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第五十八則 剛経軽賤

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 衆に示して云く、経に依って義を解するは三世仏の冤、経の一字を離るれば返って魔説に同じ。因に収めず果に入れざる底の人、還って業報を受くるや也た無しや。

挙す、金剛経に云く、若し人の為に軽賤せられんに、是の人先世の罪業ありて応に悪道に堕すべきに、今世の人に軽賤せらるるが故に、先世の罪業即ち為に消滅す。

 金剛経、大般若経題五百三十四金剛能断分の別訳だそうです、金剛経を背負ってやって来て、ばあさんに三心不可得とそのお経にあるが、いずれの心にて団子食うかと問われた徳山和尚など、けだし仏教の真髄ともいうべきものでしょう、六祖応無所住而生其心の因縁もこれに依る、よく出て来ます、どうもわし読んだことないです。
お経から仏教を求めるのは、三世仏の冤あだと読むごとく、ろくでもないことになるっきりです。アンチ仏教の坊主学者をこさえるっきり、もと仏があってお経です、ではお経なんかいらないといって、そりゃそのとおりなんです、まず仏である自分に行き合う、無自覚の自覚をえて七通八達です、言句上に求めて、経によって義を解するは、ただそういう三百代言を作るだけです、まったくつまらんのです。人を救うどころかその説、人に聞いてもらわねば収まりきらん、仏教を云々しながら仏教とは無関係。駒沢を出て雲洞庵に坐って、今の坊主どもはけしからんなどいって、不聊をかこつ変なのがいて、いじましいったらげじげじみたいのが、仏教だなぞやってた
り、こないだ覗いたら、もうだれも坐らなくなって久しい僧堂があった、涙流れたです、越後一の寺なる修行道場がなんたること。
 それでもこの項面白いです、まさに人を救うんです、たしかに達磨さんも他にないがしろにされ軽んぜられ賤しまれという、アンチ仏教坊主の中に、わしらたいてい異端阿呆扱いされて、でもそいつを顔に現わす、文句のたねにするなど愚の骨丁です。
法要にあって法要してりゃいい、蛙やうぐいすよりもちっとはましにお経あげてますよ、木石に等しいんです。せめてそれできなければ、先世の罪業の即ち為に消滅すと知ればいいです、そりゃもっともそういうこってす、いえ世の中軽んじられようが、自分卑屈卑小になってはつまらんです。今に見ていろ僕だってというも騒々しいです。只管に打ち坐るのに、そりゃまずもって一物不将来がいいです、百般糠に釘ですか、いいえ単にただ正令全提です、わきめもふらずです。たといお経もこれが助けになりゃいいです。

頌に云く、綴綴たり功と過と、膠膠たり因と果と。鏡外狂奔す演若多、杖頭撃著す破竈堕。竈堕破す。却って道ふ従前我に辜負すと。

 綴綴たり功と過という、そりゃあ功と過を勘定すりゃどうでもそうなるんです、功や全機元過や全機元というと、なんか大げさですが、功過人間さまの勝手です、いつだってそのものそれっきり。人間さまに二つないんです、膠膠たり因果もこれを云えばきりもなくとっつきはっつきするんです、たいてい気違いになっちまうというのも、気違いは犀利にできています、綿密というのか雑多じゃない、気違いと常人の区別がないのは、だからといいゆえにといって生きているんです。お経を読んでだから故にやるも同じです、犀利に尽くすと狂うんです、放下著投げうつともとものはそのとおり行なわれているんです。坐禅の方法これです、手つかずです。万法からすすみ
て我を証拠するんです、えんにゃだったは鏡に映る自分の姿を見て、それを愛するんですか、いつか気に食わない、わあわあいうて狂い出すんです、他に標準を求めることかくの如し、近似値ほどひどいんです、ただあるがまんまのぴったりとは、我からすすみて万法を求めては気違いです。えんにゃだったは自分がないといって走り回る、お釈迦さまがぽんとその頭を叩いて落着です、実にこれ修行の人です、自分がない、おれはどこへ行ったという人いましたよ、宝鏡三昧影形あい見るが如くに、ついに失せる、自分というものなけりゃいられないという思い込み、実はそれによって苦しんでいたのにです。なくっていいんですよはいぽん。破竈堕和尚という人、かまどをぶち割って、この竈泥瓦合成す、聖何れよりか来たり、霊何れより来たりて恁麼に物命を辜負するやと、竈の神が現れて、おかげをもって本来本性を知るといった。まあそういうこってす。いつまで煮炊きの竈やってないんです、辜負とは背くこと、人生最大の罪は自分に背くこと、自分というちらともありゃ背くんですよ。
by tozanji | 2005-05-28 00:00 | 従容録 宏智の頌古


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