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第四十則 雲門白黒

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 衆に示して云く、機輪転ずる処智眼猶ほ迷ふ、宝鑑開く時繊塵度らず。拳を開いて地に落ちず、物に応じて善く時を知る、両刃相ひ逢ふ時如何が廻互せん。

挙す、雲門乾峰に問ふ、師の応話を請ふ。峰云く、老僧に到るや也た未だしや。
門云く、恁麼ならば即ち某甲遅きに在りや。峰云く、恁麼那恁麼那。門云く、将に謂へり侯白と、更に侯黒有り。

 こりゃ公案の中でももっとも噛み難く飲み下し難しっていうんでしょう、雲門文偃禅師は青原下六世雪峰義存の嗣、沙婆流にいうならこれまた不出世の大家です、越州乾峰禅師は洞山良价の嗣、上堂に云く、法身に三種の病二種の光あり、須べからく是れ一一に透過して始めて得べし、須べからく知るべし、更に照用同時向上の一竅あることを。雲門衆を出でて云く、庵内の人甚麼としてか、庵外の事を見ざる。師呵呵大笑す。門云く、猶ほ是れ学人の疑処。師云く、子是れ甚麼の心行ぞ。門云く、也た和尚相任せんことを要す。師云く、直に須べからく与麼に始めて解して穏坐すべし。門応諾す。すなわちこれあってののちの経緯でしょう、三種の病二種の光はどうぞ適当にお考え下さい、思い当たるというのは坐っていてです、通身思い当たって次に
はないんです、次いで通身失せるんです。庵内の人なんとしてか庵外を見ざる。どうですかこれ、大問題たらざるを得ない、自分というどう逆立ちしたってその中の問題です、実に仏教はその外にある。漆桶底を打破して、坐が坐になりおわるふうで坐っていて、さらにこれです。ちらとも自負するあれば庵内です。学者禅師どもきらきらしい禅境という、そんなものないです、ただの日送りです、一般の見る風景しかない。
そいつにむかって捨身施虎です。なんというつまらん四苦八苦の末にという、しゃあないどうもならんわと捨てる、ほんとうに他なし、浮き世もなんも200%自足するんですよ。呵呵大笑を強いて云えば内外なしですか。これなんの心行ぞ、もう一発ぶんなぐる、吹っ飛んで行けばよし、直きにすべからく「始めて解して」穏坐すべしです。さあでもって本則です。師の答話を請ふと云う、どうか云って下さいという、さすがにひっかからんですか。老僧に到るやいまだしや、これ思想分別上のこっちゃない、どうだおれっくらいになったかは世間一般、そうではない、おれに会ったらおれになっているんだろう、他なんかあるかって云ってるんです。宝鑑宝鏡三味です、形
影あい見るがごとく、向こうがこっち、汝これかれに非ずです。恁麼ならば云々、はてわしは遅きに失したか、アッハッハ問うだけ野暮ってね、恁麼那恁麼那そうかそうかってんです。ちえ白だと思ったら黒だってさ、侯白という男すりが、地下鉄サムですか、これも名人が、侯黒という女すりにしてやられる故事です、どうもこうもならんわってこれ、アッハッハ人と人が親しく付き合う常道です。

頌に云く、弦筈相ひ銜み、網珠相対す。百中を発って箭箭虚しからず。衆景を摂っして光光礙ゆるなし。言句の総持を得、遊戯の三味に住す。其の間に妙なるや宛転偏円、必ず是くの如くなるや縦横自在。

 網珠というのは一の明珠内に万象倶に現ずという、ほか複雑怪奇な説なんですが単純にこれ帝釈天の網珠、天網快快粗にして漏らさずなどいう、講談師の語もこれによる。弓の弦と矢筈が銜はくつわ、ぎょうにんべんに卸とあって同じです、あいはむんです。明珠と明珠が相対すんですな、するとなにをどうしようが、当たらずということなし。一般ぼんくらと同じにして光通達です、銀椀に雪を盛りです、おりゃそうでなけりゃ意味ないです。われらが箇のありよう、まったく他なし。言句の総持を得る、語未だ正しからざるが故に、重離六交遍正回互と算木六十通り分いっぺんに見える、もと人間のやることなんぞ決まってるんです、場合の数があるだけそっくり
です。ゆえに遊戯三味、だれがなにしてどうだって云われると、へえっていってだまされているっきり、嘘いおうがなに云おうがよしよしの老師は、すなわち相手が転ぶ、申し訳なかったなといったってよしよし。これなんぞ、妙なるかなは坐って下さい、坐にまさるものなし、たといどんなものにも代え難いんです、宛転偏円世の常もって縦横無尽。

画像の出典  オーストラリアの野生植物/方丈の旅行記より
by tozanji | 2005-04-02 00:00 | 従容録 宏智の頌古


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