第二十章

第二十章

第二十祖闍夜多尊者、因に十九祖示して日く、汝已に三業を信ずと雖も、未だ業は惑従り生じ、惑は識に因りて有り、識は不覚に依り、不覚は心に依るを明きらめず。心本清浄にして、生滅無く、造作無く、勝負無くして、寂寂然たり、霊霊然たり。汝若し此の法門に入らば、諸仏と同じかるべし。一切の善悪、有為無為皆夢幻の如し。師聞きて言を承け旨を領して、即ち宿慧を発す。


師は北天竺の人なり、智慧淵沖にして化導無量なり、十九世に逢いて問うて日く、我が家の父母素とより三宝を信ずれども、疾病にまつわる、凡そ営作する所不如意なり、しかるに隣家久しくせんだらの行をなす、身常に勇健にして、所作和合す。彼何の幸いありて、我何の辜かある。尊者日く、何ぞ疑うに足らんや、且つ善悪の報に三時あり、凡そ人つねに、仁は夭に、暴は寿に、逆は吉に、義は凶なるを見て、因果無く罪福虚しと。知らず、影響のあい随うこと毫釐も惑うことなく、たとい千万劫をふるも摩滅せず。因縁必ずあい値うことを。師頓に所疑を釈く。尊者日く、汝すでに三業を信ずといえども、乃至師宿慧を発す。
三業とは順現報受、順次生受、順後次受ですか、たとい千万劫を経るも摩滅せず、因縁必ずあい値うというこれ、まさに仏の示すところです、恨みつらみ最後の審判じゃない、十字架を背負うなどの滑稽じゃない、ただ因果必然です、毫釐もたがうなし、人為のものなどないです、まさにこれを知って下さい、邪教というのは、これを免れようとする、信ずれば救われるという短絡です。業は惑より生ず、もとこうあるものに惑う、観念知識によるからです、観念知識は不覚による
、ほんとうに知ると終わるんです、悟りおわればもとないんです、不覚は不覚とするからによる、さあこれを明きらめて下さい。心もと清浄です、清浄とは無心、心がないんです、これを思い違えて清らかであり、穢れないとするのは、生滅なく造作なく勝負なくではなく、神あり仏ありたこ足回線の諸宗ですよ。よく施設するには、それは世間一般、下ねたはいかん、政治に口を出すなとか云い、そうだそれが仏教だという、同じわしの言葉をそのように分ける、これ空という無心という絵に描いた餅です、無心じゃなく有心です、知識観念上にあるから、語に響きがない、使えないんです、打てば響く、これ唯一の反応ですよ、なんにもないとは、なんでもありです、空とは自分を空じ切るんです、宿慧を発する、まさにこれ、習い覚えたなにものも通用しない、たった一つです。寂然霊然という、そういうふうに見ている風景じゃないんです、百尺竿頭進ただこの一種。

予章従来空裏に生ず、枝葉根茎雲外に栄える。

まあそういうこってす、元来根なし草、自己という架空請求なんです、雲外に煩瑣、まったくもって手が付けられんです、それをしも自分と思い込む、自分が自分を顧みるという、どうあったって結果のない仕事です、自縄自縛の縄です、でもこいつ一本切れば万事終わる、ほどけば仏です、たとい複雑怪奇も、わずかに切れば解脱、不思議にこれそうなってるです。顧みる自分と顧みられる自分と、真正面に行き合ってごらんなさい、一つことだった=なんにもないんです、見ることができないからです、なんにもないものには悩まない、無心は傷つかない、一件落着です。幽霊という、もとはこのなんにもない、無心をいう幽すか霊たかという、いっしょになって幽霊ですか、人はあるものには悩まない、ないものに苦しまされる、はいどうですか、さっき云ったことと正反対ですが。

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# by tozanji | 2005-12-15 00:00 | 伝光録

第十九章

第十九章

第十九祖、鳩摩羅多尊者、因に伽耶舎多尊者示して日く、昔世尊記して日く、吾が滅後一千年に大士有り、月支国に出現し、玄化を紹隆せんと。今汝吾れに値ひて斯の嘉運に応ず。師聞きて宿命智を発す。


師姓は婆羅門、むかし自在天人たりし時、菩薩の瓔珞を見て愛心を起こす、堕してとうり天に生じ、帝釈天の般若波羅蜜多を説くを聞き、法の勝れたるを知り、梵天に昇ってよく法要を説く、諸天悦んで導師となす、祖位を継ぐ時至って、ついに月支に降る。十八祖行化のついで、婆羅門の舎に異相あるを見て、まさに入らんとす。師問いて日く、是れ何の徒衆ぞ。尊者日く、是れ仏弟子なり。師仏号を聞きて、心神竦然として門戸を閉ず。尊者良久してその門を叩く。師日く、こ
の舎に人なし。尊者日く、無と答える者は誰そ。師門を開けて接す。尊者日く、むかし世尊記して日く、乃至宿命智を発す。世尊記して日く、まさに大法を継いで、玄化を紹隆せんと云われて、すなわち大悟す、宿命智を発すとは、おれは如来の生まれ変わりだからなぞ、他が思い込み一人合点とは違う、まさに急転直下するんです、たしかにこういうことがあったんです。たとい前生に於てかくは因縁熟すといえども、いったんこの世に生を受けて、観念認識の生活です、どうしたって自己という架空請求の切れっぱしです。般若波羅蜜多ぱ-らみ-た-彼岸に渡らなければ、宿命智を発するわけには行かんです。玄化の法身、実にこれが重大を、予め承知していたんでしょう、身心竦然として門戸を閉ざす、いないよと云うんです、いないものは誰と云われて、ついに迎えが来たことを知る。世の中他にはないんです、仏道という多種のうちの一種じゃないんです、婦人は結婚せずとも生きていかれる、だがこれは別だ。たとえ悪いですか、まあそういったこってす。

宿生隔歴の身を推倒して、而今相見す旧時の漢。

お釈迦さまは七歩歩んで上下四維指さして、天上天下宇井が唯我独尊といって、お生まれになった。実はすべての赤ん坊がこう生まれているんです、人間世界欲界ですか、知識観念による、砂上楼閣の自己をもってする、主客転倒事、声色の奴卑と馳走する、これ六道輪廻たらい回しです、地獄餓鬼修羅畜生人間天上、たった今も生まれ変わり死に変わりもです。それを一歩抜きんでる、脱するんです、如来来たる如し、赤ん坊の目は宇宙の一かけらのようです、こわいほどです、それを物心つくといってはまた欲界に引き入れる、これが繰り返しです。願はくは生きている今生の間に脱して下さい、宿命智を発して下さい、でなかったらたとい何十生たらい回し、まったく同じことの繰り返し、うんざりするばかり、仏教がなんのためにあるか、今生脱し去る価値を知って下さい、そうですよ、赤ん坊のまんまじゃ役に立たんです。

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# by tozanji | 2005-12-14 00:00 | 伝光録

第十八章

第十八章

第十八祖、伽耶舎多尊者、僧伽難提尊者に執持す。有る時風殿の銅鈴を吹くを聞く。尊者師に問いて日く、鈴の鳴るや、風の鳴るや。師日く、風に非ず、鈴に非ず、我心の鳴るのみ。尊者日く、心とは復た誰ぞ。師日く、倶に寂静なる故に。尊者日く、善哉善哉。吾が道を継ぐ者は子に非ずして誰ぞ。即ち法蔵を付す。


師姓は鬱頭籃。父は天蓋母は方聖、大神あり鏡を持つを夢に見て娠む、七日にして生まる。肌体瑩として瑠璃の如し、未だかつて洗浴せず、自然に光潔たり。生まれる時より一円鑑あり、常に伴う、閑静を好み、世縁になじまず。僧伽難提尊者行化のついで、忽ち涼風あって衆を覆う、心身悦適すること常にあらず。これ道徳の風なり、聖人あり、出世して祖灯を継ぐべしと云って、諸方を徘徊して捜す。一童子あり、円鑑を持して尊者の前に至る。尊者問いて日く、汝幾歳ぞ。日く、百歳。尊者日く、汝なほ幼し、何ぞ百歳と云うや。日く、我れ理を会せず。正に百歳なるのみ。尊者日く、汝機を善くすや。日く、仏のたまはく、若し人生きて百歳なるも、諸仏の機を会せずんば、未だ生きて一日にして、之を得て決了することを得るにしかずと。尊者日く、汝が手中のもの、まさに何の所表ぞ。童子日く、諸仏大円鑑、内外に瑕翳無し、両人同じく得見し、心眼皆相似たり。父母この語を聞いて出家せしむ、尊者具戒して、伽耶舎多と名づく、有る時、風の銅鈴を吹くを見て、乃至法蔵を付す。彼の円鑑童子出家せしとき、忽然として見えず。
一円鑑という、あるいはこれを伴う者幾人か、諸仏大円鑑、内外に瑕翳なし、両人同じく得見し、心眼皆相似たり、神童の上を行くんですか、たとい目には見えねども、見ゆる如くにこうあるっていうのは、たしかにあります。童子のたとい仏知慧、諸仏の行事かくの如しと、大人が迷い右往左往の間、実に掌さすんです、すべての童子赤ん坊が、きっと多少ともそうなんでしょう。これを大円鑑と伴い行くのはまた別ですか。そうしてこれは風動幔動の則です、右往左往の凡俗には就中手に入らんです、風も鳴らず、鈴も鳴らず、心鳴るのみ、心という身心ですよ、こちいがこう鳴り動くんです、倶に寂静なる故に、自分というものまったくない故にです、これにて一件落着です、人生も世界も歴史もな-んもかもですよ。さあどうぞおやり下さい、たとい神童ならずとも同じこと。そうして出家するに従い、円鑑見えず、すなわち身につくんです、元の木阿弥ですよ。

寂莫たる心鳴響万様たり、僧伽と伽耶と及び風鈴と。

ふ-んなんかこれいいですねえ、羅漢さんの仲間になって、五百羅漢一千羅漢、毎日このように過ごしている、なんともいえん済々です、理想生活祇園精舎、彼は彼、我は我、風鈴と風と、意見思想に拠らない、だれどのようにあろうとも寂莫ぴったりぴったりです、林の中に入ると、みなまたそのようですし、草もまた花もです、みな心です、響き万様が、頓に完結していて、他云うなしの、一体に風であり風鈴であり我が心です、たとえは悪いけれども初めて三次元、あるいは四次元世界ですか、到らずは二次元を這いずり回る、べったりですよ。

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# by tozanji | 2005-12-13 00:00 | 伝光録

第十七章

第十七章

第十七祖、僧伽難提尊者、因に羅篌羅多、偈を以て示して日く、我已に我無きが故に、汝須らく我我を見るべし。汝既に我を師となすが故に、我の我我に非ざることを知る。師聞きて心意豁然たり。即ち度脱を求む。


師は宝荘厳王の子なり、生まれながらにして能く言う。常に仏を讃す、七歳にして即ち世楽を厭い、偈を以て父母に告げて日く、稽首す大慈父、和南す骨肉の母、我れ今出家せんと欲す、幸いに願はくは哀愍の故に。父母固く止む、終に終日食せず、乃ち其家に在りて出家を許す。僧伽難提と号す。十九歳王宮を出て、行方をくらまし石窟に坐す。十年をへて羅篌羅多尊者、行化して到り、金水という河の辺りに、五仏の影を見る。この河の源およそ五百里、僧伽難提という聖人あり、仏記したまう、一千年後聖位を継ぐべしと。まさに会う、僧伽難提入定より立つ、尊者問いて日く、汝身の定か心の定か。師日く、身心倶に定なり。尊者日く、身心倶に定ならば、何ぞ出入りあらんと。若し身心に向かって定を修せば、是れなほ真定にあらずと、入定という、仏という、座禅見性という、若し他にみて、すばらしいといい、かくあるべしという、ではもはやただそれっきり。せっかく僧伽難提の破天荒な出家、行ない清らかも、らごら尊者という、正師に出会うまでは、花開くこっとがなかったです。身心脱落という、本来人の元の木阿弥を、夢にだも見なかったです、どうしても得たいという、水の中にあって渇と求める、求めるものこれと、お釈迦さまには仏教がなかったです、たとい仏教があったとて、たやすくは手に入らんですか。さあどうです。我すでに我なきがゆえに、無心の者がここにある、よく見よというんです、無心不生、汝すべからくわしの我を見よ、そうやって入定も、それ自縄自縛の縄=自分と思い込んでいる、ほどけば仏。ほどき終わってもとなんにもなしのわしを師とする、我の我、我に非ざることを知れ。師聞いて豁然たり、即ち度脱を求む。

心機宛転して心相に称ふ、我我幾ばくか面目を分ち来たる。

心というこれを知る不可能、なぜなら心は一つ、一つが一つを見る、観察することはできない、にもかかわらず、脱し来り脱し去りとおれはこうなったとやるんです、それがいけないたってどうしようもない、だから宛転です、ひょうたんなまずの、ころっと転ずる、ついには得るなし、では無所得のそやつ、いくばくか面目ありや、なしといいたいところですが、どうですか、自信のまったくない人、仏は仏を知らずの大自信、あっはっははたしてどうですか。自信のある人粗暴、分からず屋、無宗教の人無色無臭ですか、まったくそんなことないのは、無宗教の人なぞ出会ったことないです、みんな仲良く平和に教とか、坊主はらしく教とか、学歴教とかオバタリアン教とか、どやつもこやつもいいの悪いの、自信ありげの、さっぱり役立たずのかたくな。人というのは、なんでこうただ-ありのまんまじゃ生きられんのか、などいうとありのまんま教とかさ、五体満足が杖を引く、そりゃろくなこたあないです。

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# by tozanji | 2005-12-12 00:00 | 伝光録

第十六章

第十六章

第十六祖、羅篌羅多尊者、迦那提婆に執侍し、宿因を聞きて感悟す。


宿因というは、迦那提婆尊者行化のついで、長者あり、梵摩浄徳という。一日園樹に大耳を生ず、大きなきのこで甚だ美味であった、長者と二子の羅篌羅多のみ食す、他は見ること能はず。尊者日く、汝が家かつて一比丘を供養す、かの比丘道眼未だ明きらめず、空しく信施に霑うを以て、報ゆるに木菌となる。汝と子の精誠によりこれを受くと、乃至その子出家す。かつて如来この子を記す、すなわち十六祖に列す。今はすでに比丘、僧を供養するなどはなくなった、お経を読んだぜに、葬式の給料でしかない、二、三百年来お布施、信施をいいことに、道眼を明きらめず、手前勝手の猿芝居、威儀即仏法だの、坊主は偉いんだから坊主だなど、集団自閉症の末に、托鉢行も失せ、日本人のいい加減さと、せいぜいが観光業によって、なんとなく面目を保つ。人はそっぽ向いて、いわば賤業だ。この項すでに説くほどのことはない。だが道眼を明きらめずは、大罪を犯すに似たり、仏の名を騙り、人の額に汗した所のものをかすめ取って、経を誦んでうそぶき歩く、盗人殺人よりも悪し、なんとなれば彼は己れの悪を知れればなりと、至道無難禅師のこれを思い知ること、出家ですか、お寺の子じゃ無理だ、死ぬだけがたった一つの道と知って、死体は罪を免れると知って、大死一番大活現成です、死んで死んで死にきって思いのままにするわざぞよき、あるいは、月は月花はむかしの花ながら見るもののものになりにけるかなと。出家の根幹をなすこれ、ついにすたれて久しいか、いえちゃんと伝わるものは伝わっておりますよ。

惜しいかな道眼清白ならず、自らに惑ひ他に酬ひて報未だ休せず。

まったく死んでのちまで大耳だなど有心のわざというのです、それじゃ流転三界中恩愛不能断危恩入無為真実報恩者という、出家剃髪の偈はどうなるんだ、たとい良寛坊主、勤倹貯蓄の家門にぬうっと手を出す、うちは額に汗して働かんやつに、一文の施しもせんといって、ぴっしゃりおっぱらう、そいつを良寛忘れ惚けて、番たびぬうっと手を。あっはっは共産主義が聞いたら目を回すやつ。人間なんの為に生きるか、そりゃ無条件生きにきまってます、病来たら病がよろしく、地震来たら地震がよろしく、その良寛さん、十兵衛という性悪のやつがいて、がなって水ぶっかける、ひやあたまげて逃げ出す、人が面白がって、十兵衛だやる、ひやあ逃げ出す、何度でもやってたそうです、地震来たれば地震がよろしくと、大言壮語していったいこりゃなんだと、世間の人はたいてい云う、とにかく口開けば八方のお偉いさんが、さまざまに教えてくれる、わっはっはしんどいこった、とんぼ一匹そんなんで、御託でもって、空を飛んでいるわけじゃないってのにさ。

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# by tozanji | 2005-12-11 00:00 | 伝光録

第十五章

第十五章

第十五祖、迦那提婆尊者、龍樹大士に謁せんとし、将に門に及ばんとす。龍樹是れ智人なりと知りて、先ず侍者を遣はし、満鉢の水を以て、座前に置かしむ。尊者之を覩て、即ち一針を以て投じて、之を進めて相見し、欣然として契会す。


師姓は毘舎羅、善行を求め弁論を楽しむ、善行また福業という、尊者の妙法を説くを聞き、人互いに云うには、人に福業あるは世間の第一なり、いたずらに仏性を云う、だれかよく之を見んと。龍樹日く、汝仏性を見んと欲せば、先ずすべからく我慢を除くべし、人日く、仏性は大か小か。龍樹日く、仏性は大にあらず小にあらず、広にあらず狭にあらず、福なく報なく、不死不生なり。人その理の勝れるを知りて、初心を廻らす。その中の大智慧、迦那提婆、龍樹大士に謁す、乃至欣然として契会す。即ち半座を分かつ。あたかも霊山の迦葉の如し。龍樹説法す、座を起たずして月輪の相を現ず。師衆会に云いて日く、これはこれ尊者仏性の体相を現じて、以て我らに示す。何をもって之を知る。けだし以んみれば、無相三昧は形満月の如し。仏性の義廓然虚明なりと。また偈を説いて日く、身円月の相を現じ、以て諸仏の体を表す、法を説きて其形無し、用いて声色に非ざることを弁ず。かくの如く師資分かちがたし。
弁論大知慧満鉢の水に一針を投ず、乃至欣然として契会すと、かつてこういうことがあり、今後また必ずあると、福業をもっぱらにすること、世間の為であり、報いてまた福を招くはずと、行ないがたく、たとい一心に行ずるとて、汝仏性を見んと欲せば、先ずすべからく我慢を除くべしという、たといこれがたがを外す、人間本来いいことしいでは納まらんです、共産主義の嘘ばっかり
も、キリスト教の最後の審判も、自縄自縛の縄ですか、目的のためには手段を択ばぬ不都合、ついには悲惨無惨です。福業果報も罪少なしといえどもまた同じ轍。仏性は大か小かと問う、大にもあらず小にもあらず、広くもなく狭くもなし、福なく報なく、不死不生です、これ大安心です、もとあるがようの大海に帰る、しかも満水の鉢には一針を投ずる知慧、いいですかもとのありようといい、ただ坐ってりゃいいという、2チャンネルも学者坊主も同じこってす、知識の羅列してないで、どうか一針を投げ入れて下さい。でないとあっはっはどうみたって様にならんですよ。

一針釣り尽くす滄溟の水、獰龍到る処身を蔵し難し。

一針釣り尽くす滄溟の水とは、これ只管打坐です、あらゆる一切を尽くすよりないんです、この肝心を怠って伝光録もくそもないんです、祖録を解説して、むさくるしい阿呆面さらすよりは、そりゃ立ちん棒して炎天下銭稼いだほうが、百倍も清潔ですか、ほんに腹立つなあまったく。まあいいか仏教のぶの字もない宗門、どこへ向かって腹立てたって、せいぜい逆恨み食らうだけだ。獰龍という、これ煩悩ですか、煩悩に真っ正面する獰龍ですか、さあどっちでしょう、そりゃあ語の響きで云えば、なんて云わずに、答えを出して下さい。ついに得る月輪=さあ自分を観察しないゆえに満月ですよ、学者坊主も2チャンネルも夢にも知らんやつ、四智円明の月冴えん、たとい龍樹には見えず、半坐を分かつ弟子これを示す。
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# by tozanji | 2005-12-10 00:00 | 伝光録

第十四章

第十四章

第十四祖、龍樹尊者、因みに十三祖龍王の請に赴き、如意珠を受く。師問ひて日く、此珠は世中の至宝なり、是れ有相なるや無相なるや。祖日く、汝只有相無相を知りて、此珠の有相にも非ず無相にも非ざるうを知らず。亦未だ此珠の珠に非ざるを知らず。師聞きて深悟す。


十三祖受度伝法して、西インドに至る、彼に太子あり、雲自在と名ずく、尊者を仰いで宮中に請して供養す。尊者日く、如来に教えあり、沙門は国王大臣権勢の家に親近することを得ざれと、太子よって山中に一の石窟あるを示す。尊者おもむくに大蛇あり、その身を盤繞す、尊者為に三帰依を説く、盤繞終わりて去る。石窟に到り一老人あり、素服にして出でて合唱問訊す。尊者日く、汝何れの所にか止どまる。答えて日く、我れむかしかつて比丘たりし時、多く寂静を楽しみて山林に隠居す。初学の比丘来たり、益を請ふ、我れ応答に煩ひて嗔恨の思いをなす。命終わりて蛇身に堕す、すでに千歳なり、今戒法を聞くを得たり、故に来たりて謝するのみ。尊者問いて日く、この山に更に何人かある。日く、北へ十里にして大樹あり、五百の大龍を隠す、その王を龍樹と名ずく。常に龍衆のために説法す、我れも亦聴受するのみ。尊者ついに徒衆とともに彼に至る。龍樹、尊者を迎えて日く、深山孤寂にして龍蠎の居する所なり、大聖至尊なんぞ神足をまげる。尊者日く、我れ至尊に非ず、来たりて賢者を訪ふ。龍樹黙然して日く、此師決定性を得て道眼を明きらむるや否や、是れ大聖にして真乗を継ぐや否や。尊者日く、汝心に語るといえども我れすでに知る、ただ出家を弁ぜよ、なんぞ我が聖不聖を慮んばかるや。龍樹聞き終わりて悔謝出家す。及び五百の龍衆ともに具を受く、随い四年をへるに、尊者龍王の請に赴むき如意珠を奉られる、これ世中の至宝なり、乃至師聞きて深悟す。
龍樹は異道を学し神通を具す、常に竜宮に行き七仏の経書を見るという、過去七仏といわれるこれ、すなわち経の心を知り、五百の龍衆を化す、龍衆という大権威なんでしょう、これみな等学の菩薩なりという、前仏の委嘱を受け諸経を安置す、もしお釈迦さまの化縁尽きても、竜宮に蔵まるべしと。かくのごとくの大人、しかも外道なりという、見られる通りの因縁、これはまさに外道という、思想言語上の発展です、たとい大発展も、深山孤独に住まわねば、はた迷惑害はなはだ。納りつくはずが、際限もなく広がるんです、無心という、五蘊皆空のこれが、うるさったく大発展する。山林の寂静に隠居して、初学を煩わしく嗔をもって遠ざける、なぜか、仏という寂静という別ものを持つからです、担いで帰れという、そいつの煩わしさに、自ら隠居するんです、では龍樹も五百の龍衆も同じです、外道あって仏道あってじゃないんです、仏道しかない、これをたいていの人知らない、もっての外のこってすよ、なぜ外道というか、周辺をうろつくからです、いたずらに騒がしい、世を騒がせて悦に入っているほどは、人畜無害です、さすがに龍樹はその害はなはだを知る、ゆえに隠れ住んで龍蠎なんです。
尊者は決定性を得て道眼を明むるや否や、これ大聖にして真乗を継ぐや否や、いいですかこの一目瞭然事、たといいかに碩学神通もこうした塩梅です、ただ出家を弁ぜよ、なんぞ我が聖不聖をおもんばかるやと云われて、省する、ここがさすが龍樹、まさに一家の主です。
大般若理趣分あんなもなさっぱり感心せんなあ、もし龍樹の作であったら、わしは軽蔑します。

孤光霊廓常に昧ます無し、如意摩尼分照し来たる。

如意珠これ有相なりや無相なりやと問う、未だ分別理解の域を超えぬこと一目瞭然なんです、有相と応ずればこう答え、無相と応ずればこう答えるという、いったいそれは何か、それによって世中の至宝も得ず、身心の摩尼宝珠をも得ず、ただ単に解釈の際限もない発展があるだけだ、見れども見えずを、彼が際限もなしを破って、尊者汝有相無相を知って、この珠有相にもあらず無相にもあらずを知らず、未だ此の珠の珠に非ざることを知らずと、かつて見えていたはおのれが妄念のみであったのを知る、摩尼宝珠如来蔵裏に親しく収攬す。百千万の経巻露とふっ消えるんです。
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おわび
2005年9月以来、編集ができませんでした。当ブログの閲覧を毎日お楽しみ戴いております皆様方には大変ご迷惑をおかけ致しました。
尚、執筆者からの原稿は毎日あがってきており2ヶ月分が溜まっております。これらは順次アップデートさせて戴きますので今後ともどうぞ宜しくお願い致します。


おしらせ
当ブログは、エキサイト・ブログアドバンス(有料サービス)に切り替えました。完成度の高いフェブページをご提供してゆきたいと存じます。
今後とも宜しくお願い致します。
編集者・拝

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# by tozanji | 2005-12-09 00:00 | 伝光録

第十三章

第十三章

第十三祖迦毘摩羅尊者、因みに馬鳴尊者、仏性海を説いて日く、山河大地皆依りて建立す、三明六通茲に由りて発現す。師聞きて信悟す。


師初め外道たりし時、徒三千あり、諸の異論に通ず。馬鳴尊者、法輪を転ずるに、一老人あり、座前に仆れる、これ並みのものにあらず、異相あるべしというと、消え、俄に金色の人を湧出す、化して女人になりて、右手に尊者を指して偈を説く、稽首す長老尊、当に如来の記を受くべし、今此地上において、第一義を宣通せよ、と聞こえて見えず。尊者日く、魔来り吾と力を比べんとすと。じきに風雨起こり天地晦冥す。大金龍を現じ、威神を奮発して山岳振動す。尊者厳然たり、魔事したがい滅す。七日をへて一小虫あり、座下に潜む。尊者これを取りて、これ魔物の変化なり、吾が法を盗聴すといって放つ、魔物正体を現わして、至心に懺悔す、乃至尊者仏性海を説く、山河大地みな依りて建立す、三明六通ここによって発現す。師聞きて信悟す。
どうですかこれ、山河大地が無記です、でたらめにあると思っている、もとからあり手をつけるものにあらずとして、却って手をつけているんです、他山の石をこっちの勝手にいじくる。今の人もまったく同じです、たとい科学の精妙も宗教のよこしまもです。根本不信なんです、すなわち様にならんのです。人はこれを知らない、迦毘摩羅尊者は、これをもって山岳振動し、おのれの形をかえするほどに、自在に操る、しかも根本他山の石です、解決がつかないんです。さすがに三千の長、解決のつかぬことを知って、尊者の前に姿を現わすんです。至心帰依しかない、いいですか、座禅と見性という、ついに至心帰依しかないんです。すると山河大地、皆依りて建立するんです、三明六通ここによって発現するんです、ようやく一箇となる、わかりますかこれ、でなくば一箇と呼べぬ、他愛ない拡散ですか、なんにもならぬの一生です、信悟して下さい、通身反省して下さい、自然というでしょう、そんなものありっこない、自分があるだけです、はいこれ入門編です。

浩渺たる波濤縱ひ天に滔ぎるも、清浄の海水何ぞ曾て変ぜん。

そうです、この響きをよく味わって下さい、魔界変化もパロディ悪ふざけも、どうにもならん現代風解釈の不行き届きも、もしや波浪滔天です、もとまったく法性海中、不幸にしてこれに気がつかない、ものごとでたらめに拡散するっきり、なんとしてもこれに気がついて下さい、でないと人生の喜びもなく、せっかく生を受けて無意味です、人もこうなりゃおれもこう、流行に押し流されて、わけもわからん、たとい物まねも、語の響きなし、浩渺たる波濤たとひ天によぎるも、清浄の海水なんぞかつて変ぜん、10ぺん20ぺん繰り返して云ってごらんなさい、一箇かくの如くありがわかります、なんという自分は曖昧、ビ-ルの泡かすにもならんこと、それを知りこれを知って、始めて事に当たって下さい、でなくばなにしたって、そりゃうるさったいばかりのごみあくた。
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# by tozanji | 2005-09-25 00:00 | 伝光録

第十二章

第十二章

第十二祖馬鳴尊者、夜奢尊者に問ふて日く、我れ仏を識らんと欲す、何物か即ち是なる。尊者日く、汝仏を識らんと欲す、識らざる者是なり。師日く、仏既に識らず、焉ぞ是を知らんや。尊者日く、既に仏を識らず、焉ぞ不是を知らん。師日く、此は是れ鋸の義。尊者日く、彼は是れ木の義。復た問ふ、鋸の義とは何ぞ。師日く、師と平出せり。又問う、木の義とは何ぞ。尊者日く、汝我に解せらる。師豁然として省悟す。


師はまた功勝と名づく、有作無作、諸の功徳をもって最も殊勝となすを以て名づく。夜奢尊者に参じて、初めにこの問いがあった。仏を知ろうとする、何ものか是れ仏、これはだれしも問うところです、仏とは何か、ほどけば仏、だれに頼まれもしないのに自縄自縛の、その縄をほどく、ほどき終わればもと仏、自縄自縛の縄=自分という、ほどき終わればもとなんにもないんです。知らざるものこれです。知るという自縛の縄ですか、これたとえ話じゃないんです、識らざるもの是れ、まさにこうなんです、他なしの実際、本体です、それを仏とは何か、仏教とはという観念知識です、五蘊こんぐろまりっとの交通整理として求める、それしかできない、世間教育の不実です、だからどうしてもその延長上に求める、仏すでに知らず、知らないものをどうして知ることができる、尊者日く、なんぞ不是を知らん、そんなこと必要がないんです。観念知識としては、のこぎり談義だというんです、山と谷ああいえばこういうんですか、見た目たしかにそうです。尊者日く、そうじゃない木の義だ、おまえの本来ありようの上にという。鋸の義とは何か、師と平出するが故に、そうとしか映らない不都合です、でもって木の義とは何ぞと聞く、のこぎりの延長です、汝我に解せらる、一目瞭然事のあることを云うんです、さすがに並みの凡くらと違う、豁然大悟するんです、すばらしいです、たしかにこういうことがあったんです、今でも起こります。鋸談義はすたれもしようが、木の義は元の木阿弥。

野村の紅は桃華の識るにあらず、更に霊雲をして不疑に到らしむ。

野村の紅は桃華の知るにあらず、自然というものの実体です、それを心行く味わうのは私どもです、いいなあすばらしいなあという、人生の活力であり慰めです、でもそれを汚してはならんです、本来そのもの、100%200%こうあるべきです、100%200%こうあるのに、就中味わい切れない、まずもって自分という、自縄自縛の縄をほどいて下さい、ほどき終わって自性霊明です、なんのフィルタ-もなしに見て下さい、更に霊雲をして不疑にいたらしむ、はいそうです、これが仏教です、仏という元の木阿弥、あらゆる一切が去来する、無限の楽しみをもって生涯して下さい、正に馬鳴尊者、まっぱじめっからこれです。頼もしいですね。
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# by tozanji | 2005-09-24 00:00 | 伝光録

第十一章

第十一章

第十一祖、富那夜奢尊者、合唱して脇尊者の前に立つ。尊者問いて日く、汝何れより来たる。師日く、我が心往に非ず。尊者日く、汝何れの処に住す。師日く、我が心止に非ず。尊者日す、汝は不定なるや。師日く、諸仏も亦然り。尊者日くう、汝は諸仏に非ず、諸仏も亦非なり。師此の言を聞いて、三七日の修行を経て無生法忍を得たり。尊者に告げて日く、諸仏も亦非なり、尊者に非ず。尊者聴許して正法を付す。


脇尊者到りて一樹の下に憩ふ、右手に地を指して衆に告げて日く、この地金色と変ぜば、まさに聖人ありて入会すべしと、云い終わりて地金色に変ず、時に長者の子富那夜奢というものあり、合唱して立つ。尊者偈を説く、此地金色に変ず、預め聖の至る有る得を知る、当に菩提樹に坐し、覚華して成り已るべし。夜奢また偈をもって答え、師金色の地に坐し、常に真実の義を説く、回光して我を照らし、三摩諦に入らしむ。三摩諦とは三昧無心に入ること、すなわち得度出家、仏戒を授ける。
どこから来た、心は往来のものではない、どこに住んでいる、心は止まるものではない、では定まらないのか。そうだ、諸仏もこのようにある。どうですかこれ、実にこのように云う一般人て、そうはいないです、無心という、応無所住而生其心という、かつてまさに箇のありようこれ。ですが、尊者これを聞いて、汝は諸仏にあらず、諸仏もまた非なり、たといそうではないという。三世の諸仏知らず、我がありようこれ、仏これという、知っている分が嘘です、未だ本来に住んでいない、忘れ去っていないんです。よって三七二十一日の間、修行してついに忘我、本来まっただ中です、諸仏もまた非なり、標準が失せるんです、尊者にあらず、ついに独立人です。尊者聴許して正法を付す。

我が心仏に非ず亦汝に非ず、来往従来此の中にあり。

自分とは何かというんでしょう、知らないんです、ちらとも知っている部分は、ただ日常便宜の故にです、それも絶え間ない変わって、しかも何不自由しないです、達磨の不識花のように知らないという、天地宇宙これにおって成り立っています、早く成仏して下さい、無自覚の覚ですよ、心仏にあらず、亦汝にあらず、住む所無うしてその心を生ずという、これがありよう、云われてみりゃあまさしくその通りってわけです、往来従来この中にあり、行くも帰るも跡絶えて、されども法は忘れざりけり、はいでは法ってなんですか。
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# by tozanji | 2005-09-23 00:00 | 伝光録