第三十章

第三十章

第三十祖鑑智大師二十九祖に参ず、問いて日く、弟子の身風恙に纏わる、請うらくは和尚罪を懺せよ。祖日く、罪を将ち来れ、汝の為に懺ぜん。師良久して日く、罪を覓むるに不可得なり。祖日く、我れ汝が与めに罪を懺じ竟る、宜しく仏法僧に住すべし。


師は何れの人というを知らず、初め白衣を着て二祖に謁す。歳四十余なり、名字を云はず、礼して問いて日く、弟子が身風恙、癩病に纏わる、乃至宜しく仏法僧に依りて住すべし。師日く、今和尚を見て已に是れ僧なることを知る、未審し何をか仏法と名く。祖日く、是心是仏、是心是法、法仏無二なり。僧法もまた然り。師日く、今日始めて知りぬ。罪性は内に在らず、外に在らず、中間にも在らず、其心の如きも然り。仏法も無二なり。祖深く之を器とす、為に剃髪して日く、是れわが宝なり、宜しく僧さん(王に粲)と名くべし云々。三祖大師信心銘等今に残る、罪を求めるに不可得、我れ汝が為に懺じ得たりという、心身の救いこれ以外にないこと、今の世もまったく同じ、よくよく見てとって下さい、迷いから迷いへの諸宗付け焼き刃、殺し文句じゃないんです、無心という、心の無いことを知る、無いものは痛まない、傷つかないんです、無心とは是心是仏です、是心是法です、法仏無二、かくの如くです、僧法また同じく、まったくに他なしです。我れ今初めて知れりと、どうかこれ万人が万人、初めて知って下さい、罪性は内に在らず、外に在らず、中間にも在らず、心もしかなり、仏法無二なり。豁然大悟です、他なしに開ける。ようやく病癒ゆると。周の武帝仏法を廃する時にあたり、あらかじめこれを知って、法難を避ける、これ達磨般若多羅の記すに拠ると、のち大いに興る、鑑智はおくりなである。

性空内外無く罪福蹤を留めず、心仏本是くの如く法僧自ずから暁聡なり。

禍福はあざなえる縄の如しという、これ俗説ですよ、たといあざなえる縄の如くも跡なしです、それゆえたとい大悟十八辺小悟その数を知らずも、まったく跡なし、みずとりの行くも帰るも跡絶えてされども法は忘れざりけれ、では法とは何か、跡なしです。心というたとい顧みるものこれ、では見えない道理、よくよくこれを知って下さい、参じ尽くし参じ去ってのちに、自ずから明らか
です、取り付く島もないとき、ようやく使いえて妙です、信心銘、これを用いるによし、心銘またよしと云ったって、はてな一言半句思い出せないで弱った、わしはもうろくじっさ。

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# by tozanji | 2005-12-25 00:00 | 伝光録

第二十九章

第二十九章

第二十九祖、大祖大師、二十八祖に参持す。一日祖に告げて日く、我れ既に諸縁を息む。祖日く、断滅と成り去ること莫しや否や。師日く、断滅と成らず。祖日く、何を以て験と為す。師日く、了了として常に知る、故に云うことも及ぶべからず。祖日、此れは是れ諸仏所証の心体、更に疑うこと勿れ。


師姓は姫氏、父は寂、未だ子なく、常に思う、わが家善をなす、あに子なからしめんやと、一夕異光あり、室を照らす、その母よって孕む。照室の瑞をもって光と名づく。幼より志群を抜き、書を読み家産を事とせず。山水に遊び、嘆じて日く、孔老の教えは礼術の風紀なり、莊易の書は未だ妙理を尽くさず。龍門香山の宝静禅師について出家す。あまねく大小乗の義を学す。一日仏書般若を見て、超然として自得す。昼夜坐して八載を経しに、神人告げて日く、大道遙かなるに非ず、汝それ南せよと。神光と改名す、その頂骨五峰の秀出するが如く、したがい嵩山小林寺に到り、達磨大師に見ゆ。大通二年十二月九日、大師入室を許さず。その夜大いに雪降る。雪中に明けるを待つ。積雪腰を埋め、寒気骨に徹る。乃至、自ら利刀をとりて左臂を断ず。大師是れ法器なりと知って日く、諸仏道を求む、法の為に形を忘る、汝臂を断つ、求むること亦可なること在り。師ために名をかえて慧可と日う。ついに入室を許す、左右に給仕して八載、有る時師、大師に問うて日く、諸仏の法印得て聞くべしや。大師日く、諸仏の法印は人より得るにあらず。ある時示して日く、外諸縁を息め、内心喘ぐことなく、心墻壁の如くにして以て道に入るべし。大師ただその非を遮り、ために無念の心体を説かず。ある時大師に侍して、小室峰(嵩山の西峰)に登る、大師問う、道何の方に向かい去る。師日く、請ふ、直に進前せば是なり。大師日く、若し直きに進まば一歩を移すことを得ず。師聞きて契悟す。ある時大師に告げて日く、我れ既に諸縁を息む、乃至、さらに疑うことなし。
われ既に諸縁を息むという、左臂を切って出家沙門のこれ、ついに円成するんです、諸縁を放捨し、飲食節有りと、普勧坐禅儀にあるように、一歩禅堂に入れば、世の中の暮らしというんですか、あれこれ全般を離れて、わずかに身心を養う、本来を得る、もとのありように立ち返るこれです、それができたというんです、坐って真似事ではない、本来事これ。大師日く、断滅と成り去ること莫しや否や、思想考え方として、ちらとも残りあればこれです、無明無しあって無明の尽くる無しを知らないんです、そうですよ世の中諸縁のまっただ中なんです、しかも諸縁を息む、面白いんでしょうこれ、まさにこれを知らざれば、仏法なし、仏法としてちらよもあれば、諸縁対仏法です、すなわちこの事を得て下さい。大師日く、では何を以て験すと、諸縁有象無象と同じかと問う、銀椀に雪を盛り、明月に鷺を蔵す、混ずる時んば所を知ると、師日く、了了として常に知る、故に言うことも及ぶべからず。大師日く、これはこれ諸仏の心体、さらに疑うことなかれと。

空朗朗地縁思尽き、了了惺惺として常に廓明たり。

大祖神光慧可大師が、このように廓明了了、空朗諸縁尽きはてて、法を継ぎよってもって今に到る、師法を僧さん(王に粲)に付してのち、都辺に於て随喜説法す、四衆帰依すと、三十年におよび、あるいは諸の酒肆に入り、屠門を過ぎり、街談を習い、厮役にしたがうとある、酒屋へ入ったり、肉を食らったり、にぎやかな街をうろつき、雑多な人々といっしょになる、坊主はお経師家は説法など、らしくの形姿を破りすてて、むきだしに市井を歩く、どうですか他仏如来としてないんですよ、ついに法師和尚の類に、謗りを受けて獄中に死す、あっぱれ天下泰平です、いいですか、ほんとうにこれを得て下さい、お悟り虫では、そりゃなんにもならんです。

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# by tozanji | 2005-12-24 00:00 | 伝光録

第二十八章

第二十八章

第二十八祖、菩提達磨尊者、因みに二十七祖、般若多羅尊者問う、諸物の中において、何物か無相なる。師日く、不起無相なり。祖日く、諸物の中において、何物か最大なる。師日く、法性最大なり。


師は刹利種、クシャトリアなり、もとは菩提多羅と名づく。南インド香至王の第三子なり、王仏法を尊重して並びなき、あるとき無価値の宝珠をもって般若多羅に施す。王に三子あり、一は月浄多羅、二は功徳多羅、三は菩提多羅、尊者、施すところの宝珠を以て三王子に示して日く、よくこの宝珠に及ぶもの有りや否や。第一第二日く、この珠は七宝の中の尊なり、まことに超ゆるものなし。尊者の道力に非ずんば、よくこれを受けん。第三王子日く、これはこれ世宝なり、未だ上とするに足らず。諸宝の中においては法宝を上とす、これはこれ世光なり、未だ上とするには足らず。諸光の中においては智光を上なりとす、これはこれ世明なり、未だ上とするに足らず。諸明の中に於ては心明を上なりとす。この珠の光明は自ずから照らすこと能はず、必ず智光を借りてこれを光弁す。すでにこれを弁じ終われば、即ちこれ珠なる事を知る。必ず智珠を仮りて世珠を弁ずればなり。宝自ら宝に非ざることは、必ず智宝を仮りて法宝を明きらむればなり。師の道智宝なるが故に今世宝を感ず。しかれば即ち師に道あればその宝を現じ、衆生に道あればその宝を現ず。衆生に道あれば心宝また然かなり。祖その弁舌を聞きて、聖なることを知る、即ち問いて日く、諸仏の中において何物か無相なる。師日く、不起無相なる。祖日く、諸物の中において何物か最も高き。師日く、人我最も高し。祖日く、諸物の中において何物か最も大なる。師日く、法性最大なり。かくの如く問答して、師資心通ずと雖も、機の純熟するを待つ。父王崩御す、衆みな号絶するに、菩提多羅独り柩の前にして入定、七日をへて出ず。乃ち般若多羅の処に往いて出家す。後に師般若多羅の室にして七日坐禅す、般若多羅広く坐禅の妙理を指説す。師聞きて無上智を発す。般若多羅示して日く、汝諸法に於てすでに通量を得たり、それ達磨は通大の義なり、よろしく達磨と名付くべし。六十余載、震旦の縁熟するをもって、一葦に身を浮かべてという、梁の大通元年九月二十一日、よって最初梁の武帝に相見す。
梁の武帝、達磨太子に問ふ、如何なるか是れ聖諦第一義、磨日く、廓禅無聖。帝日く、朕に対する者は誰そ。磨日く、不識。帝契はず。終に江を渡って、小林に至り面壁九年。
梁の武帝という、実在の人物です、一代にして国を興し次代にはもう滅んだという、その因の多くは仏教に入れ揚げたせいだと、そりゃ発明の人だったんでしょう、でも仏宝僧を供養し、塔を建て、自らも放光般若経を講義し、終には天花乱墜し、地黄金に変ずるを見たという、これこそ仏教のエッセンス、如何なるか聖諦第一義と問う、答えは解かっている、頭なでてくれという、これ一般の問いです、どういうものか、知らないからというより、知っているから答えろという、これに対して、磨云く、廓然無聖、からんとしてなんにもないよと云う、すばらしいもの、これぞというものなんかないんです、金ぴか聖人いらない、個々別々だというんでしょう、帝呆然です、なんだと、そんじゃ仏心太子という、観音大師という、鳴りもの入りでやって来た、おまえは何物だ、朕に対する者は誰そと聞く、磨云く、不識。知らないというんです。達磨の不識というこれ、いいですか、花にあなたはだあれと聞く、知らないと答えるんでしょう、その他の答えはないんです。私は菊で管巻という種類で、なんのたれ兵衛が植えて、肥やしはどうで日照時間はどうで、弥彦の品評会で三位を取った、上を見れば切りもし、下を見れば切りもなし、まあこのへんでなど云い出したら、それっきり花なんぞ見る気もしなくなります。
知っている分みな嘘、見れども飽きぬ花です、人間だけが見るもいやな面付き、嘘ばっかりに枯渇しています、これはどういうこと、お釈迦さまが二千数百年前に気がついたことこれ、毛なし猿が、進化のいびつから発して、ついにその脳味噌を卒業しえずという、主客転倒事、客である観念知識にしてやられっぱなしです、これをどうにかせんけりゃ、人類も地球の未来もないんです。
仏教とはまさにこれ、花のように知らない人になって下さい、廓然無聖個々別々と地球のお仲間入りをして下さい、人間に似せたあっちの神さまこっちの独善じゃないんです、大人になって下さい、水や空の雲と一如にある、父母未生以前です、元の木阿弥という、帰家穏坐ですよ、ことはまるっきり単純です。
人間という砂上楼閣、自分という架空請求を断じて下さいという、たったそれだけ。
よこしまを去って、あるがまんまに帰る。
ぱ-らみ-た-彼岸に渡るお示しです。

更に方所無く辺表無し、豈秋毫よりも大なる者有りらんや

はい手付かずの工夫です。

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# by tozanji | 2005-12-23 00:00 | 伝光録

第二十七章

第二十七章

第二十七祖、般若多羅尊者、因みに二十六祖日く、汝往事を憶うや否や。師日く、我れ遠劫中を念ずるに、師と同居す。師は摩訶般若を演べ、我れは甚深修多羅を転ず。今日の事、蓋し昔因に契えり。


師は東インドの人なり。時に不如密多、東インドに至る、かの王を堅固という、外道を奉じ、長爪梵志を師とす。尊者至らんとして、王と梵志と同じく白気の上下貫くを見る。王日く、これ何の瑞ぞや。梵志予じめ尊者の境に入るを見て、王の善に遷らんことを恐れ、すなわち日く、これは是れ魔来たると。不如密多まさに都城に入らんとす、弟子とも鳩首して日く、我れら各呪術あり、天地をも動かし水火にも入るべし、何を患えんやと。尊者宮墻に黒気あるを見て、すなわち日く、小難のみ、王処に至る。王日く、師来たりて何をか為さんとす。尊者日く、衆生を度さんとす。日く、何の法をもって度せん。尊者日く、各その類をもって度せん。梵志怒りに耐えず、幻法をもって大山を尊者の頂上に化す。尊者これを指さす、たちまち彼の衆の頭上に在り。梵志ら恐れおののいて尊者に投ず、尊者愚或を哀れんでこれを指さす、化山したがい滅す。すなわち王の為に法要を説いて、真乗に趣かしむ。また王に云う、この国まさに聖人ありて、我れに継ぐべし。時に婆羅門あり、幼時に父母を失いて名氏を知らず、あるいは自ら瓔珞という。人呼んで瓔珞童子という、市井に遊行し乞食して日を渡る。人、汝行くこと何ぞ急なると問えば、汝行くこと何ぞ慢なると答え、何の姓ぞと問えば、汝と同姓という。王尊者と同車して行く、瓔珞童子稽首す。尊者日く、汝往事を憶ふや否や。乃至けだし昔因に契へり。尊者王に云いて日く、この童子は他に非ず、大勢至菩薩これなり、この聖の後に二人を出さん、一は南インドを度し、一は震旦、中国に縁ありと。ついに昔因をもっての故に、般若多羅と名づく。
各その類をもって度せんという、これ仏教の常套手段というより、仏教として別に何かあるもんじゃないんです、仏教=ダイアロ-グと云っていい、こうあるべきどうせにゃならんの問題じゃない、しゃくを以てしゃく(金に昔)に就くという、相手の愚或の、行き届かぬところを示す、大山をもってすれば、それを彼におっかぶせりゃいい、その衆に乗せりゃもっと効果的でしょう、戦争は悪い平和はいいという、はいそのとおりですよという、現実はどうなります、戦争は悪い平和がいいが、大山になってのしかかって、ちっとやそっとじゃ動きが取れん日本でしょう、愚或を指さして、したがい消滅です、ほかそんなことばっかりというのは、世間世迷いごとです、自分という架空請求の上に成り立っている、いえそうと思い込むんです、父母幼にして失われ、名も知らぬ、かえって自分という立脚点を免れる、家なく遊行の自在ですか、ですが尊者、往事を思うや否やと問う、来し方行く末として問うんでしょう、もしちらともあればこれ業障です、むかしのことなんて思わないよという、如来まさに追憶なしです、ところがそやつを通り越して、師と同居す、同安居ですか、今の下士官修行新兵さんはつらいよねの、僧堂安居、同じ釜の飯食ってじゃない、そりゃ追憶倒れ、そうじゃない、師は魔訶般若を説き、我れは甚深修多羅を転ずと、ただこうしてこのとおりあるんです、山水長口舌と敢えていう、たった一つことです、塵未来済こうしているというんです、ゆたらス-トラ、学者が論じ坊主ぜにもうけとは無関係です。

潭底の蟾光空裏に明きらかに、連天の水勢徹昭して清し。再三撈漉して縱ひ有ることを知るも、寛廓旁分虚白にして成る。

潭は深い水蟾は龍です、この一連瓔珞童子がまさに答える、師と同居す以下です、情識妄想の取り付く島もない、もとのありよう七通発達です、撈漉は水中に入ってものを取ること、学者徒労は猿の月影を追うという、水に映った月を取ろうとして再三するわけです、たとい本来の月、あるいは両箇たるを知るも、これを用いる、廓然無聖です、がらりこうあって個々別々、旁分は事物を明きらかにする、科学の追求真理という、一神教成れの果てとは違うんです、虚白自分というものなくしてものみな、ぱ-らみ-た-摩訶般若波羅蜜多彼岸にわたる=知慧なんです、仏知慧として別にあると思っている間は、そりゃ届かんです。

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# by tozanji | 2005-12-22 00:00 | 伝光録

第二十六章

第二十六章

第二十六祖、不如蜜多尊者、太子たりし時、二十五祖問いて日く、汝出家せんと欲す、当に何事をか為す。師日く、我れ若し出家せば別事を為さず。祖日く、何事をか為さず。師日く、俗事を為さず。祖日く、当に何事をか為す。師日く、当に仏事を為す。祖日く、太子の智慧天至なり、必ずや諸聖の降迹ならん。祖即ち出家を許す。


師は南インド得勝王の太子なり、王祖に問いて日く、師が伝ふる所の者、まさに是れ何の宗なるや。祖日く、我が伝うるもの即ち是れ仏の宗なり。王日く、仏滅してすでに二千百載なり、師は誰より得たるや。祖日く、摩訶迦葉親しく仏印を受け、展転して二十四祖師子尊者に至る。我れ彼より得たり。王日く、余聞く、師子比丘は刑戮を免れること能はずと、何ぞよく法を後人に伝えん。祖日く、我が師難未だ起こらざる時、密かに我れに信衣法偈を授けて、もって師承を顯はす。王日く、その衣何くにか在る。祖即ち嚢中より衣を出して王に示す。王命じて之を焚かしむ。五色相鮮やかにして、薪尽きてももとの如し。王即ち追悔して礼を致す。師子の真嗣なる、太子ついに出家を求む。祖日く、汝出家せんと欲す。まさに何事をか為すべき、乃至祖出家を許す。燃しても燃えない、石の辺から取ろうにも取れない、そんな便利明確な信衣があればいいですか、信衣という、形として印すことあったとて、嗣法しなけりゃ意味がない、仏仏に単伝する、永遠不変です、これを受けるかと云われて、受け得るものは受けるんです、紙ぺらの嗣法など、たとい千拝遙拝も血脈だろうが、一文の価値もないです、そんな阿呆なこと、長年やって来てとうとうぼろくずです、宗門というなんの取り柄もないです、かったるいっきりだ。たとい燃しても燃えず、五相鮮明、宗門坊主ども右往左往も、歴然として、大法は受け継がれております、たとい人類滅亡しようが、仏の道は続くんです。このころインドでは、ようやく外道に乗っ取られようとする、法難相次ぐんでしょう、いずれ身から出た錆で、仏教という徒党を組み、利権争い、いえさ世俗の垢がたまるんです、それに一般が反発する、うんざりするんです、明治の廃仏棄釈もそうですか、今の仏教離れは、坊主自身による、これどうしようもないです。もっとも仏教の、噛み難く嚼し難いことは、じきに信ずれば救われる底の、安易さ人はこうあるべきの猿真似に取って代わります、結果毒にも薬にもならんですか、百害あって一利なしですか。何事かなす、俗事をなさずという、俗と仏と如何と問うまえに、これが貴重品を尊重するんですか、まさに仏事をなすと、その智慧天の至るなり、必ずや諸聖の降迹なりと、はいそのようにこの事顯現して下さい、一騎当千も日常茶飯事ですよ、無心なればはいかくの如し。

本地平常寸草無し、宗風何れの処にか按排を作さん。

大学院をやめて出家した弟子が、いいことをしたいというかぎりは、仏教にならんというのを、どうしてもいいことをしたい、仏教を学んで世のため人のため、いいえ行ない清まして、この我が身心をという、生きたいという、いえ立派に生きたいという、もしくはそれを取ったら、自分はどうしたらよいかわからないと云う、いいことしいに自分がない、行処がない、淋しいし不安だしという、そりゃちっとは坐った効果あったか、はい、いいことするんならどっか他へ行ってくれ、しゃばへ舞い戻るか、うちじゃそんなんいらんで、というと、他たって行く処がない、しゃばだろうが同じだという。ここにして経を説く、無心という無眼耳鼻舌身意という、自分がまったくないことを説く、そのお経を学びながら、生きたい、いっぱしになりたい学者が、仏教に至るはずはない、無所得故という、元の木阿弥なんにもないに帰る、ニイルバ-ナは、生きようじゃない捨てる、大死一番する外に方法がないこと。いいことしいという爪から先じゃない、ぜんたいだ、寸草じゃないこれが平地と。何れのところにか按配をなさん、いいか捨てなきゃ得られん、淋しいどうもならん、それが入り口。

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# by tozanji | 2005-12-21 00:00 | 伝光録

第二十五章

第二十五章

第二十五祖、婆舎斯多尊者、二十四祖示して日く、如来の正法眼蔵、今汝に転付す、汝応に保護して普く来際を潤すべし。師、宿因を顯発して、密かに心印を伝ふ。


師姓は婆羅門、父は寂行はは常安楽、母神剣を得ると夢見て孕む、師子尊者遊方のついで、一の長者あり、その子を引きて尊者に問う、子斯多と名づく、生まれるに当たって左手を拳る、終に未だのぶることあたわず、願わくは尊者、その宿因を示せと。尊者即ち、手をもって接して日く、我れに珠を還すべし。童子俄に手を開きて珠を奉る。衆みな驚愕す。尊者日く、我れ前報に僧となれり、童子あり、婆舎という、我れかつて西海の斎に赴いて、珠を受けて之に付す。今我れに返す理まことに然り。長者終にこの子を出家せしむ、即ちために授具して、前縁をもって婆舎斯多と名づく。ついに嗣続して日く、如来の正法眼蔵、今汝に授く、よろしくおく保護すべしと。
人みなかくの如しと、われもまたかくの如しと、どこかに手を握りしめていませんか、尊者来たりて、珠を返しなさいという、すなわち手を開いて奉ずる。どうですか、如来の正法眼蔵このようにして、伝わり、ついに嗣続して、汝今これを得たり、よろしくよく保護すべし、銀椀に雪を盛り、明月に鷺を蔵す、類して等しからず、混ずる時んば所を知ると。先師が云っていたな、小僧修行の仲間が、まったく悟ったように宝鏡三昧を読むと、ほんとうにそういうことあります、赤ん坊が字を読み経を誦すことを知ったら、きっとかくあるべしと。しかれども毫釐も差あれば、天地はるかに隔たり、違順わずかに起これば粉然として心を失すと、これ人の一生しゃば世界です、すなわちわずかにこういうことあって、もとは元の木阿弥、如来の正法眼蔵そのものなんです、さあどうですか、その手に握った珠を返すことあって、無心に帰依して下さい、夢から覚めるんですよ、はっと気が付くんです、もとそうであったこと。

開華落葉直ちに顯はるる時、薬樹王終に別味無し。

だからこのせっかくの大事無味乾燥なんです、無心というもとあるを知らないんです、でもって摩尼宝珠如来蔵裏親しく収鑑すといっても、目に見える玉じゃないです、有心のものには取り付く島もないです、世界には幾多の宗教があり、大小無数ですか、同じ羽根の鳥を寄せ集めて、勢力をほこり戦争の道具ですか、これ人類という欠陥そのものです、人類以外そんな余計こと、阿呆するものいない、みんな平和に暮らしています、無心の故にです、あなたはだあれ、知らないと答える、花も雲も水も、そうです達磨さんもです、やれキリスト教天理教だのブ-ズ-教だの、そりゃ理論としても間違いですし、荒唐無稽なることは、虫けら一匹救えないんです、こんなものがまかり通ること、まずもって反省すべきです、薬樹王ついに別味なし、色じゃないよ、色を入れる器だおというほどに、そりゃ過ちは糾すこと、色をもって色を制すんじゃない、殺し文句の是非善悪じゃないんです、これを知る、まったく別味なし=人間以外みな生活。
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# by tozanji | 2005-12-20 00:00 | 伝光録

第二十四章

第二十四章

第二十四祖、師子尊者二十三祖に問いて日く、我れ道を求めんと欲す、当に何の用心かあるべきや。祖日く、汝若し道を求めば、用心する所無からん。師日く、既に用心無し、誰か仏事を作さん。祖日く、汝若し用うること有らば、即ち功徳に非ず、汝若し作すこと無くんば、即ち是れ仏事なり。経に日く、我が作す所の功徳、而かも我所無きが故にと。師是の言を聞き已りて、即ち仏慧に入る。


師、姓は婆羅門、もと異道を学して博達強記なり、後に二十三祖に参じて、今の問答あり、直に無所用心によって、頓に仏慧に入る。二十三祖日く、我が滅後五十年、まさに難の起こることあり、汝が身の上にあらん、しかりと雖ど、汝我が法宝を伝持して、未来際を化すべしと。師行化のついで、婆舎斯多を接して、難あり我が身に起こらん、おやしくも免るべからず、汝我が道を持すべしといって、衣法ともに授く。国王あり、仏に帰依す。外道乱を起こして、罪を仏子に帰す。国王、伽藍を破棄し、僧を追い、剣をとって師子尊者に至る。問いて日く、師蘊空を得るや否や。師日く、已に得たり。王日く、生死を離れるや否や。師日く、已に生死を離。王日く、已に生死を離るれば、我れに頭を施すべし。師日く、身は我が有に非ず、何ぞ頭を惜しまん。即ち刃を揮いて師の頭を断る。法難という、ようやくインドの仏教は衰退するんですか、仏教の不備ではないです、一般多数の趣むく所です、流行り廃りですか。以後のヒンズ-教が、仏教のデカタンス、インドの聖者というオペラ歌手のような、他に示すための人格です、無心を説きながら有心です、完成を云い現世利益です、そうではない、捨身施虎です、たとい怒り心頭の国王だろうが、その身くれてやる、ために別に立派な人格も、オペラ歌手もいらんです、これ参学の秘訣、坐然のありようです。我れ道を求めんと欲す、なんの用心かあるべき、どうしたらいいか、心の用いようを聞く、これに対して、若し道を求めば、用心する所無からん。心を用いるんではない、あるいは用心しっようとするそのもの。用心なしでは、だれか仏事をなさん。さあこれが普通の人の問いです、有心の問いなんです、学者説教師という、まさにこれを出るなし、そりゃどうしようもないです、オペラ歌手するしかない、汝若し用うること有れば、即ち功徳にあらず。若し作すこと無くんば、即ち是れ仏事なり。はいこれが仏のありよう、捨身施虎です、百尺竿頭歩一歩です、経に日く、我がなす所の功徳、しかも我所無きが故に。

若し空を顕はさんと欲せば須らく覆ふこと莫るべし、沖虚浄泊本来明らかなり。

密教だの秘伝だのいうことなし、一器の水が一滴漏らさず一器になどいう、それは世間事です、免許皆伝という資格技術の問題ではない、先師室内もだが、明けっぴろげで、だれかれどうした、坐談におまえはどうとやる、人のことは我がことなんです、それを師家だのおれはだのいう輩は、必ず秘伝めかす、よくわからないのと、人に盗まれたら商売上がったりという、宗門の薄汚い我田引水、自閉症ですか、税金のかからないパイ、なるたけ他に食われぬよう、苦労の末の坊主だのと、ほんに出家希望者を扱う、宗門人のむごたらしいほどの扱いに、あっけにとられたことがあります、その弟子助けを求めて来たが、お寺さんになりたいって他なく、わしらには関わりなく。可哀想なこってす。仏教のぶの字もない宗門、もはやこれを出るより方法はないか。いえ宗門にあろうが、ホ-ムレスだろうが、沖虚浄泊隠れるところないんです、どこへ行って何云おうが、じきに賛成大賛成の集団になっちまう、うるさったいってわけでもないが、悪食ばさら、助平坊主やってます、本音だろうが、嘘八だろうが、そりゃまた同じこってすよ、そうねえ人間嘘は付けない。
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# by tozanji | 2005-12-19 00:00 | 伝光録

第二十三章

第二十三章

第二十三祖、鶴勒那尊者、因みに摩奴羅尊者示して日く、我れ無上の大法宝有り、汝当さに聴受して未来際を化すべし。師聞きて契悟す。


師月支国の人なり、姓は婆羅門、父は千勝母は金光、子なきをもって、仏金ん幢に祈る、須弥山上に一の神童あり、金環を持して我れ来たれりと云うと夢に見えて、孕む。七歳にして、民間の淫祀するを見て、廟に入り、汝妄りに禍福を起こし人を幻惑すと叱す、云いおわりて廟忽然として壊す。郷党これを聖子とす。二十二歳出家、三十にして摩奴羅尊者に遇う。鶴の類師に従う、よって梵漢引き合わせて鶴勒那という。師尊者に問いて日く、我れ何の縁ありてか鶴衆を感ず。尊者日く、汝かつて比丘となる、五百の衆あり、徳薄きをもって、汝生を受けるとき、羽族となりて従うと。師聞きて、何の方便をもってか、彼をして解脱せしめんと云う、尊者日く、我に無上の大法宝あり、乃至契悟す。金環を持して生まれるという、神童という頭がいいんでしょう、世の中頭脳明敏は多種あります、けれども無節操で、自分儲かるだけにこれを用いる、今の世とくに一般的です、でもよくみると、諸方面にそうでない人がいます、政治家にだって何人もいます、七歳にして淫祀を破壊するほどに、まっすぐというと伝説の域ですが、正義また人のためには、自らを顧みないほどの人がいます、しかもマスコミ一般大衆はかえってそれを信じない、福徳薄い羽族に生まれるしかあいですか、でもこれせっかく正法眼蔵ありながら、たとい不信であり、行なうにはそっぽ向く人ですか、中下は多聞なれども、多く信ぜずですか、たいていこれ自分にとって不幸です、よって他を不幸にする。サイレントマジョリティを信じてよい国と、そうでない国と、これはまったく重大問題です。ともあれ、現代であっても正法は行なわれ、たとい不信の人であっても、二、三すれば信じる、初めて信の大なることを知る、そうかというんです、ではやってみよう、今生あるかぎり、仏の道という、わしはそういう例を数多く見る、無上の幸せです、いいやわしみたいな者が、申し訳ないと思うほどに。
粉雪雲に挿しはさむ巨岳の雪、純清絶点青天に異れり。

鶴勒那大和尚を頌するに、まさにもってかくの如くですが、自然の風景にこれあれば、人間の風景にもまさにあるべきです、もしこういう人に遭遇すれば、ああだこうだとやこうにこと雲散霧消です、これというこの事を知らず、この人というその心を知らず、一生をニヒルの狸右往左往の犬にて暮らす、なんというみっともない、傍迷惑、そりゃ次の世とうてい人間には生まれんですか、だっても今の世、姿形人間に似ているだけの、蚤の睾丸ほどの赤い血もなく、知らずにする情けないたら残酷無惨です、はい、ただちにこれを免れて下さい、そういう自分を観察しない方法です、見ている自分なければゼロです、もとゼロです、急転直下仏です、救われるということ、座禅と見性という、科学理論なんかありっこないです、帰依であり救われるという、ただこれ一つこと、感動のない冷静などないんです、あっはっははい真人間に返って下さい。
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# by tozanji | 2005-12-18 00:00 | 伝光録

第二十二章

第二十二章

第二十二祖、摩奴羅尊者、婆修盤頭に問いて日く、何物か是れ諸仏菩提なる。
尊者日く、心の本性即ち是れなり。師また日く、如何なるか是れ心の本性。尊者日く、十八界空是れなり。師聞いて開悟す。


師は那提国常自在王の子なり、年三十にして婆修盤頭に遇う。常自在王に二子あり、一を摩訶羅、次を摩奴羅と名づく。王、尊者の仏記したまう、第二の五百年に一の神力の大士あり、出家して聖を継ぐと、即ち次子摩奴羅これなりと云うを聞いて、この子を捨てて沙門とす。善哉善哉大王よく仏旨に従う、即ちために授具す、これより婆修盤頭に給仕す、あるとき問うて日く、何物か是れ諸仏菩提なる、乃至開悟す。何物か是れ諸仏菩提なる、だれしも一度は必ずこう聞きます、ほんとうのことはなにか、自分はどうあったらいいか、仏とはなにか、それに答える人がいない、あるいはせっかく問いながら、なおざりにする、人もそうなら自分もといって、じきに忘れてしまう。仏記して聖を継ぐべしという、大士大人物が必要なんですか、いいやおぎゃあと生まれて、だれしも七歩歩んで天上天下唯我独尊です、だれあって本当を問う、何物か是れ諸仏菩提なる、というとき無位の大人です、尊者答えて日く、心の本性即ち是れなり。はいこれここにありますよ、本性もと究尽菩提、まったく他にはないと示す、これあってはじめて種々雑多、世の中一般があるんですよ、そうかと云うんです、でもその心の本性とはいったい何か、十八界六根六識六境の十八という、ものみな空です、見えるものないんです、これとさし示すなし、頼りの杖=200%ものみなですか、頓に無生を知る、これを聞いて開悟するんです。
仏道を習うというは、自己を習うなり。自己を習うというは、自己を忘れるなり。はいまったくに単純なただこれ。

舜若多神は内外に非ず、見聞声色倶に虚空なり。

しゅんにゃたとは虚空を司る神、まあ空ですか、空というと空という固定観念、そういうらしいものがあると思うんです、そうではあい、そのように思う自分を空じ去るんです、自分という架空請求を免れる、ほんとうに自由になるんです、あれはいけない、これは悪い、仏はこうある、仏教の物差しは、ものみな空だからという、だから故にのかすがいを外す、先ず自分という内外が失
せる、妄想が悪い、声聞縁覚がどうのという、どうのというこうのという、そのもの200%、ないものには悩まない、あるいは五蘊皆空という、かすっともかすらないんです、いったん忘れるということあって、長長出させる、坐禅という、どこまで行っても退歩の術ですか、いいえ十八界空、自分という問題にならんのですよ。

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# by tozanji | 2005-12-17 00:00 | 伝光録

第二十一章

第二十一章

第二十一祖、婆修盤頭尊者、因みに二十祖日く、我れ道んを求めず、亦た顛倒せず。我れ仏を礼せず、亦た軽慢せず。我れ長坐せず、亦た懈怠せず。我れ一食せず、亦た雑食せず。我れ足るを知らず、亦貪欲せず、心に希う所なし、之を名づけて道と日う。時に師、聞き已りて無漏智を発す。


師姓は毘舎羅、父は光蓋母は厳一、家富みて子なし。父母仏塔に祈り嗣を求む、一夕母明暗二珠を呑むと、夢に見て孕む。一羅漢あり賢衆という者、礼を受け珠を納めて福して日く、母二子を孕む、一は聖人なり、婆修盤頭と名づく、まさに世灯慧日となるべし、一は芻尼、野鵲子と名づく、如来修行するとき、芻尼頂上に巣食う。仏既に成道して、芻尼報を受けて、那提国王となる、次の五百年に於て聖と同胞ならん、今たがうことなしと。尊者婆修盤頭十五歳出家す。二十祖行化して至る、かしこに学衆あり、ただ弁論を尊ぶ、首たるを婆修盤頭と云う、常に一食不臥、六時に礼仏し、清浄無欲にして衆の帰する所となる、尊者度せんと欲して、彼の衆に問いて日く、この頭陀よく梵行を修す、仏道を得べけんや。衆日く、我師精進たり、何が故ぞ不可なる。尊者日く、汝が師は道と遠し、たとい苦行して塵劫を経るとも、皆虚妄の本なり。衆日く、尊者何の徳行をもって我師をそしる。尊者日く、我は道を求めず、乃至、無漏智を発し、歓喜讃嘆す。尊者また彼衆に示して日く、我が語を会すや否や。我がしかる所以は、それ求道心の切なるが為なり。それ弦急なれば即ち断つ。故にわれ讃せずして、安楽地に住せしめ、諸仏智に入らしむと。
これまったく他云うことなしです、まさにかくの如くです、我道を求めず、また顛倒せず、我れ仏を礼せず、また軽慢せず、我れ長坐せず、また懈怠せず、我れ一食せず、また雑食せず、我れ足るを知らず、また貪欲せず、心に希う所なし、之を名つけて道という。はいこれまったくに我が日送りです、これに反するときは、必ずお釣りが来る、うまく行かない、不幸ですよ。

風大虚を過ぎ雲岬より出ず、道情世事都べて管する無し。

道は知にも非ず不知にもあらず、若し本来事を得ば、大虚の洞然として明白なるが如しと、どうしてもこれが欲しいと、四苦八苦するんです、行ない清ますあり、知慧を尽くすあり、坐り抜くあり、不眠不休ありです、弦急なればこれを断ちと、安楽に入り歓喜讃嘆するのは、求める心を手放す、元の木阿弥を知る、風大虚を過ぎです、洞然明白を絵に描いた餅じゃないんです、空という思い込みが失せる、そう云っているものを空じ切るんです、雲岬を出るに任すんです、なんでもありはもとなんでもありなんです、仏といい仏教といって、制限して良い悪いじゃしょうがない、三世の諸仏知らず、すなわち、道情という手を付けないんです、世事ものみな元の木阿弥にあって、まったく我管せずなんです、管するに我なし、只管打坐これ、日々是好日は、我れ足ることを知らずです、これ仏でなけりゃ云い得んですよ、自ずから懈怠しないんです、あっはっは総じて見習うこと不可能、無漏智を発して下さい。
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# by tozanji | 2005-12-16 00:00 | 伝光録