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第六十六則 九峰頭尾

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 衆に示して云く、神通妙用底も脚を放ち下さず、忘縁絶慮底も脚を抬げ起こさず。
謂つべし有時は走殺し、有時は坐殺すと。如何が格好し去ることを得ん。

挙す、僧九峰に問ふ、如何なるか是れ頭。
峰云く、眼を開けて暁を覚えず。僧云く、如何なるか是れ尾。峰云く、万年の牀に坐せず。僧云く、頭有りて尾無き時如何。峰云く、終に是れ貴とからず。僧云く、尾有りて頭無き時如何。飽くと雖も力なし。僧云く、直きに頭尾相ひ称ふことを得る時如何。峰云く、児孫力を得て室内知らず。

 九峰の道虔大覚禅師は石霜慶諸の嗣、頭尾という、頭は入得の最初初心の修行を云う、尾は末後の牢関究竟のねはんを云うとある、初発心と終に得るところとですか。
終に得るとはどういうことか、況んや元の木阿弥、虎を描いて猫にもならず、終にこれ鼻たれの栄造生、良寛さんの幼名ですが、なんかたいへんなことをしたんだというのが失せる、いったいおれはなにをやっていたんだというしばしばあって、それも失せてなにかこう、引っ込んでないんです、どういってみようもないんですが、他と接すると圧力の違いみたいな、万年の牀に坐せずは、云いえて妙です。九峰なんて聞いたこともねえがなんだと思ったら、はーいっていって納得。眼を開けて暁を覚えず、それっこっきりに入れ揚げるのと、暁が見えない、暁になってこっちを見ているんです、不思議な光景があって初発心の満足を知る。これだという、これだという大
まさかり振り回しては、ついに是れ貴とからず。また初発心のみという、まさにこれそういうことなんですが、悟りという一札なければ、尾あって飽くとも力なし、なんにもなりはしないんです。有耶無耶の世界に終わる、頭尾あいかなうことを得るとき如何、アッハッハそれがし有耶無耶と云いたいところですが、児孫力を得て、ようやく作家ですが、することなすこと別段ないんです、ぴったりとさへ思わずのものみな標準。うれしくもなんともないですか、うっふまあそう云っておけ、室内秘伝なんてあるわけがない、出ずっぱりになっちまう。朝に天台に行き夕に南岳に帰るといえば一蒲団上の入息出息と坐殺、どうもそういうけちなこと云わんです。

頌に云く、規には円に矩には方なり。用ゆれば行ない舎つれば蔵る。鈍躓蘆に棲むの鳥、進退籬に触るるの羊。人家の飯を喫して自家の牀に臥す。雲騰って雨を致し、露結んで霜と為る。玉線相投じて針鼻を透り、錦糸絶えず梭腸より吐く。石女機停んで夜色午に向かう、木人路転じて月影央ばを移す。

 規はぶんまわし、つまり円を描く、矩は定規、規矩といってまた僧堂規則をいう、老師会下に、規矩なしをもって規矩となすとしたのは、板橋興宗禅師であった。
宗門にはついに老師会下が起こる、そりゃ他には仏教のぶもなかったんでしょう。威儀即仏法行事綿密という猿芝居に葬式稼業の、云う甲斐もなさ、大法あるというても本当の法とは遠かった。用いれば行ない、捨てれば蔵るという、そりゃまあそういうこって、蘆に棲む鳥のどったばった、まがきに触れる羊の滑稽、人の家の飯を喫しててめえんとこの牀に坐す、どうですかまったくそういうことやっていませんか。西に向かって東を求める、百年河清を待つは、こっちの岸でパーラミーター彼岸へ渡ろう、渡ったやってるんですよ。反省すべきはまさにこの一点なんです、さあ坐ってごらんなさい、まったく違うんです。針鼻は針のめど、梭腸は梭の糸口、いったん緒に就くということあって、ついにはそれを忘れるんです。多少の苦労はあります、雲おこって雨降らし、露むすんで霜となるなーんてわけには行かんか、でもものみな自分がして自分が苦しんでいる、まったくの天然現象ですよ、因果歴然と坐ってるようなもんです、知らぬは自分ばかりなりってね。従い木人まさに歌い石女舞う、はーい万事お手上げ、勝手にしてくれってなもんで、しばらく落ち着くんです、なにさどうせ棺桶に入るっきりだっていうなら、ミイラになって活仏。

画像の出典  コデマリ/ 静岡市にて
by tozanji | 2005-07-04 00:00 | 従容録 宏智の頌古


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