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第六十一則 乾峰一画

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 衆に示して云く、曲説は会し易し一手に分布す。直説は会し難し十字に打開す。君に勧む分明に語ることを用いざれ。語り得て分明なれば出ずること転た難し、信ぜずんば試みに挙す看よ。

挙す、僧乾峰に問ふ、十方薄伽梵一路ねはん門、未審し路頭甚麼の処に在るや。
峰、柱杖を以て一画して云く、這裏に在り。僧挙して雲門に問ふ。門云く、扇子勃跳して三十三天に上り、帝釈の鼻孔に築著す。東海の鯉魚打つこと一棒すれば、雨盆の傾くに似たり、会すや会すや。

 越州乾峰和尚は洞山良价の嗣、ばぎゃぼん世尊と訳す、十方法界我が釈迦牟尼仏の声と姿と、ものみなあまねく仏如来というのに、いぶかし路頭いずれの処にありや、どこに現れているのかという、これ学人だれしもの疑問でしょう、すなわち自ら仏ならば十方仏、自ら知らざれば十方現れずです、どうかしてこれを知りたい、すでに機熟せりと問うには答えるんです、峰云く、杖に一画してここにありという、一画のここになり終わっておればいいんです。急転直下這裏にありです、就中そうは行かなかった、却って雲門に問う、雲門云く、扇子が躍り上がって三十三天に至り、帝釈天の鼻の孔にとっついた、今度は東海に巨大魚があってそいつぶんなぐれば盆をくつがえしたような雨が降るっていうんです、会すや会すや。自分という天地宇宙の異物として、架空の囲いをしている、なんせそいつをぶち破ってやろうという親切です、アッハッハ曲説ですか、委細に説くことはためにならぬといって、どっちみち身も蓋もない事実です。無眼耳鼻舌身意、身もなく心もないところへ帰家穏坐すればいい、直説は十字に打開、ぶった切って架空を粉砕する力、そりゃなんたってそいつが欲しい、たった一通りあるっきりの、こうして解説してなにが親切という、もとなんにもなりゃしない、むちゃくちゃめったらしてぶち抜いて下さい、いぶかし十方薄伽梵と当たって砕ける以外ないんです。師家としては会すや会すや、という他なく。何が分明語りえて分明というその外にあるんです。捨身施虎。

頌に云く、手に入って還って死馬を将って医す。返魂香君が危ふきを起こさんと欲す。一期通身の汗を拶出せば、方に信ぜん儂が家眉を惜しまざることを。

 混沌に目鼻をつけたら死んでしまったという、仏説を説くに当たって手に入るには手に入るんですか、いえそんなこたないです。説くといったって説く物がなく、一画してこれと示す以外になく、次に一画を外してそれと云うんですか、わしは他に接するに当たって、何をどうしたらいいかさっぱり不安です、自信なんかあったもんじゃない、でも相対すると、駄目だ、こうだとか予想外のことやってます。ちっとは外れたか、ええもうちょっとうまく云えりゃいいんだがと。わしに接するだけで幾分かはと、そりゃ思うには思ってます。か細い線みたい、板っぺらみたいの、せっかく三十三天築著大鯉の頭ぶんなぐって雨降らせも屁の河童、だのにってわけです。返魂香ですか、死んだら蘇るんです。いえ死んだらもっと死ぬってことないかって、あるんですよ。死ぬっきり自分の外が蘇るんですか、いえ外はもと外っきり、自分死ねば外=全体ってだけです、魂が返って来るんです、そのためにはちった汗流して下さい、でもって仏説なあるほどなあってことあります、たしかにこりゃ他なしだって感心します、いえ感嘆賛嘆威なるかな大慈大悲。なにしろとっ外して下さい。

画像の出典  オーストラリアの野生植物/方丈の旅行記より
by tozanji | 2005-05-31 00:00 | 従容録 宏智の頌古


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