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第九十一則 南泉牡丹

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 衆に示して云く、仰山は夢中を以って実となし、南泉は覚書を指して虚となす。若し覚夢元無なることを知らば、虚実待を絶することを信ぜん。且らく道へ斯の人甚麼の眼をか具す。

挙す、南泉因に陸亘大夫云く、肇法師也た甚だ奇特なり、道うことを解す、天地同根万物一体と。泉庭前の牡丹を指して云く、大夫時の人此の一株の花を見ること夢の如くに相似たり。

 南泉普願禅師は馬祖道一の嗣、陸亘大夫は宣州刺史南泉の俗弟子、肇法師は羅什三蔵の門人、どうだというんでしょう、肇法師はたいしたもんだ、天地同根万物一体だと云っている、たしかにそりゃ理にかなっている、そのようにものみんああり、同根も一体もたとい自分という深い井戸の底ですか、同心円を行ずるんですか、深い井戸がこっちを見ているんですか、それともまるっきりそんなもなないんですか。仰山は夢中をもって実際です、打てば響くんです。南泉庭前の牡丹をゆびさして、時の人これを見るに夢の如くといった、夢や現つやほんとうには見ていないということですか、月は月花はむかしの花ながら見るもののものになりにけるかな、だから俗人浮き足だって右往左往、見れども見えずの、そうねえ騒がしいことやってないでというんですか。いえ俗人も覚者もないです、現実であればあるほどに夢、一年365日夢、却来るして世間を観ずれば猶夢中の事の如し、いいえとやこう抜きに手を触れ耳目にして夢、まずもってこれを味わって下さい。この項どっか洒落ていて覚えやすくていいです。

頌に云く、離微造化の根に照徹し、紛紛たる出没其の門を見る。神を劫外に遊ばしめて問ふ何かあらん。眼を身前に著けて妙に存することを知る。虎嘯けば蕭蕭として巌吹作り、龍吟ずれば冉冉として洞雲昏し。南泉時人の夢を点破して、堂々たる補処の尊を知らんと要す。

 どうもこれ大袈裟に紛紛しなくたってもいいです、ものは見たとおりこうあるっきりです。そりゃ四句を離れ百非を絶しなけりゃ、劫外に遊ぶ神なく、父母未生前の妙もないです。牡丹がほんとうに牡丹であるとき、我なく牡丹なく夢の如くに実際です。人の見る風景は妄想執念です、それを実存といいあるなしという。妄想執念という、そいつを起こすやつが失せて、虎うそぶけば巌吹おこり、龍吟ずれば洞雲くらしです、独立独歩はまさにかくの如くあるんです。他との比較がない、夢のように空に浮かぶんですか、もし為政者あるいは官吏であれば、なをさらに四句を離れ百非を絶する、まさにこれ正義。歴史だの政治というぶっこわれがらくたを作らない、如実夢幻、堂々たり補佐です。これの尊いことを知る皆無、いえそりゃいくたびか行なわれていますよ。かつて他に帰趨の処なしを知る、そうですねえ人間とは何かーですよ。
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by tozanji | 2005-08-14 00:00 | 従容録 宏智の頌古

第九十則 仰山謹白

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 衆に示して云く、屈原独り醒む正に是れ燗酔。仰山夢を説く恰も覚時に似たり。且らく道へ万松恁麼に説き、諸人恁麼に聞く。且らく道へ是れ覚か是れ夢か。

挙す、仰山夢に弥勒の所に往いて第二座に居す。尊者白して云く、今日第二座の説法に当る。山乃ち起って白椎して云く、摩訶衍の法は四句を離れ百非を絶す、謹んで白す。

 仰山慧寂禅師、い山霊祐の嗣、摩訶衍は大乗の法だそうです、四句百非とは外道論争の道具とある、一、異、有、無を四句とし、四句各四句あり更に三世に約し云々と百非、まあインド流の総てを網羅。まことに痛快な話で、夢に弥勒菩薩の第二座であった、今日第二座の説法に当ると、すなわち起って、大乗の法は四句を離れ百非を絶す、つつしんで白すと。まったく他ないんです。とやこうなんで弥勒だ、お釈迦さんじゃないのか、どうして第二座だとかいってないで、自分も夢だろうが現実だろうが、したがい第三座だっても、ばかっと起ってやってみりゃどうです、首すっとんだって他にゃないんです、字余りぐずって三千里の外、そんじゃ坐る坐ったらなんとかど、あほなこと云ってないんですよ。屈原は詩人じゃなかったのかな、楚王に仕えてあるときは賛せられあるときは貶せられ、世挙げて皆酔へりただ我独り覚めたり、世挙げてみな濁る我ひとり清たりといって、河に沈むとある。まさにこれ燗酔とある、世間正直が酔っ払い、まさにこの例を見よという。世間常識をかなぐり捨てなけりゃ、そりゃ物にならんですよ、キリスト教の狂信者みたいなんかって、信も不信もないまったく他なし、これを知らんけりゃそりゃ駄目です。四句を離れ百非を絶す、いいえものみなかくの如し。

頌に云く、夢中衲を擁して耆旧に参ず。列聖森森として其の右に坐す。仁に当たって譲らず健椎鳴る。説法無畏獅子吼す。心安きこと海の如く、胆の量斗の如し。鮫目涙流れ、蚌腸珠剖る。譫語誰か知かん我機を洩すことを。ほう眉応に笑ふべし家醜を揚ぐることを。四句を離れ百非を絶す。馬師父子病に医を休む。

 衲は破れ衣、擁はかいつくろう、破れ衣を正して耆旧、耆は年寄る、つまり列聖です、森森として其の右に坐す、まさにまったくです、今様評論家脇見運転にはわからない、どうしようもないのばかり増えて、人間も国も滅びますか。仰山夢に見るところ、けん椎、健に牛へんです、鳴りもの、今も使っています、八角のつち、白槌するといいます、にせ坊主猿芝居とは、仏祖師になんと申し開き、ほんにまあ道具立てばかりって、近頃の諸道具、坊主のどうしようもなさを見て、ほんにずさんで値段ばかり高い、そりゃまあものはそうなるわな。説法無畏獅子吼するところ、仏教途端に蘇るんです、これが滅びてなるか、安心は大海の如く、胆嚢斗で量るってなもんの。蚌腸ははまぐり真珠を生むんですか、鮫の目に涙も同じく、ほう眉半白の太い眉、うっふっふすべからく家醜を揚げて下さい、馬大師月面仏、日面仏、百非を絶したありさま。いやまあたいした詩人ですな、よくもまあこんなに云いつくろって、しかもすっきりずば。
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by tozanji | 2005-08-13 00:00 | 従容録 宏智の頌古

第八十九則 洞山無章

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 衆に示して云く、動ずるときは則ち身を千丈に埋ずむ。動ぜざるときは則ち当処に苗を生ず。直きに須らく両頭撒開し、中間放下するも、更に草鞋を買うて行脚して始めて得べし。

挙す、洞山衆に示して云く、秋初夏末兄弟或いは東し或いは西す。直に須らく万里無寸草の処に向かって去るべし。又云く、只万里無寸草の処の如き作麼生か去らん。石霜云く、門を出ずれば便ち是れ草。大陽云く、直に這はん門を出でざるも亦草漫漫地。

 青原下五世洞山良价禅師、雲巌曇じょうの嗣、大陽警玄禅師、梁山縁観の嗣、石霜慶諸禅師は道吾円智の嗣、夏はげと読んで制中、三旬安居といって今もそのとおり行なわれるんですが、葬式坊主のお行儀見習いと、でたらめ仏教です、軍隊組織のいじめみたいなことしてます。もはや宗門は滅びたんですか。でもこのころは違います。仏を求め法を求めて、一夏終わるとあいかなう師を探して行脚して行く。そりゃあ師がいいかげんならどうしようもない、師がちゃんと法を継いでいて、しかもかなわぬということあります。臨済も黄檗のもとを去って得る、洞山大師も諸方に遍歴です。青原行思は一宿覚といって、六祖禅師のもとへ一泊して得るんです。動ずるときんば身を千丈に埋ずむ、どうであろうかこうであろうかする、まさにどうもならんです。動ぜざるときは当処に苗を生ず、ではこうだと決め込んだら、雑草生い伸びるんですか、君見ずや絶学無為の閑道人、妄を除かず真を求めずとあります、自分そのものを捨てる、突き放すんです。あるがまんまという、世間常識とはまったく別の世界があります。さあそれを得ようという、すべからく万里無寸草の処に向かって去るべし、万里雲なし万里の天、千江水あり千江の月、はて無寸草のところ、一木一草も生えんところにどうやって行くんだってわけです。アッハッハまあそういったわけです。石霜云く、なにさ門から一歩出れば草生えるってさ。大陽云く、いや門を出ずたって草ぼうぼう。どうですこれ。

頌に云く、草漫漫、門裏門外君自ずから看よ。荊棘林中脚を下すことは易く、夜明簾外身を転ずることは難し、看よ看よ。幾何般ぞ。且らく老木に随って寒瘠を同じうす。将に春風を逐うて焼瘢に入らんとす。

 草ぼうぼうまあ生えるに任せるってことですか、無無明亦無無明尽、草を妄想とするでしょう、すると念起念滅神経シナップスのぽっと出ぽっと消えです、それをとっつかまってどうのこうのやるから際限もないんです、病因無始劫来貪瞋痴という、たった今の自分が引き起こすところを、自分といいどうしようもなさだという、アッハッハお笑い草なんです。たといどうしようもない自分だろうが手かず、念起念滅に任せる、これができたとたんぱあっとなんにもなくなって、坐が坐になります。妄想草たとい自分のものなに一つないです、独創悠々自分流という、どうはっつけ関係ずけってだけのこと。審細に見るには見ればいい、妄想草、はい責任の取りようがないんでしょう、どうですかあなたを救い得たですよ。門裏洞山会下にあって、荊棘林ものみないばらの林です、どうにかしようとて七転八倒も即ち荊棘林です。仏の大まさかり揮って孤軍奮闘ですか。たといどうにかなる、門を出る転身のところ、向下門など態のいいこといって、はたしてそれが役立つか。はらわたまで草ぼうぼうんなっちゃアッハッハ元の木阿弥、しばらく洞山大師老木にしたがって寒風に痩せ、でもってまさに春到って門内あれ七転八倒の焼けあと。万松老人も人が悪いちえ老人組合。
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by tozanji | 2005-08-12 00:00 | 従容録 宏智の頌古

第八十八則 楞厳不見

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 衆に示して云く、見あり不見あり、日午灯を点ず。見なく不見なし、夜半墨を溌ぐ。若し見聞は幻翳の如くなることを信ぜば、方に声色空花の如くなることを知らん。且く道へ教中還って衲僧の説話ありや。

挙す、楞厳経に云く、吾が不見の時何ぞ吾が不見の処を見ざる。若し不見を見るといはば自然に彼の不見の相に非ず。若し吾が不見の地を見ずんば自然に物に非ず。如何ぞ汝に非ざらん。

 楞厳呪は梵語のまま読むことになっていて、ナムサタンドウスギャト-ヤ-と新到泣かせの長いやつを、五月六月毎日読む、でもってなんとか覚えて僧堂を出ると忘れてしまう。宗門坊主にとって、お経はお布施を稼ぐ道具以外になく、ましてや内容などは、そりゃ説教のネタにすりゃまた別という。もっともお経を知って説話したって、自分がその示す通りにならなけりゃ、なんにもならぬ嘘八百。これはその例にいい、言葉ずら捉えたって就中わけもわからんようできている。見あり不見ありと、どういうこったかわかりますか。見る、見性という、どうでも一度は見んけりゃそりゃお話にならん、仏教として成り立たぬのです。学者とか坊主の類はそれを知らんです。でも見るとは見る人がいないんですよ、ものみなあって自分なし、自分という架空請求に拠らんから、我と有情と同時成道のかの獅子吼があるんです、でもこう気がつく以前、まったくの不見忘我があります。それゆえ楞厳呪のこの語があります、吾が不見の時なんぞ吾が不見の処を見ざる、大悟徹底悟るという、たといなんぞ吾がという、そっくりそれ答え、でも身心脱落、いえ脱落身心の日常まさにこうあるきりです。若し不見を見るといはばそりゃ嘘だという、でもこの不見の地がなけりゃそりゃ問題にならんという、はいとにかくこれを知って下さい。でなきゃいかんが汝に非ざらん、即ち四の五の云ったってそりゃどうにもならんです。

頌に云く、滄海を瀝乾し、大虚に充満す。衲僧鼻孔長く、古仏舌頭短し。珠糸九曲を度し、玉機わずかに一転す。直下相逢うて誰か渠を知らん、始めて信ず、斯人伴ふべからざることを。

 大海の水を飲み干せとか、よく公案小道具にあります、大虚に充満す、手に持ったお椀の中にころっと入るとか、身心脱落はあるいはこの世から完全に姿を消すんですか、すると鼻孔長くアッハッハどっか仏の相というのは、大風にできてますか、そうして舌頭短し、能書き三百代言しないんです。わずかに一転語する、あるいは一に永えに接するんです。直下あいあうて誰か渠を知らん、そりゃまったくわからんです、他はついに変だなあというぐらい。知ったとて窺い知ること不可能、だってさ自分を知らない人を、どうして知ることができる。始めて信ず、この人伴うべからざることをとは、云いえて妙です。まあ自ずからこうなるしかないってことですな。
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by tozanji | 2005-08-11 00:00 | 従容録 宏智の頌古

山水長口舌

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山水長口舌花は花月はむかしの月ながら見るもののものになりにけるかな、ということあってものみな我でっす、ついに仏にあらざるはなし、これ実感なんです、菩提の心与麼に長ず。

 ずいぶん豊かな幸福なことかと思いますが。
 そうです、首くくる縄もなし年の暮れといってね。


画像  平成16年10月23日新潟県中越地震/ 東山寺の状況写真:撮影2004年10月24日参照
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by tozanji | 2005-08-10 00:00 | ぜんごぜんご 五字

本来無一物

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本来無一物以無所得故にとあるように、もと自分の持ち物がない、自分の体も心も自分のものではない、いいですか自分なければものみなすべてなんです、それを得ようという、禅宗だの悟りと、獲得物質にする、気違いです、師家というごろつきです、振り回されんように。

 無字をとおって無門関の十則まで行きましたが。
 それであなたはどうなんです。


画像  平成16年10月23日新潟県中越地震/ 東山寺の状況写真:撮影2004年10月24日参照
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by tozanji | 2005-08-09 00:00 | ぜんごぜんご 五字

平常心是道

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平常心是道=平常心とは何かを先ず知って下さい、従前の右往左往を云っているんじゃないんです、どこどう転んだろうが平常心以外になく、これを無心、心がないというんです。

 では何をどうすれば平常心になるんですか。
 まったくの手つかず、ただです。


画像  平成16年10月23日新潟県中越地震/ 東山寺の状況写真:撮影2004年10月24日参照
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by tozanji | 2005-08-08 00:00 | ぜんごぜんご 五字

万里一条鉄

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万里一条鉄=せっかくの修行やり始めたらまっしぐら、途中止めたらおしまいは、無字の公案隻手妙音ですが、もとはじめっからまっただ中と知る。そうですよ何回しくじったろうが、もとっこ元の木阿弥。いいですか通身あきらめて下さい、無門関ですよ、まっ平ら。

 心機丹田に無の字を置いて見つめ見つめして行く、ついにぶち抜いて、はいそればっかり。
 そればっかりなに不足ないんですよ、どうも中途半端は、中途半端にする自分があるんです、それはいったいなぜか。


画像  平成16年10月23日新潟県中越地震/ 東山寺の状況写真:撮影2004年10月24日参照
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by tozanji | 2005-08-07 00:00 | ぜんごぜんご 五字

白馬入蘆花

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白馬入蘆花=真っ白な花の中に白馬、日々これ好日ですか、毎日が葛藤であり、昨日の自分は今日の自分にあらず、死来たれば死にとうもないというこれ、わかりますか俗人の仏という、絵に描いた餅ではないんです、言語を絶するんですよ。

 まっしろい花に入るまっしろい馬、そりゃなんだか極楽境のような。
 そのように自分を観察すると、そいつはまっしろい花に黒い馬ですか、いや灰色の花だったり。


画像  平成16年10月23日新潟県中越地震/ 東山寺の状況写真:撮影2004年10月24日参照
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by tozanji | 2005-08-06 00:00 | ぜんごぜんご 五字

独坐大雄峰

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独坐大雄峰=百丈因に僧問う、如何なるか是れ奇特の事。丈云く、独坐大雄峰。どうですかこれ、なにかいいことがあるか、仏教という仏という、あるいは大悟徹底という、別になんにもありゃせんのです、独坐大雄峰。さあどうかこれを得て下さい、畢生の大事終わんぬ。

 無所得の故にという、これを云いうる人多少。
 一人半分いなけりゃ世の中真っ暗闇。


画像  平成16年10月23日新潟県中越地震/ 東山寺の状況写真:撮影2004年10月24日参照
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by tozanji | 2005-08-05 00:00 | ぜんごぜんご 五字