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第三十七則 い山業識

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 衆に示して云く、耕夫の牛を駆って鼻孔を曳廻し、飢人の食を奪って咽喉を把定す。還って毒手を下し得る者ありや。

挙す、い(さんずいに為)山仰山に問ふ、忽ち人有りて、一切衆生但だ業識茫茫として本の拠るべき無きありやと問はば、作麼生か験みん。仰云く、若し僧の来たることあらば即ち召して云はん、某甲と。僧首を廻らさば乃ち云はん、是れ甚麼ぞと。
彼が擬議せんを待って向かって云はん、唯業識茫茫たるのみに非ず亦乃ち本の拠るべきなしと。い云く善い哉。
 い山霊祐禅師は百丈懐海の嗣、仰山慧寂禅師はその嗣、い仰要路というものあり、まことにこの則も善き哉で、寒山拾得のつうかあですか、他なくにこうあるところ見事です。即ちい山不要の衆に示して云くです。耕夫の牛を駆って、鼻かんに綱つけて引っ張り回す、でないと手におえんらしいです、業識茫茫のとらわれ人間、無明煩悩どうしようもないんです、それがしと云って操縦するんですか、首を廻らせば是れなんぞ。アッハッハ今様人間の心理分析だの、めったくさとまるっきり違うんです、本当に効く薬はどうありゃいいんです。彼が擬議する、はてええとおれはやるんです、応えがない、応えようのない、飢人の食を奪って咽喉を押さえこんじまう、死ぬよりないっていう猛毒薬、ころあいはよしってんで、さよう業識茫茫たるのみに非ず、本のよるべきなし、根拠なし、まったくに奪う、いえ救い得るんですよ。如何なるか仏法の真髄、真髄でなくって皮袋だろうという。
 富士テレビとライブドアの一騎討ちですか、他山の石ですが、みにくいったらじじいども、嘘と裏腹ですか、いきなり屋の若い方がよほどすっきりする。たしかにテレビは面白くない、マスメディアという早晩滅びるんですか、云はば拠って立つところがない、視聴率に溺れて茫茫ですか、それじゃINはどうかというと、面のないなんでもありあり、未だ水準下。どうしたもんだといって弟子らが論ずる、あんなものは結局駄目か。人格なけりゃなんにもならんのは、人間社会です。いえ人間たといなにしようが人格です、必ずしっぺ返しを食うよりない。犯罪という糠に釘です、旧陋裁判の反省会じゃおっつかんです、司法は心に関わらぬと知ればいい。目には目をですか。
 業識茫茫もそれがしと、その意識なけりゃ首も廻らさず、擬議もなしはアッハッハ世も末、いや末法じゃという、おもしろうもないんですよ、末法だろうが一回きりの人生です、ついには本よるべきなしを知って、清々露堂堂です。

頌に云く、一たび喚べば頭を廻らす我を知るや否や、依きとして蘿月又鈎となる。千金の子纔かに流落して、漠漠たる窮途に許の愁いあり。

 一たび喚べば、おいと呼びなにがしと呼ぶ、頭を廻らすんですが、その我を知るやというんです、朕に対するは誰そ、磨云く不識。あなたはだあれと花に問う、花は知らないと応えるんです。人間だけが知っている、そうです知っている分がみな嘘です。醜く騒々しいんです。平和といっては戦争です、信仰といい思想といいろくでもないんです。でもこれ自分の辺に具現せねばしょうがないです、他山の石じゃないんですよ。依きのきはにんべんに希どうもよくわからんです。生まれついてより従いつく他ない生活ですか、反抗といい革命といったって首繋がっている、免れえないんです。満月たる自分が、オッホッホ自分という蘿つたかずらを通して、欠けて鈎となる鎌の月ですよ。あるいはそんじゃあといって釣針になるんですか。
 法華経にある長者窮子のたとえのように、長者として生まれて流落するんです。坐りなさい、なんでもありありでたらめめっちゃくちゃでいいですという、あなたの100%いえ200%マルですという。それがなかなかそうはならん、おれはだめだかすだやっているにつけ、坐禅はこうあるべき、仏教を見習えだからどうのです。
これを貧乏人困窮の子です。漠漠たるという、そうですよもとっから自分なんかないんです、自分なけりゃ満月という、実も蓋もない、おれの外は空虚、ばくばくたる云ってないで、ぽかっと捨てるんです、拠りどころがない、自分という根拠なし身心なし、空虚になったら空虚なし、単純な数学ですかわっはっは。

画像の出典  オーストラリアの野生植物/方丈の旅行記より
by tozanji | 2005-03-30 00:00 | 従容録 宏智の頌古


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