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第十三章

第十三章

第十三祖迦毘摩羅尊者、因みに馬鳴尊者、仏性海を説いて日く、山河大地皆依りて建立す、三明六通茲に由りて発現す。師聞きて信悟す。


師初め外道たりし時、徒三千あり、諸の異論に通ず。馬鳴尊者、法輪を転ずるに、一老人あり、座前に仆れる、これ並みのものにあらず、異相あるべしというと、消え、俄に金色の人を湧出す、化して女人になりて、右手に尊者を指して偈を説く、稽首す長老尊、当に如来の記を受くべし、今此地上において、第一義を宣通せよ、と聞こえて見えず。尊者日く、魔来り吾と力を比べんとすと。じきに風雨起こり天地晦冥す。大金龍を現じ、威神を奮発して山岳振動す。尊者厳然たり、魔事したがい滅す。七日をへて一小虫あり、座下に潜む。尊者これを取りて、これ魔物の変化なり、吾が法を盗聴すといって放つ、魔物正体を現わして、至心に懺悔す、乃至尊者仏性海を説く、山河大地みな依りて建立す、三明六通ここによって発現す。師聞きて信悟す。
どうですかこれ、山河大地が無記です、でたらめにあると思っている、もとからあり手をつけるものにあらずとして、却って手をつけているんです、他山の石をこっちの勝手にいじくる。今の人もまったく同じです、たとい科学の精妙も宗教のよこしまもです。根本不信なんです、すなわち様にならんのです。人はこれを知らない、迦毘摩羅尊者は、これをもって山岳振動し、おのれの形をかえするほどに、自在に操る、しかも根本他山の石です、解決がつかないんです。さすがに三千の長、解決のつかぬことを知って、尊者の前に姿を現わすんです。至心帰依しかない、いいですか、座禅と見性という、ついに至心帰依しかないんです。すると山河大地、皆依りて建立するんです、三明六通ここによって発現するんです、ようやく一箇となる、わかりますかこれ、でなくば一箇と呼べぬ、他愛ない拡散ですか、なんにもならぬの一生です、信悟して下さい、通身反省して下さい、自然というでしょう、そんなものありっこない、自分があるだけです、はいこれ入門編です。

浩渺たる波濤縱ひ天に滔ぎるも、清浄の海水何ぞ曾て変ぜん。

そうです、この響きをよく味わって下さい、魔界変化もパロディ悪ふざけも、どうにもならん現代風解釈の不行き届きも、もしや波浪滔天です、もとまったく法性海中、不幸にしてこれに気がつかない、ものごとでたらめに拡散するっきり、なんとしてもこれに気がついて下さい、でないと人生の喜びもなく、せっかく生を受けて無意味です、人もこうなりゃおれもこう、流行に押し流されて、わけもわからん、たとい物まねも、語の響きなし、浩渺たる波濤たとひ天によぎるも、清浄の海水なんぞかつて変ぜん、10ぺん20ぺん繰り返して云ってごらんなさい、一箇かくの如くありがわかります、なんという自分は曖昧、ビ-ルの泡かすにもならんこと、それを知りこれを知って、始めて事に当たって下さい、でなくばなにしたって、そりゃうるさったいばかりのごみあくた。
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by tozanji | 2005-09-25 00:00 | 伝光録

第十二章

第十二章

第十二祖馬鳴尊者、夜奢尊者に問ふて日く、我れ仏を識らんと欲す、何物か即ち是なる。尊者日く、汝仏を識らんと欲す、識らざる者是なり。師日く、仏既に識らず、焉ぞ是を知らんや。尊者日く、既に仏を識らず、焉ぞ不是を知らん。師日く、此は是れ鋸の義。尊者日く、彼は是れ木の義。復た問ふ、鋸の義とは何ぞ。師日く、師と平出せり。又問う、木の義とは何ぞ。尊者日く、汝我に解せらる。師豁然として省悟す。


師はまた功勝と名づく、有作無作、諸の功徳をもって最も殊勝となすを以て名づく。夜奢尊者に参じて、初めにこの問いがあった。仏を知ろうとする、何ものか是れ仏、これはだれしも問うところです、仏とは何か、ほどけば仏、だれに頼まれもしないのに自縄自縛の、その縄をほどく、ほどき終わればもと仏、自縄自縛の縄=自分という、ほどき終わればもとなんにもないんです。知らざるものこれです。知るという自縛の縄ですか、これたとえ話じゃないんです、識らざるもの是れ、まさにこうなんです、他なしの実際、本体です、それを仏とは何か、仏教とはという観念知識です、五蘊こんぐろまりっとの交通整理として求める、それしかできない、世間教育の不実です、だからどうしてもその延長上に求める、仏すでに知らず、知らないものをどうして知ることができる、尊者日く、なんぞ不是を知らん、そんなこと必要がないんです。観念知識としては、のこぎり談義だというんです、山と谷ああいえばこういうんですか、見た目たしかにそうです。尊者日く、そうじゃない木の義だ、おまえの本来ありようの上にという。鋸の義とは何か、師と平出するが故に、そうとしか映らない不都合です、でもって木の義とは何ぞと聞く、のこぎりの延長です、汝我に解せらる、一目瞭然事のあることを云うんです、さすがに並みの凡くらと違う、豁然大悟するんです、すばらしいです、たしかにこういうことがあったんです、今でも起こります。鋸談義はすたれもしようが、木の義は元の木阿弥。

野村の紅は桃華の識るにあらず、更に霊雲をして不疑に到らしむ。

野村の紅は桃華の知るにあらず、自然というものの実体です、それを心行く味わうのは私どもです、いいなあすばらしいなあという、人生の活力であり慰めです、でもそれを汚してはならんです、本来そのもの、100%200%こうあるべきです、100%200%こうあるのに、就中味わい切れない、まずもって自分という、自縄自縛の縄をほどいて下さい、ほどき終わって自性霊明です、なんのフィルタ-もなしに見て下さい、更に霊雲をして不疑にいたらしむ、はいそうです、これが仏教です、仏という元の木阿弥、あらゆる一切が去来する、無限の楽しみをもって生涯して下さい、正に馬鳴尊者、まっぱじめっからこれです。頼もしいですね。
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by tozanji | 2005-09-24 00:00 | 伝光録

第十一章

第十一章

第十一祖、富那夜奢尊者、合唱して脇尊者の前に立つ。尊者問いて日く、汝何れより来たる。師日く、我が心往に非ず。尊者日く、汝何れの処に住す。師日く、我が心止に非ず。尊者日す、汝は不定なるや。師日く、諸仏も亦然り。尊者日くう、汝は諸仏に非ず、諸仏も亦非なり。師此の言を聞いて、三七日の修行を経て無生法忍を得たり。尊者に告げて日く、諸仏も亦非なり、尊者に非ず。尊者聴許して正法を付す。


脇尊者到りて一樹の下に憩ふ、右手に地を指して衆に告げて日く、この地金色と変ぜば、まさに聖人ありて入会すべしと、云い終わりて地金色に変ず、時に長者の子富那夜奢というものあり、合唱して立つ。尊者偈を説く、此地金色に変ず、預め聖の至る有る得を知る、当に菩提樹に坐し、覚華して成り已るべし。夜奢また偈をもって答え、師金色の地に坐し、常に真実の義を説く、回光して我を照らし、三摩諦に入らしむ。三摩諦とは三昧無心に入ること、すなわち得度出家、仏戒を授ける。
どこから来た、心は往来のものではない、どこに住んでいる、心は止まるものではない、では定まらないのか。そうだ、諸仏もこのようにある。どうですかこれ、実にこのように云う一般人て、そうはいないです、無心という、応無所住而生其心という、かつてまさに箇のありようこれ。ですが、尊者これを聞いて、汝は諸仏にあらず、諸仏もまた非なり、たといそうではないという。三世の諸仏知らず、我がありようこれ、仏これという、知っている分が嘘です、未だ本来に住んでいない、忘れ去っていないんです。よって三七二十一日の間、修行してついに忘我、本来まっただ中です、諸仏もまた非なり、標準が失せるんです、尊者にあらず、ついに独立人です。尊者聴許して正法を付す。

我が心仏に非ず亦汝に非ず、来往従来此の中にあり。

自分とは何かというんでしょう、知らないんです、ちらとも知っている部分は、ただ日常便宜の故にです、それも絶え間ない変わって、しかも何不自由しないです、達磨の不識花のように知らないという、天地宇宙これにおって成り立っています、早く成仏して下さい、無自覚の覚ですよ、心仏にあらず、亦汝にあらず、住む所無うしてその心を生ずという、これがありよう、云われてみりゃあまさしくその通りってわけです、往来従来この中にあり、行くも帰るも跡絶えて、されども法は忘れざりけり、はいでは法ってなんですか。
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by tozanji | 2005-09-23 00:00 | 伝光録

第十章

第十章

第十祖脇尊者、伏駄密多尊者の左右に執侍すること三年、未だ嘗て睡眠せず。一日尊者、修多羅を誦し、及び無生を演び。師聞きて悟道す。


師本命は難生、生まれんとする時、父夢に、一の白象背に宝座あり、座上に一明珠を安ず、その光四衆を照らす、すでに覚めてついに生まる。伏駄密多尊者行化のついで、長者香蓋という者、一子を連れて礼拝し、この子所胎六十歳、よって難生と名づく。仙人の云うには、この子非凡なり、法器となるべしと、今尊者に遭う、まさに出家せしむべしと云う。尊剃髪授戒す。所胎六十年、生後八十年、計百四十年初めて発心す。人みな諫めて、汝すでに老耄す、いたずらに清流にあとして是れ何かせん、出家に二種あり、一に習禅二には誦経、汝が堪ゆべきにあらずと。師自ら誓いて日く、若し三蔵を学し三明を得ることなくんば云々、昼は参学誦経し、夜は安禅思惟してついに睡眠せず。初め出家せんとして、祥光座を照らす、舎利三七粒現前す、よって精進して疲れを忘れ、遂に三蔵、仏典の総称ですか、三明という自己を明きらめ、忘れ去り、ついに無自覚ですか、一日修多羅ス-トラです、お経そのものが全ったい手に入ること、これあるんですよ、良寛さんは、正法眼蔵の提唱を聞いて大悟したという、そういうことあるんです、一般の理解わかったというのと、まずはまるっきり違うと思って下さい、そうねえ二次元のものが三次元になるっていう、いえ夢にだも見ない現象です、因みに第十祖に列す。

転じ来り転じ去る幾経巻、此に死し彼に生じて章句区ちまちなり。

お経の文句を知る、三百代言の始まりです、なにはなんたってろくなことはない、三世の諸仏知らず、狸奴白狐かえってこれを知る、ではなんでお経がある、もと我らのありようこの通りと示す、この通りだから身心の辺に証明して下さいというんです、般若波羅密多彼岸に渡れと云われたら、彼岸に渡ればいいんです、すると他何百いっぺんに通達します。一句通ずることこれ、摩訶まは-と云えば大、それにて終わるんです、永平正法眼蔵をそのように読む-見るんです、我と我が身心の上に底抜けです、でなくって眼蔵家だのしゃば流禅家提唱だの、嘘八のいたずらにかき濁すばっかりです、そうねえ大悟してから、読んで下さい、およそ人間の残した財産の中でこれほどのものはなく、良寛さんのように涙流すんですか、書を頂点とする、絵画芸術詩歌彫刻、これらのうち至上最高って、あっはっは俗人みたいですか、いえね、ノ-ベル文学賞という、では飯田木党陰老師の、無門関碧巌祿提唱など、まったくあんなにすばらしいものないです、縦横無尽七通八達、他の文学詩歌など足もとにも及ばんです。区まちまちと読む、意旨如何。
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by tozanji | 2005-09-22 00:00 | 伝光録

第九章

第九章

第九祖、伏駄密多尊者、仏陀難提の、汝が言心と親し、父母も比すべきに非ず。汝が行道と合す。諸仏の心即ち是れなり、他に有相仏を求めば、汝と相似ず。汝の本心を識らんと欲せば、合に非ず亦離に非ずと説くを聞く。師乃ち大悟す。


師姓は毘舎羅、仏陀難提行化して、毘舎羅が家に到る、舎上に白光ありて上る、この家に聖人あるべしと。口に言説なし、真に大乗の器なり、足地を踏まず、ただ穢れに触れることを知る、これ我が嗣ならんと、云い終わるに長者出でて礼す、我に一子あり、口未だかつて聞かず、足未だかつて踏まず、年すでに五十と云う。尊者これを見まさに我が弟子なりと云う、師にわかに起ちて礼拝し、偈をもって問う、父母我が親にあらず、誰かこれ最も親しき者ぞ、諸仏我が道にあらず、誰かこれ最も道なる者ぞ。尊者偈をもって答え、汝が言心と親し、乃至合に非ず離に非ず。師妙偈を聞きて歩むこと七歩。尊者日く、この子、むかしかつて仏にあひ会うて悲願広大あり、父母の愛情捨てがたきをもって、云わず踏まざるのみと。
わしはこういうことのあったのを鵜呑みにします、涙流れるほどに信じますよ、今の世にだって大小の毘舎羅子、伏駄密多尊者がいます、たとい職につき大学を卒業しようとも、云わず踏まず、父母わが親にあらず、世間また世間にあらず、だれかこれ最も親しきものぞ。諸仏我が道にあらず、諸の学問歴史等我が道にあらず、だれかこれ最も道なる者ぞと。これに答える人がいなかった、五十年して、初めて仏陀難提尊者、汝が言汝が心と親し、父母も世間も比すべきにあらず、行道と合す、諸仏の心ものみな即ちこれなりと。他に有相仏を求めば、汝とあい似ず、まさしくこう云うんです。心を知らんと要せば、合に非ず、離にあらず、自分からこうすべきとやらない、批判しない、しゃば流の科学心理学しないんです、近似値ほど害はなわだ、わかりますかこれ、参禅しなさいということですよ、単純を示す、無に帰るんです、師すなわち大悟す。

言うこと莫れ語黙離微に渉ると、豈根塵の自性を染むる有らんや。

あに根塵の自性を染むるあらんや、もとまっさらのおのれなんです、五十年不染那もあながち驚くにあたらぬ、いつこの事を初めようが、急転直下落着するのは、生まれ本来に、いえ父母未生前に返るからです、心身脱落という、染那するところを払う、染那=自分という身心ですか、いいえ染那などとっつくところなかったんです、いずれのところにか塵芥を惹かん、時時に務めて払拭をこれ、語黙離微に渉ると、なんせ饒舌です、ふだんからてめえうるさったいんでしょう、だからどうの故にといっては、答えが出ない、もと答えのど真ん中です、他に云うことない、いえ云おうと思ったら、聾唖者が手足ふりもがくほどの、却って四苦八苦あります、実際を言葉にする、たいへんなこってす、ゆえに仏を作家というんです、小説物書きの類は、あっちのものをこっちに並べ替えるきりです、そうではない無から有を生ずるんですか、どかん爆弾ですか、有は無にならんですか、あっはっはまあやって下さい。
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by tozanji | 2005-09-21 00:00 | 伝光録

第八章

第八章

第八祖、仏陀難提尊者、七祖婆須密多尊者に値ひて日く、今来たりて師と議論せん。尊者日く、仁者論ぜば即ち義ならず、義は即ち論ならず。若し論義せんと擬せば、終に義の論に非ず。師、尊者の義勝れたるを知りて、無生の理を悟る。


師は姓瞿曇氏、頂上に肉髻あり、弁捷無礙なりとあります、師宝座前に於て自ら謂えらく、我を仏陀難提と名ずく、今師と議論せんと、頭のてっぺんが髻=もとどりのように盛り上がっている、かつて論義に負けたことがなかったんでしょう、すると一体にこれを尽くすんです、勝つか負けるかではない、この他にはないという、はたして本当か、あるいは論の義とは、端的にものみなを指すのか、自分という他なしの形か、我我無きが故に、我我所無きが故に、すなわち心不生滅の故に、ものみなと、第五祖出家の弁の如くですか、事を尽くすとは、世間事に通暁するんではなかったら、一つことに帰るんです、でなくば論に倒れる、つまり負けるんです、おそらくこれ論の空しいこと、不必要を知る周辺にあったんです、いえいつだって急転直下、そうして通身もってぶっつけた、答えを出そうではないか、今来たりて師と論義せん。尊者日く、仁者論ぜば即ち義ならず、仁者、真正面ですよ、正直に嘘云わないってこってす、義は即ち論にあらず、どうですかと聞くんです、おまえさんの内外、いえおまえさんは論に拠らず、義などいうものがあるわけはないんです。若し論義せんと擬せば、終いに義の論に非ず、どうですかと、再度聞くんです、損なうだけであろうが。すなわちここに於て無生を悟る。
善吉維摩談じて未だ到らず、目連鷲子見て盲の如し、若し人親しく這の意を会せんと欲せば、塩味何れの時か適当ならざらん。

善吉須菩提、解空第一と云われる釈尊十大弟子の一人、維摩居士、二人談じて未だいたらず、鷲子舎利弗、知慧第一と云われる同じく十大弟子のうち、目連は目健連神通第一と云われる、見て盲の如し、見れども見えずですか、どうもお釈迦さんの十大弟子もこりゃ形無しですか、でも老師会下には悟った人悟らぬ人、大小いたですが、説法するに当たっては、なんといっても老師だけということあったです、義の論という論の義というを出ない、「老師は違うもんなあ、行き合っただけでがっさり落ちる。」という感想があった、相手そっくりを転ずるんです、おまえの云うことは間違ってる、だからどうのの問題ではない、若し人親しくこの意を会せんと欲せば、そうですよ、一枚も二枚も捨ててかからにゃならんです、昨日の我は今日の我にはあらずと、これただの人の日送り、日々是好日ですか、塩味何れの時か適当ならざらん、はいこれそのまんまぶっつけます。
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by tozanji | 2005-09-20 00:00 | 伝光録

第七章

第七章

第七祖、婆須密多尊者、酒器を弥遮迦尊者の前に置き、礼を作して立つ、尊者、問いて日く、是れ我が器となさんか、是れ汝が器となさんか。師思惟す。尊者日く、是れを我が器となさば、汝の本有の性なり、若し復た汝が器ならば、我が法、汝当さに受くべし。師聞きて大いに無生の本性を悟る。


師、姓は頬羅堕、常に浄衣を服す、手に酒器を持って遊行し、吟じうそぶき歩く。人は狂人と云う。弥遮迦尊者、遊化するに、城の辺に金色の祥雲起こる、これ道人の気なり、必ず大士ありて我が法嗣たらんと、云いおわらざるに、師来たりて問う、我が手中の物を知るや否や。尊者日く、是れ触器(不浄の器、触汚)にして浄者に背く。師すなわち酒器を尊者の前に置く。乃至大いに無生の本性を悟る。
酒器をもってうそぶき歩く、世を捨て遊行して歩くんですか、いいえ世のことあらゆる一切が、酒器の中に失せる、そういった塩梅です、はらだというのはばらもんの名だそうです。額に汗して稼ぐというのじゃなかったんでしょうが、共産党の忌み嫌う、西行や人に狂と呼ばれる、こういう人なつかしいです、どうにもこうにも本来本法性、自分という周辺に徘徊する以外なかったんです、ただこれの処置を知らなかった。まさに弥遮迦尊者に出会う、我が手中のものを知るや否や。満腔の思いを籠めるんでしょう、不浄のものは浄衣に似合わんぞという、これ尊者の掌中にあり、はたして酒器をその前に置く、尊者問う、これはおまえの器か、わしの器かと。さあどうであろうか、俗人のやりとりに似て、果然器が虚空に浮く、人の所有でもなく、ために他一切世界が消える。これをわしのものといえば、おまえの本来これ、もしまたおまえのものといえば、わしの法はおまえにあり。師大悟す。

霜暁の鐘扣くに随いて響くが如く、斯の中元より空盞を要せず。

姓を表さずと、師は尊者の前に初めて名告る、我無量劫より、この国に生まるるに至るまで、姓は頬羅堕、名は婆須密と。尊者日く、世尊阿難に語りて日さく、吾が滅後三百年にして、一聖人あり、姓は頬羅堕、名は婆須密、しかも禅祖に於て第七を得べしと。師日く、我れ往劫を思うに、かつて旦那となりて如来に一の宝座を献ず、彼記して日く、賢劫釈迦牟尼仏の法中に於て、位を継ぐべしと。霜暁の鐘扣くにしたがい響くが如くという、打てば響く、空じきった人の本来です、渾身口に似て虚空にかかる、東西南北の風をいとわず、おれは見性した、公案百発などいう、あるいは学者解説の類、こういえばああいうが、さっぱり打てば響くじゃない、どっか変なさかずき隠していて、ぼわんどこんとやるわけです、たとい2チャンだろうが一目瞭然これ。今婆須密多尊者、かくの如くの因縁ありて、打てば響くと、すなわち第七祖に列す、ではかくの如くの因縁という、空盞を忘れ去るに及くはなく、そのたった一つ持し来たった酒器を、尊者の前に置き、またそれを受ける、すなわち用がすんだら、投げうつによし。盞はさかずき。
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by tozanji | 2005-09-19 00:00 | 伝光録

第六章

第六章

第六祖、弥遮迦尊者、五祖因みに示して日く、仏云はく、仙を修し小を学するは、縄の牽挽するに似たりと。汝自ら知るべし。若し小流を棄てて頓に大海に帰せば、当に無生を証すべし。師聞きて契悟す。


師は八千の仙人の長であった、一日衆を率いて提多迦尊者を礼して日く、我むかし師と同じく梵天に生まれ、我は阿私陀仙人に仙法を受け、師は十力の弟子となって、禅を修す。すでに六劫を経たりと。尊者日く、支離として劫を累ぬ、まことなるかな、虚ならず、汝今邪を捨てて正に帰して、仏乗に入るべし、むかし阿私陀仙人、我に記を授けて、六劫ののち同学に遇いて無漏果を証すべしと、尊者時に出家授具す、乃至大神通を示して、余の仙衆八千もまた出家す。尊者示して日く、仙を修し小を学するは、乃至師聞きて契悟す。人を説得するには大物を相手にしろとは、老師がよく云った、というのは大物は自分の至らぬことを知ると、尽くさぬもの、見習い中はまだなにかあると思っている、たいてい説いても無駄だ。仙を修するとは、インドの遠いむかしではない、今もって大小の仙術です、あやしげな思想分別、あるいは無知のわざもですが、科学哲学文学歴史という一切合財、仙であり小なんです、縄のひきまとうに似たり、尽くしてのち隙間風、支離として劫を累ぬ、まことなるかな、虚ならずと云ってくれる人が欲しいんです。無漏果が欲しい、もはやそれしかない、大安心です、頓に大海に帰する、でなけりゃ死んでも死に切れんです。無門関はいここにありますと示されて、乃至契悟す。

縱い連天秋水の潔き有るも、何ぞ春夜の月の朦朧たるに如かん、人家多くは是れ清白を要す、掃い去り掃い来たるとも心未だ空ならず。

仙を修し小を学するとは、人みな葦の髄から天井を覗くようなことするんでしょう、ついに得たり、みな人の得がてにすとふ、うずめ子ですか、そら楽しいたって、はたして辺りをへいげいしてもって、さてどうでしょう。たとい連天秋水の潔さあるも、歌の道に秀でさあて何を歌う、そっぽ向いた風景ですか、ノ-ベル賞博士の世界平和ですか、がきみたい妄想中のあんちょこ、そういうのいったんかなぐり捨てて、宇宙風呂ひと風呂どうですか、なんぞ春夜の月の朦朧たるにしかん、自分という箇の形骸うせて、ものみな成仏、平和を願うふりするんじゃなく、和という花に咲き開く。人家多くはこれ清白を要すと、しゃばのことみんなそうです、時時につとめて払拭せよ、でなくばという、人間失格だ、勤倹貯蓄、いえさ遊びほうけるんだって、計算ずくですか、死ぬまでそんなことやってて、老いさらばえて棺桶に入るんですか、妄想に吸い尽くされた、骨皮筋右衛門、心未だ空ならず、いたらずと知ったら潔く頓に無生の法です。
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by tozanji | 2005-09-18 00:00 | 伝光録

第五章

第五章

第五祖、提多迦尊者日く、出家は我我無きが故に、我我所無きが故に、即ち心不生滅の故に、即ち是れ常道なり。諸仏も亦常なり。心に形相無く、其の体も亦然なり。毬多日く、汝当に大悟して、自心に通達すべし。師乃ち大悟す。


生まれた時、父の夢に、日屋より出でて天地を照らし、一の大山あって諸宝厳飾す、山頂に泉が湧いて、滂だとして四方に流れる。初めて参ずるときに、これを云えば、毬多尊者日く、日屋より出るは、汝今入道の相なり、天地を照らすは智慧の超越なりと、師もと香象と名ずく、ここに提多迦、通真量と名をかえ、もって偈を説く、巍巍七宝山、常出知慧泉、回為真法味、能度諸有縁。尊者また偈をもって日く、我法伝於汝、当現大知慧、金日従屋出、照耀於大地。師礼拝してついに出家を求む。尊者問いて日く、汝出家を求む、身の出家か、心の出家かと。師日く、我来たりて出家を求む、身心の為に非ず。尊者日く、身心の為にせず、復た誰か出家する。師日く、出家は我我無きが故に、ないし大悟す。
これはまったくすばらしいともなんとも云いようがないです。父の瑞兆あればまさに夢を信じ全うする、すでにこれ、仏説として過ちなく手に入っています、摩訶般若波羅蜜多心経と、毎日読みながら一言半句も、解しえぬとは、そっちのほうが珍現象ですが、我我無きが故にとは、ががと続けて読むんではなしに、するととらわれのある自我というような、曖昧解釈になってしまうです、自分というものがないんです、あなたはだれと聞かれて知らないと答える、仏教学者どものまったく知らぬこってす、自分という架空請求、砂上楼閣です。我我所無うして、応無所住而生其心の六祖禅師ですか、自分の所有のものがないんじゃない、わが所がないんです、するとまさに心経の説くように無です、不生不滅不垢不浄不増不減です、三世諸仏、無上正等菩提です、かってな解釈してお布施を稼ぐことなければ、心経まさに他になし。きくた尊者日く、まさに大悟して自心に通達すべし、ではそのとおりやってごらんと云う、師すなわち大悟す。仏教がわかったという、それだけじゃなんにもならんと知る、一00人が一00人こうであれば、世の中まことにすっきりします。

髄を得て須らく得処の明を知るべし、輪扁猶を不伝の妙有り。

如何なるかこれ仏法の真髄というんでしょう、おまえの云うのは真髄ではなく、皮袋であろうと大趙州が云う、仏教について習う、つに真髄を問う、ここらあたりを提多迦尊者は、いっぺんに通り越しているんですか、飯袋子この糞袋めという、とやこう人の言説知識の受売り交通整理ですか、仏教という未消化うんこですか、まあさ一つすすめて、その皮袋一枚はぎゃどうなる、血いだら真っ赤のお肉ですか、そんな無粋なこと云わない、もとなんにもなしの虚空です、わずか皮一枚に、心あり身ありだったんですよ、内蔵もお肉も感知しない=人間です、アッハッハ髄を得て得処の妙を知るべしとはこれ。転法輪というをもって、車を造る名人輪扁などを引っ張り出す、我我無我我所無とは、転法輪そのものなんです、ちらとも軸だのわだちだの云うたら、ちらともわけあり、てめえありじゃそりゃ転法輪にならんです、ために猶を不伝の妙あり、こうだからこうあるというんじゃ、大悟できんよ、魚変じて龍と化す妙、すなわち自分でやるっきゃないです。
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by tozanji | 2005-09-17 00:00 | 伝光録

第四章

第四章

第四祖、優婆毬多尊者、和修尊者に執事すること三載、遂に為に落髪して比丘と作る。尊者因みに問ひて日く、汝身の出家なるや、心の出家なるや。師日く、実に是れ身の出家なり。尊者日く、諸仏の妙法豈身心に拘はらんや。師乃ち大悟す。


師は優婆崛多と名ずく、姓は首陀、バラモン、クシャトリア、バイシャ、ス-トラの四姓のうち雑役農耕なとの第四位、十五歳にして和修尊者に参ず、十七歳出家二十二歳にして証果とある。行化して到るに、得度の者はなはだ多し、証果の人を得るごとに、籌を石室に投げ、10mx7mほどの室にいっぱいになった、あたかも如来在世の如しと。世を挙げて無相好仏と呼ぶ。波旬、悪魔ですか、憤りを感じて、魔力を尽して正法を害せんとす、尊者三昧に入ってその所由を観ず。波旬は尊者のうなじに瓔珞、首飾りをかけた。尊者彼を伏せんと思い、人狗蛇の三屍を取りて、華鬘、花輪となして、珍なる瓔珞をもらった、お返しに華鬘を上げようといって、波旬の首にかけた。たちまち変じて三種の臭屍となる。腐れ蛆たかるんです、魔力神力を尽しても、どうしても外れぬ。泣きわめいて、六欲天に上り、梵天に参ってその解脱と求む。皆告げて云く、十力の弟子の為す所は、十力の弟子に頼る他なしと。十力とは如来十号という如く、波旬尊者の足を礼して哀露懺悔す、仏に帰依するをもって解脱すと。
どうですかこれ、あなた方も波旬と同じことをしてないですか、美しいすばらしい、愛だの平和だのインツ-イッションだのいう花環を首にかけて、仏に示される、すなわち気がつくと、そいつが三種の臭屍です、腐れうんちの蛆たかれ腐乱死体、わかりますかこれ、たといわかったろうが外れない、七転八倒するんです、ついに至心帰依をもって、解脱するんです。
波旬とはなにか、まずもってこれを省みて下さい。

家破れ人亡じて内外に非ず、身心何れの処にか形を隠し来たる。

拈提より、いわゆる身出家すといふは、恩愛を棄て家郷を離れて、髪を剃り衣を染め、奴卑を蓄へず、比丘となり比丘尼となり、十二時中弁道し来る。故に時として虚しく過ぐることなふして、外か所願なし。故に生をも喜ばず、死をもおそれず、心は秋月の皓潔たるが如く、眼は明鏡の翳なきが如し。心を求めず、性を望まず、聖諦なほ作さず、況んや世執をや。是くの如くし来りて、凡夫地にも住まらず、賢聖位にも拘はらず、転た無心道人たり。是れすなはち身出家人なり。
いわゆる心出家すとは、髪を剃らず衣を染めず、設ひ在家に住み、塵労に在りと雖も、蓮の泥に染まず、玉の塵を受けざるが如し。設ひ因縁ありて、妻子ありとも、芥の如く塵の如く覚して、一念も愛心なく、一切貪著することなく、月の空裡に掛かるが如く、玉の盤上に走るに似て、饒市中にして閑者を見、三界の中にして劫外を明きらめ、煩悩を断除するも病なりと知り、真如に趣向するも邪なりと明きらむ。ねはん生死是れ空華なり、菩提煩悩ともに管せず、是れすなはち心出家人なり。
このこと今もまったく変わりはないです。
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by tozanji | 2005-09-16 00:00 | 伝光録