第十章

第十章

第十祖脇尊者、伏駄密多尊者の左右に執侍すること三年、未だ嘗て睡眠せず。一日尊者、修多羅を誦し、及び無生を演び。師聞きて悟道す。


師本命は難生、生まれんとする時、父夢に、一の白象背に宝座あり、座上に一明珠を安ず、その光四衆を照らす、すでに覚めてついに生まる。伏駄密多尊者行化のついで、長者香蓋という者、一子を連れて礼拝し、この子所胎六十歳、よって難生と名づく。仙人の云うには、この子非凡なり、法器となるべしと、今尊者に遭う、まさに出家せしむべしと云う。尊剃髪授戒す。所胎六十年、生後八十年、計百四十年初めて発心す。人みな諫めて、汝すでに老耄す、いたずらに清流にあとして是れ何かせん、出家に二種あり、一に習禅二には誦経、汝が堪ゆべきにあらずと。師自ら誓いて日く、若し三蔵を学し三明を得ることなくんば云々、昼は参学誦経し、夜は安禅思惟してついに睡眠せず。初め出家せんとして、祥光座を照らす、舎利三七粒現前す、よって精進して疲れを忘れ、遂に三蔵、仏典の総称ですか、三明という自己を明きらめ、忘れ去り、ついに無自覚ですか、一日修多羅ス-トラです、お経そのものが全ったい手に入ること、これあるんですよ、良寛さんは、正法眼蔵の提唱を聞いて大悟したという、そういうことあるんです、一般の理解わかったというのと、まずはまるっきり違うと思って下さい、そうねえ二次元のものが三次元になるっていう、いえ夢にだも見ない現象です、因みに第十祖に列す。

転じ来り転じ去る幾経巻、此に死し彼に生じて章句区ちまちなり。

お経の文句を知る、三百代言の始まりです、なにはなんたってろくなことはない、三世の諸仏知らず、狸奴白狐かえってこれを知る、ではなんでお経がある、もと我らのありようこの通りと示す、この通りだから身心の辺に証明して下さいというんです、般若波羅密多彼岸に渡れと云われたら、彼岸に渡ればいいんです、すると他何百いっぺんに通達します。一句通ずることこれ、摩訶まは-と云えば大、それにて終わるんです、永平正法眼蔵をそのように読む-見るんです、我と我が身心の上に底抜けです、でなくって眼蔵家だのしゃば流禅家提唱だの、嘘八のいたずらにかき濁すばっかりです、そうねえ大悟してから、読んで下さい、およそ人間の残した財産の中でこれほどのものはなく、良寛さんのように涙流すんですか、書を頂点とする、絵画芸術詩歌彫刻、これらのうち至上最高って、あっはっは俗人みたいですか、いえね、ノ-ベル文学賞という、では飯田木党陰老師の、無門関碧巌祿提唱など、まったくあんなにすばらしいものないです、縦横無尽七通八達、他の文学詩歌など足もとにも及ばんです。区まちまちと読む、意旨如何。
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# by tozanji | 2005-09-22 00:00 | 伝光録

第九章

第九章

第九祖、伏駄密多尊者、仏陀難提の、汝が言心と親し、父母も比すべきに非ず。汝が行道と合す。諸仏の心即ち是れなり、他に有相仏を求めば、汝と相似ず。汝の本心を識らんと欲せば、合に非ず亦離に非ずと説くを聞く。師乃ち大悟す。


師姓は毘舎羅、仏陀難提行化して、毘舎羅が家に到る、舎上に白光ありて上る、この家に聖人あるべしと。口に言説なし、真に大乗の器なり、足地を踏まず、ただ穢れに触れることを知る、これ我が嗣ならんと、云い終わるに長者出でて礼す、我に一子あり、口未だかつて聞かず、足未だかつて踏まず、年すでに五十と云う。尊者これを見まさに我が弟子なりと云う、師にわかに起ちて礼拝し、偈をもって問う、父母我が親にあらず、誰かこれ最も親しき者ぞ、諸仏我が道にあらず、誰かこれ最も道なる者ぞ。尊者偈をもって答え、汝が言心と親し、乃至合に非ず離に非ず。師妙偈を聞きて歩むこと七歩。尊者日く、この子、むかしかつて仏にあひ会うて悲願広大あり、父母の愛情捨てがたきをもって、云わず踏まざるのみと。
わしはこういうことのあったのを鵜呑みにします、涙流れるほどに信じますよ、今の世にだって大小の毘舎羅子、伏駄密多尊者がいます、たとい職につき大学を卒業しようとも、云わず踏まず、父母わが親にあらず、世間また世間にあらず、だれかこれ最も親しきものぞ。諸仏我が道にあらず、諸の学問歴史等我が道にあらず、だれかこれ最も道なる者ぞと。これに答える人がいなかった、五十年して、初めて仏陀難提尊者、汝が言汝が心と親し、父母も世間も比すべきにあらず、行道と合す、諸仏の心ものみな即ちこれなりと。他に有相仏を求めば、汝とあい似ず、まさしくこう云うんです。心を知らんと要せば、合に非ず、離にあらず、自分からこうすべきとやらない、批判しない、しゃば流の科学心理学しないんです、近似値ほど害はなわだ、わかりますかこれ、参禅しなさいということですよ、単純を示す、無に帰るんです、師すなわち大悟す。

言うこと莫れ語黙離微に渉ると、豈根塵の自性を染むる有らんや。

あに根塵の自性を染むるあらんや、もとまっさらのおのれなんです、五十年不染那もあながち驚くにあたらぬ、いつこの事を初めようが、急転直下落着するのは、生まれ本来に、いえ父母未生前に返るからです、心身脱落という、染那するところを払う、染那=自分という身心ですか、いいえ染那などとっつくところなかったんです、いずれのところにか塵芥を惹かん、時時に務めて払拭をこれ、語黙離微に渉ると、なんせ饒舌です、ふだんからてめえうるさったいんでしょう、だからどうの故にといっては、答えが出ない、もと答えのど真ん中です、他に云うことない、いえ云おうと思ったら、聾唖者が手足ふりもがくほどの、却って四苦八苦あります、実際を言葉にする、たいへんなこってす、ゆえに仏を作家というんです、小説物書きの類は、あっちのものをこっちに並べ替えるきりです、そうではない無から有を生ずるんですか、どかん爆弾ですか、有は無にならんですか、あっはっはまあやって下さい。
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# by tozanji | 2005-09-21 00:00 | 伝光録

第八章

第八章

第八祖、仏陀難提尊者、七祖婆須密多尊者に値ひて日く、今来たりて師と議論せん。尊者日く、仁者論ぜば即ち義ならず、義は即ち論ならず。若し論義せんと擬せば、終に義の論に非ず。師、尊者の義勝れたるを知りて、無生の理を悟る。


師は姓瞿曇氏、頂上に肉髻あり、弁捷無礙なりとあります、師宝座前に於て自ら謂えらく、我を仏陀難提と名ずく、今師と議論せんと、頭のてっぺんが髻=もとどりのように盛り上がっている、かつて論義に負けたことがなかったんでしょう、すると一体にこれを尽くすんです、勝つか負けるかではない、この他にはないという、はたして本当か、あるいは論の義とは、端的にものみなを指すのか、自分という他なしの形か、我我無きが故に、我我所無きが故に、すなわち心不生滅の故に、ものみなと、第五祖出家の弁の如くですか、事を尽くすとは、世間事に通暁するんではなかったら、一つことに帰るんです、でなくば論に倒れる、つまり負けるんです、おそらくこれ論の空しいこと、不必要を知る周辺にあったんです、いえいつだって急転直下、そうして通身もってぶっつけた、答えを出そうではないか、今来たりて師と論義せん。尊者日く、仁者論ぜば即ち義ならず、仁者、真正面ですよ、正直に嘘云わないってこってす、義は即ち論にあらず、どうですかと聞くんです、おまえさんの内外、いえおまえさんは論に拠らず、義などいうものがあるわけはないんです。若し論義せんと擬せば、終いに義の論に非ず、どうですかと、再度聞くんです、損なうだけであろうが。すなわちここに於て無生を悟る。
善吉維摩談じて未だ到らず、目連鷲子見て盲の如し、若し人親しく這の意を会せんと欲せば、塩味何れの時か適当ならざらん。

善吉須菩提、解空第一と云われる釈尊十大弟子の一人、維摩居士、二人談じて未だいたらず、鷲子舎利弗、知慧第一と云われる同じく十大弟子のうち、目連は目健連神通第一と云われる、見て盲の如し、見れども見えずですか、どうもお釈迦さんの十大弟子もこりゃ形無しですか、でも老師会下には悟った人悟らぬ人、大小いたですが、説法するに当たっては、なんといっても老師だけということあったです、義の論という論の義というを出ない、「老師は違うもんなあ、行き合っただけでがっさり落ちる。」という感想があった、相手そっくりを転ずるんです、おまえの云うことは間違ってる、だからどうのの問題ではない、若し人親しくこの意を会せんと欲せば、そうですよ、一枚も二枚も捨ててかからにゃならんです、昨日の我は今日の我にはあらずと、これただの人の日送り、日々是好日ですか、塩味何れの時か適当ならざらん、はいこれそのまんまぶっつけます。
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# by tozanji | 2005-09-20 00:00 | 伝光録

第七章

第七章

第七祖、婆須密多尊者、酒器を弥遮迦尊者の前に置き、礼を作して立つ、尊者、問いて日く、是れ我が器となさんか、是れ汝が器となさんか。師思惟す。尊者日く、是れを我が器となさば、汝の本有の性なり、若し復た汝が器ならば、我が法、汝当さに受くべし。師聞きて大いに無生の本性を悟る。


師、姓は頬羅堕、常に浄衣を服す、手に酒器を持って遊行し、吟じうそぶき歩く。人は狂人と云う。弥遮迦尊者、遊化するに、城の辺に金色の祥雲起こる、これ道人の気なり、必ず大士ありて我が法嗣たらんと、云いおわらざるに、師来たりて問う、我が手中の物を知るや否や。尊者日く、是れ触器(不浄の器、触汚)にして浄者に背く。師すなわち酒器を尊者の前に置く。乃至大いに無生の本性を悟る。
酒器をもってうそぶき歩く、世を捨て遊行して歩くんですか、いいえ世のことあらゆる一切が、酒器の中に失せる、そういった塩梅です、はらだというのはばらもんの名だそうです。額に汗して稼ぐというのじゃなかったんでしょうが、共産党の忌み嫌う、西行や人に狂と呼ばれる、こういう人なつかしいです、どうにもこうにも本来本法性、自分という周辺に徘徊する以外なかったんです、ただこれの処置を知らなかった。まさに弥遮迦尊者に出会う、我が手中のものを知るや否や。満腔の思いを籠めるんでしょう、不浄のものは浄衣に似合わんぞという、これ尊者の掌中にあり、はたして酒器をその前に置く、尊者問う、これはおまえの器か、わしの器かと。さあどうであろうか、俗人のやりとりに似て、果然器が虚空に浮く、人の所有でもなく、ために他一切世界が消える。これをわしのものといえば、おまえの本来これ、もしまたおまえのものといえば、わしの法はおまえにあり。師大悟す。

霜暁の鐘扣くに随いて響くが如く、斯の中元より空盞を要せず。

姓を表さずと、師は尊者の前に初めて名告る、我無量劫より、この国に生まるるに至るまで、姓は頬羅堕、名は婆須密と。尊者日く、世尊阿難に語りて日さく、吾が滅後三百年にして、一聖人あり、姓は頬羅堕、名は婆須密、しかも禅祖に於て第七を得べしと。師日く、我れ往劫を思うに、かつて旦那となりて如来に一の宝座を献ず、彼記して日く、賢劫釈迦牟尼仏の法中に於て、位を継ぐべしと。霜暁の鐘扣くにしたがい響くが如くという、打てば響く、空じきった人の本来です、渾身口に似て虚空にかかる、東西南北の風をいとわず、おれは見性した、公案百発などいう、あるいは学者解説の類、こういえばああいうが、さっぱり打てば響くじゃない、どっか変なさかずき隠していて、ぼわんどこんとやるわけです、たとい2チャンだろうが一目瞭然これ。今婆須密多尊者、かくの如くの因縁ありて、打てば響くと、すなわち第七祖に列す、ではかくの如くの因縁という、空盞を忘れ去るに及くはなく、そのたった一つ持し来たった酒器を、尊者の前に置き、またそれを受ける、すなわち用がすんだら、投げうつによし。盞はさかずき。
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# by tozanji | 2005-09-19 00:00 | 伝光録

第六章

第六章

第六祖、弥遮迦尊者、五祖因みに示して日く、仏云はく、仙を修し小を学するは、縄の牽挽するに似たりと。汝自ら知るべし。若し小流を棄てて頓に大海に帰せば、当に無生を証すべし。師聞きて契悟す。


師は八千の仙人の長であった、一日衆を率いて提多迦尊者を礼して日く、我むかし師と同じく梵天に生まれ、我は阿私陀仙人に仙法を受け、師は十力の弟子となって、禅を修す。すでに六劫を経たりと。尊者日く、支離として劫を累ぬ、まことなるかな、虚ならず、汝今邪を捨てて正に帰して、仏乗に入るべし、むかし阿私陀仙人、我に記を授けて、六劫ののち同学に遇いて無漏果を証すべしと、尊者時に出家授具す、乃至大神通を示して、余の仙衆八千もまた出家す。尊者示して日く、仙を修し小を学するは、乃至師聞きて契悟す。人を説得するには大物を相手にしろとは、老師がよく云った、というのは大物は自分の至らぬことを知ると、尽くさぬもの、見習い中はまだなにかあると思っている、たいてい説いても無駄だ。仙を修するとは、インドの遠いむかしではない、今もって大小の仙術です、あやしげな思想分別、あるいは無知のわざもですが、科学哲学文学歴史という一切合財、仙であり小なんです、縄のひきまとうに似たり、尽くしてのち隙間風、支離として劫を累ぬ、まことなるかな、虚ならずと云ってくれる人が欲しいんです。無漏果が欲しい、もはやそれしかない、大安心です、頓に大海に帰する、でなけりゃ死んでも死に切れんです。無門関はいここにありますと示されて、乃至契悟す。

縱い連天秋水の潔き有るも、何ぞ春夜の月の朦朧たるに如かん、人家多くは是れ清白を要す、掃い去り掃い来たるとも心未だ空ならず。

仙を修し小を学するとは、人みな葦の髄から天井を覗くようなことするんでしょう、ついに得たり、みな人の得がてにすとふ、うずめ子ですか、そら楽しいたって、はたして辺りをへいげいしてもって、さてどうでしょう。たとい連天秋水の潔さあるも、歌の道に秀でさあて何を歌う、そっぽ向いた風景ですか、ノ-ベル賞博士の世界平和ですか、がきみたい妄想中のあんちょこ、そういうのいったんかなぐり捨てて、宇宙風呂ひと風呂どうですか、なんぞ春夜の月の朦朧たるにしかん、自分という箇の形骸うせて、ものみな成仏、平和を願うふりするんじゃなく、和という花に咲き開く。人家多くはこれ清白を要すと、しゃばのことみんなそうです、時時につとめて払拭せよ、でなくばという、人間失格だ、勤倹貯蓄、いえさ遊びほうけるんだって、計算ずくですか、死ぬまでそんなことやってて、老いさらばえて棺桶に入るんですか、妄想に吸い尽くされた、骨皮筋右衛門、心未だ空ならず、いたらずと知ったら潔く頓に無生の法です。
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# by tozanji | 2005-09-18 00:00 | 伝光録

第五章

第五章

第五祖、提多迦尊者日く、出家は我我無きが故に、我我所無きが故に、即ち心不生滅の故に、即ち是れ常道なり。諸仏も亦常なり。心に形相無く、其の体も亦然なり。毬多日く、汝当に大悟して、自心に通達すべし。師乃ち大悟す。


生まれた時、父の夢に、日屋より出でて天地を照らし、一の大山あって諸宝厳飾す、山頂に泉が湧いて、滂だとして四方に流れる。初めて参ずるときに、これを云えば、毬多尊者日く、日屋より出るは、汝今入道の相なり、天地を照らすは智慧の超越なりと、師もと香象と名ずく、ここに提多迦、通真量と名をかえ、もって偈を説く、巍巍七宝山、常出知慧泉、回為真法味、能度諸有縁。尊者また偈をもって日く、我法伝於汝、当現大知慧、金日従屋出、照耀於大地。師礼拝してついに出家を求む。尊者問いて日く、汝出家を求む、身の出家か、心の出家かと。師日く、我来たりて出家を求む、身心の為に非ず。尊者日く、身心の為にせず、復た誰か出家する。師日く、出家は我我無きが故に、ないし大悟す。
これはまったくすばらしいともなんとも云いようがないです。父の瑞兆あればまさに夢を信じ全うする、すでにこれ、仏説として過ちなく手に入っています、摩訶般若波羅蜜多心経と、毎日読みながら一言半句も、解しえぬとは、そっちのほうが珍現象ですが、我我無きが故にとは、ががと続けて読むんではなしに、するととらわれのある自我というような、曖昧解釈になってしまうです、自分というものがないんです、あなたはだれと聞かれて知らないと答える、仏教学者どものまったく知らぬこってす、自分という架空請求、砂上楼閣です。我我所無うして、応無所住而生其心の六祖禅師ですか、自分の所有のものがないんじゃない、わが所がないんです、するとまさに心経の説くように無です、不生不滅不垢不浄不増不減です、三世諸仏、無上正等菩提です、かってな解釈してお布施を稼ぐことなければ、心経まさに他になし。きくた尊者日く、まさに大悟して自心に通達すべし、ではそのとおりやってごらんと云う、師すなわち大悟す。仏教がわかったという、それだけじゃなんにもならんと知る、一00人が一00人こうであれば、世の中まことにすっきりします。

髄を得て須らく得処の明を知るべし、輪扁猶を不伝の妙有り。

如何なるかこれ仏法の真髄というんでしょう、おまえの云うのは真髄ではなく、皮袋であろうと大趙州が云う、仏教について習う、つに真髄を問う、ここらあたりを提多迦尊者は、いっぺんに通り越しているんですか、飯袋子この糞袋めという、とやこう人の言説知識の受売り交通整理ですか、仏教という未消化うんこですか、まあさ一つすすめて、その皮袋一枚はぎゃどうなる、血いだら真っ赤のお肉ですか、そんな無粋なこと云わない、もとなんにもなしの虚空です、わずか皮一枚に、心あり身ありだったんですよ、内蔵もお肉も感知しない=人間です、アッハッハ髄を得て得処の妙を知るべしとはこれ。転法輪というをもって、車を造る名人輪扁などを引っ張り出す、我我無我我所無とは、転法輪そのものなんです、ちらとも軸だのわだちだの云うたら、ちらともわけあり、てめえありじゃそりゃ転法輪にならんです、ために猶を不伝の妙あり、こうだからこうあるというんじゃ、大悟できんよ、魚変じて龍と化す妙、すなわち自分でやるっきゃないです。
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# by tozanji | 2005-09-17 00:00 | 伝光録

第四章

第四章

第四祖、優婆毬多尊者、和修尊者に執事すること三載、遂に為に落髪して比丘と作る。尊者因みに問ひて日く、汝身の出家なるや、心の出家なるや。師日く、実に是れ身の出家なり。尊者日く、諸仏の妙法豈身心に拘はらんや。師乃ち大悟す。


師は優婆崛多と名ずく、姓は首陀、バラモン、クシャトリア、バイシャ、ス-トラの四姓のうち雑役農耕なとの第四位、十五歳にして和修尊者に参ず、十七歳出家二十二歳にして証果とある。行化して到るに、得度の者はなはだ多し、証果の人を得るごとに、籌を石室に投げ、10mx7mほどの室にいっぱいになった、あたかも如来在世の如しと。世を挙げて無相好仏と呼ぶ。波旬、悪魔ですか、憤りを感じて、魔力を尽して正法を害せんとす、尊者三昧に入ってその所由を観ず。波旬は尊者のうなじに瓔珞、首飾りをかけた。尊者彼を伏せんと思い、人狗蛇の三屍を取りて、華鬘、花輪となして、珍なる瓔珞をもらった、お返しに華鬘を上げようといって、波旬の首にかけた。たちまち変じて三種の臭屍となる。腐れ蛆たかるんです、魔力神力を尽しても、どうしても外れぬ。泣きわめいて、六欲天に上り、梵天に参ってその解脱と求む。皆告げて云く、十力の弟子の為す所は、十力の弟子に頼る他なしと。十力とは如来十号という如く、波旬尊者の足を礼して哀露懺悔す、仏に帰依するをもって解脱すと。
どうですかこれ、あなた方も波旬と同じことをしてないですか、美しいすばらしい、愛だの平和だのインツ-イッションだのいう花環を首にかけて、仏に示される、すなわち気がつくと、そいつが三種の臭屍です、腐れうんちの蛆たかれ腐乱死体、わかりますかこれ、たといわかったろうが外れない、七転八倒するんです、ついに至心帰依をもって、解脱するんです。
波旬とはなにか、まずもってこれを省みて下さい。

家破れ人亡じて内外に非ず、身心何れの処にか形を隠し来たる。

拈提より、いわゆる身出家すといふは、恩愛を棄て家郷を離れて、髪を剃り衣を染め、奴卑を蓄へず、比丘となり比丘尼となり、十二時中弁道し来る。故に時として虚しく過ぐることなふして、外か所願なし。故に生をも喜ばず、死をもおそれず、心は秋月の皓潔たるが如く、眼は明鏡の翳なきが如し。心を求めず、性を望まず、聖諦なほ作さず、況んや世執をや。是くの如くし来りて、凡夫地にも住まらず、賢聖位にも拘はらず、転た無心道人たり。是れすなはち身出家人なり。
いわゆる心出家すとは、髪を剃らず衣を染めず、設ひ在家に住み、塵労に在りと雖も、蓮の泥に染まず、玉の塵を受けざるが如し。設ひ因縁ありて、妻子ありとも、芥の如く塵の如く覚して、一念も愛心なく、一切貪著することなく、月の空裡に掛かるが如く、玉の盤上に走るに似て、饒市中にして閑者を見、三界の中にして劫外を明きらめ、煩悩を断除するも病なりと知り、真如に趣向するも邪なりと明きらむ。ねはん生死是れ空華なり、菩提煩悩ともに管せず、是れすなはち心出家人なり。
このこと今もまったく変わりはないです。
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# by tozanji | 2005-09-16 00:00 | 伝光録

第三章

第三章

第三祖、商那和修尊者、阿難陀尊者に問ふ、何物か諸法本不生の性なる。阿難、和修の袈裟角を指す。また問ふ、何物か諸仏菩提の本性なる。阿難、また和修の袈裟角を取って引く。時に和修大悟す。


その名を商諾迦、自然服という、生まれたとき、衣を着て生まれる、それより以来、夏は涼しく、冬は暖かい衣となる。すなわち発心出家したとき、俗服おのずから袈裟となる。仏在世の蓮華式比丘尼は、たわぶれに袈裟をつけ、生まれかわって阿羅漢となる。尊者かつて商人であったとき、百仏に毛織物百丈を奉る、それ以来生生世世中有においても、自然服を著す。なにものか諸法不生の性なる、前代未聞の問いです、聞いたふうなこと、見たふうなことではない、是れ何物か恁麼来と、まったく疑問になり終わって問う、袈裟角を示す、他なしを知るんです、如何なるか聖諦第一義と、梁の武帝問うのに、達磨太子廓然無聖は、からりとして別段のものなし、なんにもないよ、個々別々だという。帝かなわず、自分の思想妄想辺に答えを出して貰えなかった、俗人一般まさに梁の武帝です、尊者はそうじゃなかったです、別段のものなしこれと示すのに、袈裟角を指す、そうかというんです、わが求め来たったものこれ。何物か諸仏菩提の本性なる、袈裟というそれ如何というのでしょう、朕に対する者は誰そ、知らないという、阿難袈裟角を引く、和修大悟す。
いいですか、大悟すとは認識の牙城、知っている自分を明け渡すんですよ、もって正法眼蔵ねはん妙心を付嘱す。

万仭巌上、無源水、石を穿ち雲を払って湧沸し来たる。雪を散じ花を飛ばして縱い乱乱たるも、一条の白練塵埃を絶す。

仏教についても座禅と見性だろうが、勉強しようがちょっとかじろうが、知識もノウハウもわんさか手に入る、それがなんにもならぬことを知る、百人あるいは千人に一人ですか、思想辺こうだからこうあるべきの横滑りじゃ、どうにもならんです。商那和修尊者は、すなわちこれを卒業したんです、万仭巌上です、自ずからなるを無源水、だからとかゆえにが失せた。築著荊棘を払い、世間常識仏はかくあるべきを、ぶち破って湧沸するんです、でなくば説得の価値もないんです、たいてい匙を投げて、かってにさらせと云いたくなる。そうして大悟するに、あるいはまったく元の木阿弥です、是非善悪によらぬただの人です、人間200%ですよ、そりゃもう押さえが利かぬ、というんとは違うが、なんでもありです、雪を散じ花を飛ばして乱乱です、しかも一条の白練、まっしろい練り絹です、塵埃を絶す、いずれのところにか塵埃をしかん、さっぱりとっつかんのですよ、みずとりの行くも帰るも跡絶えてされども法は忘れざりけり、世間一般とちがうのはまったく忘れ去って、法そのものなんです。
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# by tozanji | 2005-09-15 00:00 | 伝光録

第二章

第二章

阿難陀尊者、迦葉尊者に問ふて日く、師兄、世尊金襴の袈裟を伝ふる外、別に箇の什麼をか伝ふる。迦葉、阿難と召す。阿難応諾す。迦葉日く、門前の刹竿を倒却著せよ。阿難大悟す。


阿難尊者は王舎城の人なり、世尊の従兄弟にあたる、阿難陀、慶喜または歓喜という、如来成道の夜に生まれる、容顔端正にして見る人ごとに歓喜す、故にその名ありと。多聞第一にして聡明博識なり。仏の侍者として二十年、仏の説法として宣説せざるはなく、仏の行儀として学し来たらざることなし。さらに迦葉に随うこと二十年、あらゆる正法眼蔵悉く通達せずということなし。
そうしてこの因縁があります。師兄、師であり兄弟子です、すひんと読む、世尊お釈迦さまは、伝法の印の金襴のお袈裟の他に、何を伝えたんだろうという、かつて金襴のお袈裟など二の次三の次であったです、我に正法眼蔵ねはん妙心あり、あげて迦葉に付嘱すという、その畢生の大事、はあてなあというんです。ついにその時が来たんです、迦葉、阿難と呼ぶ、はいと応諾するのへ、
倒却刹竿著、
門前の旗竿を倒してこいという、阿難大悟す。
赤い旗を立てて、ここに大法ありのしるしです、もしだれあって法戦一場して、これをうち負かすと、竿を倒して行った。また次に譲る時はおのれの旗を倒したんです。阿難三日耳を聾すとあります、わずかに残ったうす皮一枚剥がれたんですか、正法眼蔵悉く身に就いて、すなわち行住坐臥行なわれるとは、忘れ切る他になく、仏とは何かという、いったいそいつがどこへ行った、大切この上もないものがという、ちらともあったんでしょう、俗人修行とちがうんです、ノウハウ=自分です、自分がなを残った、倒却刹竿著その糸がふっきれる。ついに摩訶迦葉から阿難に付嘱して、大法がつながったんです、今日に至る。
もし金襴のお袈裟の他に箇の何をかあったら、それでもう跡絶えるんです、じゃ仏法なんか、はじめっからなんにもないではないかという、しかり、これがなんにもないを他のだれも知らないんです、自分という架空請求、妄想に右往左往して、そこから抜けられないでいる、いわんや仏あり悟りあり、凡あり聖ありのしんどさ、醜さ。
たった一箇これを免れる、これが重大さをよくよく鑑みて下さい、そうです、あなたの出番ですよ、たとい二、三十年だろうが、倒却門前刹竿著。

藤枯れ樹倒れ山崩れ去り、渓水瀑漲して石火流る。
ほどけば仏の糸が完全にふっきれて、本来の自由を取り戻す、三日耳を聾すという、だれあっていまだかつて夢にだも見ぬもの。阿難尊者は、如来の遺経結集、第一回仏典結集のそれに、未証果の故に招かれなかった。阿難速やかに羅漢果を現じて、鍵穴から室に入るとあります、そうして阿難の宣説、如来生前の説法と寸分も変わりがなかったといいます、如是我聞一時仏在と、お経はことごとく阿難尊者から伝わったんです、南無経経阿難尊者。
それがなをかつ二十年をへて、はじめて葛藤妄想も枯れ、そいつの本体も倒れ、本体のあった山が崩壊する、渓水瀑漲して石火流れるんです、よくよくこの事思い取って、いえ見てとって下さい、いったいどういうことか、お釈迦さまより、あるいは仏教辺に詳しい人がなぜに、さらになぜに二、三十年の余計ものをと。

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# by tozanji | 2005-09-14 00:00 | 伝光録

第一章

第一章

第一祖、摩訶迦葉尊者、因に世尊拈華瞬目し、迦葉破顔微少す。世尊日はく、吾に正法眼蔵ねはん妙心有り、摩訶迦葉に付嘱す。


尊者生まれる時、金光室に満ちて、光ことごとく尊者の口に入る、よりて飲光と名付く。多子塔(ヴエ-シャ-リ西北三里に在り)前にして、初めて世尊に値う、世尊善来比丘と呼びたまふに、鬚髪すみやかに落ち、袈裟体に掛かる。すなわち正法眼蔵をもって付し、十二頭陀を行ずという、十二の規範となる修行禁欲の法です、十二時中空しく過ごさず、これより釈尊坐を分かつ、以来今に至るまで、衆会の上座たり。釈迦牟尼仏一会の上座たるのみにあらず、過去諸仏の一会にも不退の上座たり。霊山会上八万衆前にして、世尊拈華瞬目す、花をとって、目をぱちっとやったんです、皆心を知らず、黙然右往左往する中に、摩訶迦葉独り破顔微少す、ふっと笑ったんです。世尊日く、吾に正法眼蔵ねはん妙心、円明無相の法門あり、悉く大迦葉に付嘱すと。
いいですかこれ、花をとって瞬目、どうして八万大衆右往左往ですか、黙然なんですか、なぜに迦葉独り破顔微少なんですか、なぜによって正法眼蔵ねはん妙心悉く付嘱するんですか。まずもって初心に帰ってこれを思い、これを知って下さい、他にはまったくないんです、すると急転直下します、多子塔前においても、たった今のあなたにも、正法眼蔵ねはん妙心が付嘱します。はいこのとおりかくの如く。なぜに十二頭陀を行じ、十二時中身を横たえることもせず、形憔悴し衣は破れして、初めてこれを得るんですか。よくよく見てとって下さい。ただに他なくまっしぐらに得る、大迦葉の右に出るものなく、末孫おんぼろけのわしに至るまで、跪拝してちりっぱ一つ挟むことないんです。
大衆右往左往いったい何のためにというんですか、あるいは仏といい、座禅と見性といい、たとい何かあると思っているんですか、修行という世のため人のためなんですか。ちらともあれば破顔微少しないんです。ちらともなけりゃ、なんにもならんですか、いいえある分役に立たないんです。そんなの人間ではないという、もと人間であるのに、その上の人間なぞいらんです。一器の水が一器に漏れなく移るようにという、そんな姑息な一子相伝ではないこと、よくよく見て下さい。釈尊がなにをもって、迦葉に付嘱したんですか。なあんだもとなんにもない、そんじゃそりゃ当然、いえ付嘱することも不要じゃないかという、はいそのとおりです、それであなた満足できますか。たとい二千年を金剛不壊ですか。はい、ないものは壊れんですよ。

知るべし、雲谷幽深の処、更に霊松の歳寒を歴る有り。
こりゃまったくこの通りと他いいようがなく、拈提から抜粋します、ただ霊山会上のみ所住処というに非ず、あに梵漢本朝も亦漏れるることあらんや。如来の正法流転して一毫髪も欠くることなし。若ししかればこの会は、これ霊山会たるべし。ただ諸人の精進と不精進とに依りて、諸仏、頭出頭没せるのみなり。今日もしきりに弁道し、子細に通徹せば、釈尊直きに出世なり。ただ汝ら自己不明に依りて釈尊そのかみ入滅す、汝らすでに仏子たり、何ぞ仏を殺すべけんや。故に速やかに弁道して慈父と相見すべし、よのつね釈迦老漢、汝らとともに行住坐臥し、汝らとともに言語伺候して、一時もあい離るることなし。ゆえに仏子という。
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# by tozanji | 2005-09-13 09:22 | 伝光録