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第四十八則 摩経不二

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 衆に示して云く、妙用無方なるも手を下し得ざる処有り。弁才無礙なるも口を開き得ざる時有り。龍牙は無手の人の拳を行なうが如く、夾山は無舌人をして解語せしむ。半路に身を抽んずる底是れ甚麼人ぞ。

 挙す、維摩詰、文殊師利に問ふ、何等か是れ菩薩入不入の法門。文殊師利日く、我意の如くんば一切法に於て無言無説、無示無識にして諸の問答を離る、是れを入不入の法門となす。是に於て、文殊師利維摩詰に問ふて云く、我等各自に説き已る、仁者常に説くべし、何等か是れ菩薩入不入の法門。維摩黙然。

 これは維摩経入不入法門品第九の文だそうです、維摩詰イマラキールテ無垢称と訳す、釈尊と同時代の人維摩居士。文殊菩薩は智恵第一の、普賢菩薩は行ない清ますこと第一の、お釈迦さまの両脇侍です。菩薩入不入の法門とは、無漏余すところなしです、説いても説かずとももとこの通り、自覚するも無自覚も同じです。これを得るにはまさにこれに住すしかなく、文殊菩薩、我が意の如くなればと、各自まさにもって示して下さい。唯物論がどうの唯識だ空論がどうのと、たわけたことをいう人、たといなんの為にし、たとい得てなんになるかという、まっぱじめの問題に答えを出して下さい。でないと長柄を北に向けて南を求める、マンガにもならんのです。外道の云うかいなくではなく、一切法の疵あるなく、無言無説無示無識、一輪の花のように諸の問答というも塵埃です。さあ道うてみろと云われて、黙然ですか、そんな花ないですよ、すみれ一輪百千万億です、しかもなんというけれんのなさ。人間も人間の如来に同ぜるが如し、なんの過不足もないはずです、だのになんの言説。

 頌に云く、曼殊疾を問ふ、老毘耶、不二門開けて作家を看る。 表粋中誰か賞鑑せん、忘前失後咨嗟すること莫れ、区区として璞を投ず楚庭のひん士、燦燦として珠を報ず隋城の断蛇、点破することを休めよ、 瑕を絶す、俗気渾べて無うして却って些に当たれり。

 曼殊は文殊に同じ、毘耶は毘耶城に住んでいた惟摩居士のこと、入不入の不二の門開けて、かつて見たこともなかった、思想観念によらぬ世界です。思い込みによらぬ作家を見るんですこれあって初めて仏教帰依です。らしいにせのキリスト教じゃないんです、信じたって迷妄、みんなでもって神のみもとへ、選良だろくでもないことしてないで、人間も脳味噌にしてやられ卒業して、新人類ですか。アッハッハどうにもこうにもの今世紀、生まれ変わって下さいよ、こんなふうじゃやってられんです。この項中国人垂涎の玉について、漢和辞典で捜す玉ばっかり出て来ます、玉に民は燕みん玉に次ぐものとあります、みん中玉表、表は石で中に玉、せっかく玉なのにそれに気がつかない。惟摩黙然呆然自失も、咨嗟ため息して嘆くんです、なにさそんなこといらんよっていうんです。楚庭ひん月に賓です士、卞和三献の故事です、両足切られてなをも献じて玉なりとす、いいからまっしぐらにやれってこってす。隋城断蛇は、大蛇の疵を治してやったら玉を吐いて報いた、明なること月の照らすが如く、明月の珠と名付くとある。まあ蛇だって珠を報ずるってわけです、点破するたいていの人これです、せっかく坐りながら点検です、いいのわるいのやっている、入不入の法門思い切って点破、点検するから破れるんです、これをなげうつんです。疵を絶することもと疵なし、手つかずの法門安楽の法です、すなわち手を付ければ手を付けたがあるんです、付けなければもとない、只管打坐、俗気さらになけれぼそれを瑕疵です。惟摩居士ならずはたといこれを得ずですか、人人大いに真正面。

画像の出典  オーストラリアの野生植物/方丈の旅行記より
by tozanji | 2005-05-18 00:00 | 従容録 宏智の頌古


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