。

香水を作るときのベースの材料になります。

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by tozanji | 2005-07-11 00:00 | 従容録 宏智の頌古

第七十二則 中邑み猴


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 衆に示して云く、江を隔てて智を闘はしめ、甲を遯ぞけ兵を埋ずむ。覿面すれば真鎗実剣を相持す、衲僧の全機大用を貴とぶ所以なり。慢より緊に入る。
試みに吐露す看よ。

挙す、仰山中邑に問ふ、如何なるか是れ仏性の義。邑云く、我汝が与めに箇の譬喩を説かん、室に六窓あり中に一み猴を安く、外に人ありて喚んで猩猩といえばみ猴即ち応ず。是の如く六窓ともに喚べばともに応ずるが如し。仰云く、只だみ猴眠る時の如きは又作麼生。邑、即ち禅牀を下って把住して云く。猩猩我汝と相見せり。

 智を闘はす、項羽劉邦に云うて日く、徒に天下を騒がして数歳に及ぶ、願はくは雌雄を決せんに民を苦しめることなければよしと、劉邦笑って云く、我むしろ智を闘はしめて力を闘はしむること能ず。というまあ故事来歴、甲胄を退け兵を埋めは、秦卒何万人を穴埋めにしたのを思い出すが、漢の歴史に項羽は頭の悪い粗暴な男にされてしまった、由来中国は歴史を歪める民族らしい、共産党というのが粗悪品で、ものみな労働時間で見るというあんちょく、人間のデカタンスのまあどんじり、あとは暴発、収拾のつかない社会ですか、でもそんなことはさておき、一個人常に一個人の債務を背負い、これをどうにかしようとするただこれ。覿面すれば真鎗実剣です。痛いかゆい切れば血が出ること同じ、ゆえにもって衲僧の全機大用をとうとぶ所以です、傷つけ分析など、人の救いにはならんです、ものみなデカタンスぶっこわれとは無縁です、たとい自然破壊も、なに草っぱ一枚ありゃ完全無欠。中邑洪恩禅師は馬祖道一の嗣、仰山はい山の霊祐の嗣、み猴のみはけものへんに爾で、大猿のこと。六窓そうは別の字書くんですが窓と同じ、六根眼鼻耳舌身意、色声香味触法の六根門をいう、いえ別に六つの窓でいいです、これ云えば大猿は全機大用の心ですか、でもまあそんなん面倒です、いざとなったらどんと出て把住、ひっとらえてこれこれってやって下さい。たしかに仏はほどけ、自縄自縛の縄を解くにしろ、見えぬものこれ仏にしろ、三世の諸仏知らずにしろ、大用全機を損なう、あるいはかすっともかすらない、六根清浄といって修行して滝に打たれするんですか、そりゃどうもあんまりつまらんですよ。あるのはどんなに磨いても、なきに如かずってね。

頌に云く、雪屋に凍眠して歳摧頽。窈窕たる羅門夜開かず。寒槁せる園林変態を看る、春風吹き起こす律筒の灰。

 どうもあんまりこの頌のように見えんのだが、すんばらしい言語のわざですか、詩は情景に従って読むによし、雪屋に凍眠して歳摧頽くだけつかれる、せっかく大猿も斉天大聖ってわけに行かんのは、凡人とかまえて凡人付き合いだからですか、窈窕たるあれは桃だったですか、その家室によろしからんと、詩経国風にあるのしか知らんですが、幽深閑静なる様だそうです、羅門とばりですか夜開かず、眠っているんですな、仰山若し眠っていたらどうなるんだと聞く、アッハッハさすが仰山、中邑の六根清浄どうもあんまりぱっとせんです、一矢報いたとたんに禅牀を下ってどかんひっとらえる、いやさすがってわけで、寒槁せる、冬枯れの木です園林変態がらっと変わるんですか、目覚めにゃそりゃいかんです、役には立たん、春風吹き起こすところは、律筒は竹ですってさ、松には古今の風、竹には長幼の節、まあそういったわけで竹の灰をばらまくんです、どうもお粗末ってんですか、ざんばら髪おんぼろ衣の拾得が、にかあと笑って大地指さす。

画像の出典  れんげ、ノースポール、マリーゴールドの寄せ植え/静岡県
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by tozanji | 2005-07-10 00:00 | 従容録 宏智の頌古

第七十一則 翠巌眉毛

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 衆に示して云く、血を含んで人に噴く自らその口を汚す。杯を貪って一世人の債を償う。紙を売ること三年鬼銭を欠く。万松諸人の為に請益す、還って担干計の処ありや也た無しや。

挙す、翠巌夏末衆に示して云く、一夏以来兄弟の為に説話す。看よ翠巌が眉毛ありや。保福云く、賊と作る人心虚なり。長慶云く、生ぜり。雲門云く、関。

 祟覚禅師野狐禅を頌す、血を含んで人に吹く、先ずその口を汚すと、杯を貪っては特別の故事はなく、世の中貪嗔痴の故にですか、さかずきを貪って一生人の債を償うこと、鬼銭は紙銭といって棺桶に入れるやつ。翠巌、瑞巌師彦禅師は巌頭の嗣、一生常に坐して毎に自ら喚んで云く、主人公、また自ら応諾す、ないし云く、、惺惺著、他時人の瞞を受けることなかれと。夏はげと読み、制中といって修行期間、夏安居、冬安居とある、一夏おわって兄弟ひんでいと読む、為に説法して来た、みろわしの眉毛があるか、という。嘘をつくと眉毛が落ちるという。さあどうですか、しゃく金昔をもってしゃくにつく、あやまちをもってあやまちにつく、将しゃくが仏祖お釈迦さま、就しゃくが弟子ですか、アッハッハちいとも感心せんですかまったく。保福云く、賊となる人心虚なり、賊とはまさにしゃくをもってですか、人の妄想になりおわって、強盗です、ごっそり抜き取る、そりゃ有心じゃ不可能です。眉毛があるか、達磨にひげがあるかってやつ、あれば見ている自分がある。不可という根も葉もないんです、両重の公案ですか、長慶云く、生ぜり、生えているっていうんです、気にしているやつがいるらしいぞ、わっはっはてなもんです。雲門云く、
関。はいこの関透過して下さい、他に瞞ぜられずですか、ちらとも思ったら、おでこ床にぶっつけてお拝しては、主人公、はい、しっかりせえ、だれにもたぶらかされるなとやって下さい、これを関というんです、たとい命がけですよ。鬼銭など貯めこんでるんじゃないです。

頌に云く、賊と作る心、人に過ぎたる胆。歴歴縦横機感に対す。保福雲門垂鼻唇を欺く。翠巌長慶脩眉眼に映ず。杜禅和何の限りかあらん、剛ひて道ふ意句一斉に剞ると。自己を埋没して気を飲み声を呑む、先宗を帯累して牆に面ひ板を担ふ。

 保福従展禅師は雪峰の嗣、長慶慧稜、雲門文偃禅師ともにまた雪峰義存の嗣、垂鼻唇を欺くというのは、鼻が長く垂れて唇を隠す、脩眉眼映は、眉毛が長く伸びて眼に映る、ともに大人の相ですとさ。賊となる心、人に過ぎたる胆は、すなわち杜撰禅和の預かり知らぬところ、でたらめやってるんじゃないです、強いて云う意句、人のとやこう仏教周辺を一刀両断ですか。口辺に鼻がおっかぶさるによって、いやさ自己を埋没して気を飲み声を呑む、眉毛が長くなって眼に映るほどにと、詩人の言語徒労に終わる、アッハッハそうではなくって云いえて妙ですか。先宗を帯累して、巻き添えにして牆に角ひっかけ、担板漢やるんですか、あなたもわたしもだれでもやっている、まあこいつを免れぬとって、況んや雲門翠巌四大をおいておやと、そんなふうに読めますが、アッハッハ関。

画像の出典  真紅の薔薇 / 静岡・2005
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by tozanji | 2005-07-09 00:00 | 従容録 宏智の頌古

第七十則 進山問性

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 衆に示して云く、香象の河を渡るを聞く底も已に流れに随って去る。生は不生の性なるを知る底も生の為に留めらる。更に定前定後、笋となり蔑となることを論ぜば、剣去って久しゅうして爾方に舟を刻むなり。機輪を踏転して作麼生か別に一路を行ぜん。試みに請ふ挙す看よ。

挙す、進山主、脩山主に問うて云く、明らかに生は不生の性なることを知らば、甚麼としてか生の為に留めらるるや。脩云く、筍畢竟竹となり去る、如今蔑と作して使ふこと還って得てんや。進云く、汝向後自ら悟り去ること在らん。脩云く、某甲只此の如し上座の意志如何。進云く、這箇は是れ監院房、那箇は是れ典座房。脩便ち礼拝す。

 進山主、清溪洪進禅師、脩山主、龍済紹脩禅師、ともに青原下八世地蔵桂しんの嗣、つまり進山主は監院、住職に代ってお寺の行事など一切を司る役、脩山主は典座、会計から食事など一切を司る、ともに重職である、今も僧堂で同じに続いています、ともに法を得ることなければそりゃ無理です。雑っぱ一からげの無理無体じゃしょうがない。生は不生の性なることを知って、不生不滅、不垢不浄、不増不減と心経にある、このとおりものみなのありようです、だからどうのの理屈ではなく、不生の生なんです、しかも生きるという、生死というこの中にあってとやこうするんです、生の為に留めらる、大問題です。
本当には悟っていないんではないか、法とは別個やっているんではないかという、あるときは是あるときは不是やるんです。すると是非やっている自分ごと持って行かれるんですか、気がつくとなんの問題にもならんです、そっくり自分というものなしにある。死ぬあるいは生老病死、あるいは四苦八苦そのままに行くんです。たけのこはひっきょう竹になる、こっちのとやこう斟酌の他なんです、とやこう斟酌のアッハッハそのまんまにですか。蔑は竹かんむりで、竹の皮で作った縄ですとさ、襪という靴のような指なし足袋のこったと思ったら違った、どっちでもまあ終に皮を残すってやつ、わが大法には用いることが出来るかというんですか、まだたけのこだっていうんですか、筍も笋も同じです、なあにそのうち自ら悟り去ることあらんと。それがしただかくの如し、就中正解なんです。使うべき皮など考えないんです、いや人は知らず後輩のわしなんてまったくただこれ、日毎にただこれってしかないです。上座の意志如何と聞きうる人幸い、一人つんぼ桟敷やってるわけじゃさらさらないんです。こっちは監院寮そっちは典座寮、はいといって礼拝し去る、よきかな。

頌に云く、豁落として依を忘じ、高閑にして覊されず。家邦平帖到る人稀なり。些些の力量階級を分つ。蕩蕩たる身心是非を絶す、介り大方に立って軌轍なし。

 豁落がらりからりというんですが、なんにもないさまなんですよ、依存を忘れることは、就中困難なんです、ついにかくの如くあれば如来、わがことまったく終わるんです、さあどうにかして得て下さい、高閑にして覊されずといって、依存症やっていませんか、仏あり外道ありする四分五烈ですか、ただこれ家国あるによる、守るべき自分、従うべきなにかしらあって、上には上があり
している、それじゃ囚われ人です。おれは悟れない人間だからといって、安穏に座し、、おれは俗人だからといって、他を汚す。なぜかというに、そのまあうんこ小便のむじな穴から一歩も出たくない、いじましいったらしかも、人をあげつらって生きています。共産主義みたいに無知という無恥をもっての故にものごとありですか。傍迷惑というだけが、誰彼極端に疲弊するかに見えて、一人二人箇の真面目ということあって、宇宙三界形をなすんです。蕩々任運にまかせるんですか、ものみな200%ということです、映画を見てとやこう批評より、映画になっちまって無感想です、介、ひとり大方に立って軌轍なし、完全なんですよ、いいからたったいっぺんやってごらんなさい。

画像の出典  山吹 / 2005年春・静岡市
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by tozanji | 2005-07-08 00:00 | 従容録 宏智の頌古

第六十九則 南泉白こ

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 衆に示して云く、仏と成り祖と作るをば汚名を帯ぶと嫌い、角を戴き毛を被るをば推して上位に居く、所似に真光は輝かず、大智は愚の若し、更に箇の聾に便宜とし、不采を佯はる底あり。知んぬ是れ阿誰ぞ。

挙す、南泉衆に示して云く、三世の諸仏有ることを知らず、狸奴白こ却って有ることを知る。

 南泉普願禅師は馬祖道一の嗣、道元禅師が栄西禅師に如何なるか是れ仏と問うて、三世の諸仏知らず、狸奴白こ却って是を知ると、云われて、ようもわからんです、万里の波頭を越えて入宋沙門となる。りぬびゃっこは狐狸の類だと思っていたら、狸奴で猫白こ(牛へんに古と書く)は牛という、ひっくりかえして狸奴白こ知らず、三世の諸仏却ってこれを知るといったら、この世に仏祖がいなくなる、でも世間おおかたの意見これ、仏仏を知らずということを知らない。別段仏となり祖となるを、汚名を帯びるといって嫌い、なとややっこしいこといらぬ、朕に対するは誰ぞといわれて、不識知らないという、それそのまんまです。坐っているでしょう、坐っているあなたは誰と自問自答するに、直きに知らないと答えが返るんです、知っている分がみな嘘です、あるいはどのような自負も私も一瞬のちにはついえさる、糠に釘ですか、そうなると如来の相を現ずるも間近いんです。如来、あなたはだあれ、知らないという花のように咲く、人間の如来は人間に同ぜるが如しです。きつねたぬきと、あるいは猫牛という、もしやよっぽど人間よりも知らない類、けだものという時に人間のほうがずっとけだものだ、なぜか、観念に捕われて野卑です、たとい強姦殺人もなにかしらの智恵考えによる、それに捕われぬ工夫あって免れるんです。
よくよく見て取って下さい、自救不了の如何なる原因か、我をなにかしらと見做す、まずもってこれの根本を糾して下さい。俄か坊主が思想だの、らしくだの大威張りかいている、滑稽だが本人は気がつかない、世間人の延長なんです、どうしてもこれ、如何なるか是れ仏と問いなおす必要がある、三世の諸仏知らずと示すには、たとい南泉もおうむ返しでは、そりゃ効き目ないです。効き目ないことを知るが先決、とは情けない。

頌に云く、跛跛挈挈、繿繿纉纉、百取るべからず、一も堪ゆる所なし。黙々自ずから知る田地の穏やかなることを。騰騰誰か肘皮敢心なりと謂はん。普周法界渾て食卞と成す。鼻孔塁垂えおして飽参に信す。

 跛はちんば挈はてんぼ、繿は監に毛で髪の乱れて整わぬさま、纉は参に毛でおんぼろけ、そうですねえ寒山拾得の図でも思い浮かべますか、なりふりかまわぬありさまです。百取るべからず、一も堪ゆるなし、これ就中出来ないですよ、坐っていてどうしても運転するでしょう、どこまで行っても物差しです、ああだこうだやっている。まして況んやしゃば人間をやです。そいつがまったく手放しになる、すると三世諸仏ですか。つまらんわしというしかないんです、ほんとにどうもこうもです、しかもそいつを観察しないでいられる、ほったらかしに忘れ去る。黙々自ずから知る田地の穏やかなることを、実に云いえて妙です、なんでもありありのどうもこうもないんです。たとい転んでもただでは起きないんですか、いいですか、もう終わってしまったんですよ、ふたたび鍛え直してという、頭にたがはめないんです。文句のつけようにないものみな法界です、文句をつける自分が失せる、食卞は飯に同じだってさ、敢心はばかですってさ、肘皮つっぱらかったって、虚空そのものなんです、騰騰しようが、わけもわからん曖昧しようが、たとい呑却し終わってどうもこうもならんです、鼻孔塁垂として飽参に任す、はいそうですねえ、このように坐って下さい。
画像の出典  れんげ、ヤマソ、蕗、クローバーなど/静岡市
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by tozanji | 2005-07-07 00:00 | 従容録 宏智の頌古

第六十八則 夾山揮剣

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 衆に示して云く、寰中は天使の勅、こん外は将軍の令、有る時は門頭に力を得、有る時は室内に尊と称す。且らく道へ是れ甚麼人ぞ。

挙す、僧夾山に問ふ、塵を撥って仏を見る時如何。山云く、直に須らく剣を揮うべし。若し剣を揮はずんば漁父巣に棲まん。僧挙して石霜に問ふ、塵を撥って仏を見る時如何。霜云く、渠に国土なし、何れの処にか渠に逢はん。僧廻って夾山に挙似す。山上堂して云く、門庭の施設は老僧に如かず、入理の深談は猶石霜の百歩に較れり。

 夾山善会禅師は船子和尚の嗣、石霜慶諸禅師は道吾円智の嗣。夾山は道吾に云われて船子和尚に参ずる、船子徳誠、薬山惟儼の嗣、華亭にあって小舟を浮かべて往来の人を度す、法を夾山に伝えて、自ら舟をくつがえして煙波に没すとある。寰中畿内ですか、天子の勅が行き渡る、こんは門に困、塞外というか門外は将軍の威令による、まあこれ一応坐になる、坐禅として定に入るということですか、渠に国土なし、いずれの処にか渠を見んとこう坐ってるんです、塵塵三味ですか、捉えようたって捉えようがないです、寰中は天子の勅、勅は行きっぱなし、出たらそれっきりの絶え間なし出ようが、そいつに乗っ取ろうがなにしようが、首切られてまで文句いうやついないんですよ、正しいか間違っているかアッハッハそんなこた知らん、ていうより正邪もと根無草ですか、因果をくらまさず、どうもさっぱりわからんまんま。ですが妄想煩瑣というか、なにしろ右往左往、とっつきひっつきの時分は、将軍の直に須からく剣を揮うべしです。ばっさりばっさりやりゃいい、頭一つふるうとふっ消える、前念消ゆれば後念断つ、切ることはふっ切ればいい。悟ったらどうかといって、いずれ同じ迷い出す、なんとかせにゃならん、どうにも外れんところ、捕われるところを、あるとき本当に取り除くんです。一切無礙一切自由、如来となってしばらくこの世に現ずる実感ですか、でもそんな取り決めはないんです、歴史だの世界だの諸思想宗教を圧するんですか。なに出入り自由といったほどの、かすっともかすらないんです、仏を見るに仏を見ず、自分というもののない、なけりゃどうしてないを知るんだという、はいとやこう云わずにやって下さい、他なしってことを自覚します、これを無自覚というアッハッハ。

頌に云く、牛を払ふ剣気、兵を洗う威。乱を定むる帰功更に是れ誰ぞ。一旦の氛埃四海に清し、衣を垂れて皇化自ずから無為。

 氛は気、妖気凶事に使う、牛を払う剣という、牛は牽牛の星、観察するに異気ありといってとやこう、石の箱に二振りの剣があって云々の故事。武王紂を撃つ、大雨が降ってこれ天が兵を洗うといった。まあ中国四千年故事だらけで、もってするのが詩人というものだが、どっちみち木石山河を用いるのとアッハッハ目糞鼻くそですか、なんていうと怒られますか。人の知る処を利用するは禅家の日常茶飯、大げさにしたって百害あって一利なし。まあいいいか坐っていて妄想百般、あるいは念起念滅、乱を定める帰功更に誰ぞと、まあとにかくそういうこってす。不思議に収まり不思議にまた起こる、これをどうこうしようという念の納まる、対峙を双眠するという、常坐ってはこの繰り返しですか。一旦の氛埃納りかえって四海清しと、そこに自分というものあっちゃ届かないんです。自分という自分以外ですか、たしかに知ることは知るんです、でも言語に絶するんです、これを皇化衣を垂れて自ずからという、なかなかむかしの中国人は無為を云うにも、これだけの大袈裟、いやさ繊細があった。今の中国人は別人かな、エレガンスとか教養のかけらもない、ぶたに眼がねみたい為政者どもの、万ず屁理屈聞いていると、腹立つ前に呆れ返る。共産主義すなわち思考停止の成れの果て。

画像の出典  東山寺の蔵書より
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by tozanji | 2005-07-06 00:00 | 従容録 宏智の頌古

第六十七則 厳経知慧

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 衆に示して云く、一塵万象を含み、一念三千を具す。何かに況んや天を頂き地に立つ丈夫児、頭を道へば尾を知る霊利の漢、自ら巨霊に辜負し家宝を埋没すること莫しや。

挙す、華厳経に云く、我今普く一切衆生を見るに、如来の知慧徳相を具有す、但だ妄想執着を以て証得せず。

 華厳経は釈尊成道の直後、自内証の法門をそのまま説かれたものとある、華巌経も法華経も一言半句しか読んだことがないので、とやこういうわけにゃ行かぬが、安芸の宮島へ行って平家納経を見たとき、長年普門品第二十五というのを一巻だけ読んでいたら、展示の三巻が読める、感動した。今ではもう日本人には書けぬ、美しいすばらしい真面目の字であった。たとい平家滅んでもこれは残る、日本人滅び去っても残る。いえ平家納経雲散霧消しても、仏も仏法もちゃーんとあるんですか。人はその中に生まれ、大法のこれあるがまんまに生きる、ただ転倒妄想の故にないがしろにし、あきめくらをやっていて、しっぺ返しを食うのは自分と傍迷惑ですか、そりゃしょうがないたって、しょうのないことに気がついたら、元へ帰ればいいです。一箇光明なれば四維を照らすんです、世の中よくしようには他の方法はないんです。宮沢賢治は、世界中が幸せにならなければ個人の幸せはないといった、それは西欧流の思考です、美しい詩人の魂ですか、賢さは大好きですが、これは間違っています。一塵大千世界です、一念宇宙そのものです、どうか一個でも半分でも光明になって下さい、次の一個が光明になります、そうして一個半分光明ならば、世界現ずるんです、なにけちなこと云わない、まさに妄想執着の故を以てです、もと明白もと洞然、如来の徳相知慧愚痴のまんまです、実にこれお釈迦さんがはじめて気がついたんです、よくよく見て取って下さい。巨霊という、そのあるがまんまに辜負、とってもそんな大それたものはとやるんです、でもってせっかくの宝蔵が台なし。

頌に云く、天の如くに蓋ひ地の如くに載す。団を成し塊を作す。法界に周うして辺なく、隣虚を折ひて内無し。玄微を及尽す、誰か向背を分たん。仏祖来って口業の債を償ふ。南泉の王老師に問取して、人々只だ一茎菜を喫せよ。

 天王の思清禅師上堂、払子を竪起して云く、只這箇天も蓋ふこと能はず、地も載すること能はず、遍界遍空団と成し塊と作す。というによる、法界に周ねく隣虚を砕くことは、まずもって参禅の人これを得て下さい。地なく天なく清々としてあまねくこれ、玄微を及び尽くすんですか、無心という無身という、自分という口実のまったく参加しないんですか、たとい坐中向背あろうともまったくかすっともかすらないんです、わしのような猫背姿勢のかたくな、どうにも気にすること長かったですが、そんな必要はまったくないんです、もとこの通りあって手つかず、仏祖だけが、人類百万だらの申し訳をしようっていう、アッハッハまさに坐禅とはこれ、でなくば間違いだらけの、いっそ救われん、実にそういうこってす。如来これ、だから仏像おったてることはないよって、南泉と杉山とも、菜っぱをそろえておったんでしょう、一茎草をとって威なるかな、大いに供養するによしとやったんです、百味珍羞もまた省みずと、あるときは丈六の金身あるときは一茎草、私するなんにもなければ正解、仏というそりゃ供養に足るんですよ、ええ、あなたもです。

画像の出典  野あざみ/静岡市 2005年5月撮影
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by tozanji | 2005-07-05 15:58 | 従容録 宏智の頌古

第六十六則 九峰頭尾

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 衆に示して云く、神通妙用底も脚を放ち下さず、忘縁絶慮底も脚を抬げ起こさず。
謂つべし有時は走殺し、有時は坐殺すと。如何が格好し去ることを得ん。

挙す、僧九峰に問ふ、如何なるか是れ頭。
峰云く、眼を開けて暁を覚えず。僧云く、如何なるか是れ尾。峰云く、万年の牀に坐せず。僧云く、頭有りて尾無き時如何。峰云く、終に是れ貴とからず。僧云く、尾有りて頭無き時如何。飽くと雖も力なし。僧云く、直きに頭尾相ひ称ふことを得る時如何。峰云く、児孫力を得て室内知らず。

 九峰の道虔大覚禅師は石霜慶諸の嗣、頭尾という、頭は入得の最初初心の修行を云う、尾は末後の牢関究竟のねはんを云うとある、初発心と終に得るところとですか。
終に得るとはどういうことか、況んや元の木阿弥、虎を描いて猫にもならず、終にこれ鼻たれの栄造生、良寛さんの幼名ですが、なんかたいへんなことをしたんだというのが失せる、いったいおれはなにをやっていたんだというしばしばあって、それも失せてなにかこう、引っ込んでないんです、どういってみようもないんですが、他と接すると圧力の違いみたいな、万年の牀に坐せずは、云いえて妙です。九峰なんて聞いたこともねえがなんだと思ったら、はーいっていって納得。眼を開けて暁を覚えず、それっこっきりに入れ揚げるのと、暁が見えない、暁になってこっちを見ているんです、不思議な光景があって初発心の満足を知る。これだという、これだという大
まさかり振り回しては、ついに是れ貴とからず。また初発心のみという、まさにこれそういうことなんですが、悟りという一札なければ、尾あって飽くとも力なし、なんにもなりはしないんです。有耶無耶の世界に終わる、頭尾あいかなうことを得るとき如何、アッハッハそれがし有耶無耶と云いたいところですが、児孫力を得て、ようやく作家ですが、することなすこと別段ないんです、ぴったりとさへ思わずのものみな標準。うれしくもなんともないですか、うっふまあそう云っておけ、室内秘伝なんてあるわけがない、出ずっぱりになっちまう。朝に天台に行き夕に南岳に帰るといえば一蒲団上の入息出息と坐殺、どうもそういうけちなこと云わんです。

頌に云く、規には円に矩には方なり。用ゆれば行ない舎つれば蔵る。鈍躓蘆に棲むの鳥、進退籬に触るるの羊。人家の飯を喫して自家の牀に臥す。雲騰って雨を致し、露結んで霜と為る。玉線相投じて針鼻を透り、錦糸絶えず梭腸より吐く。石女機停んで夜色午に向かう、木人路転じて月影央ばを移す。

 規はぶんまわし、つまり円を描く、矩は定規、規矩といってまた僧堂規則をいう、老師会下に、規矩なしをもって規矩となすとしたのは、板橋興宗禅師であった。
宗門にはついに老師会下が起こる、そりゃ他には仏教のぶもなかったんでしょう。威儀即仏法行事綿密という猿芝居に葬式稼業の、云う甲斐もなさ、大法あるというても本当の法とは遠かった。用いれば行ない、捨てれば蔵るという、そりゃまあそういうこって、蘆に棲む鳥のどったばった、まがきに触れる羊の滑稽、人の家の飯を喫しててめえんとこの牀に坐す、どうですかまったくそういうことやっていませんか。西に向かって東を求める、百年河清を待つは、こっちの岸でパーラミーター彼岸へ渡ろう、渡ったやってるんですよ。反省すべきはまさにこの一点なんです、さあ坐ってごらんなさい、まったく違うんです。針鼻は針のめど、梭腸は梭の糸口、いったん緒に就くということあって、ついにはそれを忘れるんです。多少の苦労はあります、雲おこって雨降らし、露むすんで霜となるなーんてわけには行かんか、でもものみな自分がして自分が苦しんでいる、まったくの天然現象ですよ、因果歴然と坐ってるようなもんです、知らぬは自分ばかりなりってね。従い木人まさに歌い石女舞う、はーい万事お手上げ、勝手にしてくれってなもんで、しばらく落ち着くんです、なにさどうせ棺桶に入るっきりだっていうなら、ミイラになって活仏。

画像の出典  コデマリ/ 静岡市にて
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by tozanji | 2005-07-04 00:00 | 従容録 宏智の頌古

第六十五則 首山新帰

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 衆に示して云く、咤咤沙沙、剥剥落落、丁丁蹶蹶、漫漫汗汗、咬嚼す可きこと没く、近傍を為し難し。且らく道へ是れ甚麼の話ぞ。

挙す、僧首山に問ふ、如何なるか是れ仏。山云く、新婦驢に騎れば阿家牽く。

 たたささ、はくはくらくらく、如何なるか是れ仏と問われて、まさにこう答えたかどうか、取り付く島もないんですが、ぜんたい箇に帰る、自分=取り付く島もなしと知るにいいんです。咬みがたく咀嚼しがたし、手をつければ大火傷を負うを知って、ついに手つかずになる、これを参禅という、単純を示すんです。でもなんにもないかというと、なんにもないものを得るのに、新婦ろばに乗れば姑これを引くと、どうあっても一言あるわけです。まあだからどうの云ってないで、なんでもありありです、登竜門です、全霊もっての跳躍ですか、諦めて下さい。急転直下は、アッハ
ッハまったくこの世から去ればいいんですか、私というものなくものみなが呼吸し、座禅しているんですよ、そうしてどうやら真相他にはないんです。首山の宝応省念禅師は風穴延昭の嗣。

頌に云く、新婦驢に騎れば阿家牽く、體段の風流自然を得たり。笑うに堪えたり顰に学ふ隣舎の女、人に向かって醜を添えて妍を成さず。

 西施心を病む、心を捧げて顰すれば更に美を益す、隣家の醜女醜に習って更にその醜を増す。という故事をひく、象潟や雨に西施が合歓の花と、芭蕉の句にある中国美人代表、まあこれ意味を云々したい人には、仏を学ぶを新婦、ようやく生涯落処定まって、いよいよもって師家に手を引かれて行く、といった処ですか。姑だでアッハッハそりゃどえらい目に会うぞよってのは蛇足、うまくその風流自然を得たりというからには、頌に云く一段の新風ですか。あんまりそうも行かず、あとつけるには、しかめ面の新婦のまねしていよいよ醜くという、そりゃ人まね横滑りの修行はしかめ面残るだけです、まあたいてい坊主だの学者それやってるですがね、驢に騎ろうがなにしようが、大乗自ずからです、もう他なしということあって、そりゃ美醜も分つ、洞然明白おのれ無うしてだのに、なんとしてかおのれを用いる、アッハッハ実にこれ不可思議千万てね。

画像の出典  ホトケノザ/静岡県静岡市葵区にて撮影 2005年春
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by tozanji | 2005-07-03 14:19 | 従容録 宏智の頌古

第六十四則 子昭承嗣

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 衆に示して云く、韶陽親しく睦州に見えて香を雪老に拈ず、投子面のあたり円鑒に承けて法を大陽に嗣ぐ。珊瑚枝上に玉花開き、せん葡林中に金果熟す。且らく道へ如何が造化し来たらん。

挙す、子昭首座法眼に問ふ、和尚開堂何人に承嗣するや。眼云く、地蔵。昭云く、太はだ長慶先師に辜負す。眼云く、某甲長慶の一転語を会せず。昭云く、何ぞ問はざる。眼云く、万象之中獨露身。意作麼生。昭乃ち払子を竪起す。眼云く、此は是れ長慶の処に学する底なり、首座分乗作麼生。昭無語。眼云く、只だ万象之中獨露身というが如きんば是れ万象を撥らふか万象を撥らはざるか。昭云く、撥はず。眼云く両箇。参随の左右皆撥ふと云ふ。眼云く、万象之中獨露身、にい。

 韶陽雲門大師は睦州(陳尊、黄檗の嗣)に始め参学す、雪老雪峰の法を嗣ぐ、投子義青は円鑒臨済七世の孫、大陽警玄の法を受けて投子を嗣続せりとある、すなわち珊瑚樹上に玉花開き、せんぷくは香花と訳すそうです、金果熟すをもって、大法の伝わる様子。そりゃ因縁熟す、順熟という、熟した柿がほろりと落ちるようにという、法眼托鉢行脚のついで地蔵に会う、なんのため行脚すると云われて、知らん行脚してるんだという、知らぬもっとも親切といわれて大悟、ほんとうに他なし無所得の風景が一転するんです。たとい長慶に参じて久しいとはいえ、某甲一転語を会せずということがあった。子昭も共に久参です、だのに地蔵に嗣ぐと、なんでだと問う、師匠に背くではないか。万象の中獨露身意そもさんと却って問われる、昭すなわち払子を竪起す、あるいはこれあってかくの如しとやってたんでしょう、是とするには未だし。首座分乗そもさん、おまえの云い分はどうなんだと問はれて、ついに無語。法眼探棹影草ですか、ひっかきまわす、撥か撥にあらざるか、撥わずと案の定ひっかかって来た、こいつを撥わにゃならんです、百尺竿頭いま一歩です、万象のうち獨露身と示す、箇の無縫塔です、にいは斬に耳、かつとかろというやつ、法眼常套手段かつて知るや否や。

頌に云く、念を離れて仏を見、塵を破って経を出だす。現成の家法、誰か門庭を立せん。月は舟を逐ふて江練の浄に行き、春は草に随って焼痕の青きに上る。撥と不撥と、聴くこと丁寧にせよ。三径荒に就いて帰ることは便ち得たり、旧時の松菊尚芳馨。

 念を離れて仏を見ることは、もとまさにこのとおりなんですが、就中困難です、臨済も曹洞は死出虫稼業の他見る陰もないんですが、今様坊主、念を離れて仏という人を知らんです、お経にしがみついてだみ声上げるばっかり、唾棄すべきです。鶯のように蛙のように鳴いてみろってアッハッハわしとこの一応目安ですが、自分というものまったく失せてお経は、そうねえ人みな感激します、生まれてはじめてお経を聞いた、どうしてこんなに気分がいいんだろという。説法なくばせめて身を以て示して下さい。現成の家風だれか門庭を立せん、わしと他さまざま宗旨と違うのは、みな宗旨といい門徒という、仏教悟りの中にあっての云々です。わしはそうではないもとものみななんです、世間出世間まっ平らです、しかもわし以上に仏を信ずる者なしと思ってます。家法門庭をいう、虎の威をかる狐ですか、わしにはそんな大それたものはない、自分というどうしようもないものを、断じて許せぬものをついに免れた、というんですか、自分無ければ可と、それだけです。するとある時如来と現ずるんです、月はかつての自分という舟を追うんですか、いえ月もなく舟もないんです、それをしも江練、練り絹のような水というたですか、ビジュアルには雪舟の絵があります、参照して下さい。これは春野焼きのあとの青草ですか、初々しく生い伸びる、いっぺん撥と不撥と旧によって塵芥を払拭するんですか、三径という色不異空のしきいを跨いで、色即是空を知る、ついには元の木阿弥です、しかも自分というわだかまりが全く失せるんです、暫く七転八倒ありますか、そりゃただではただが得られない、でも一生を棒に振る価値はあります。

画像の出典  ハハコグサ/静岡県静岡市葵区新間
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by tozanji | 2005-07-02 00:00 | 従容録 宏智の頌古