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第八十一則 玄沙到県

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 衆に示して云く、動ずれば即ち影現じ、覚すれば即ち塵生ず。挙起すれば分明、放下すれば隠密。本色の道人の相見、如何んが説話せん。

挙す、玄沙蒲田県に到る、百戯して之を迎ふ。次日小塘長老に問ふ、昨日許多の喧にょう甚麼の処に向かって去るや。小塘袈裟角を提起す。沙云く、遼挑没交渉。

 玄沙宗一大師、雪峰義存の嗣法名は師備、動ずれば即ち影現じ、覚すれば即ち塵生じと、これ参禅の様子です。すべてが自分でやっている、そいつを追いかけていては百年河清を待つです、挙起すれば分明、放下すれば隠密と、なにかあると思っている、そういうかぎり裏表なんです。もとまっさらだからという、でもってこうあるべきという、すると影現じ塵生ずです。いつまでたってもかくの如し、なあんてめえでやってるっきりっていう、ぼかっと一つ開けて下さい。勝手にやっとれでもいいですか、真っ正面向きますか、如来として現じ如来として空ず、自覚の外といったらいいですか。相見如何が説話せんと、あるとき道えばいい、ただそれっきり。玄沙が行くと百戯、いろんな芸事余興をもって出迎えた、次の日、喧にょうは門に市、あのにぎやかなのどうなったと聞く、長老袈裟角をとって示す、是は是なんでしょう、もしや百戯も仏法のうちなんて、そりゃ甘え根性です。沙云く、りょうは寮に頁です、りょう挑疎遠の意、没交渉もっきょうしょうと習わしに読む、関係がないっていうんです、昨日は昨日今日は今日、いいですか絵に描いた餅じゃないんです、一瞬まえの有耶無耶がもうない坐禅、有耶無耶が有耶無耶でないんですよ、だってさだれ観察しない、ただこうあるっきり、たとい千変万化もです。

頌に云く、夜壑に舟を蔵し、澄源に棹を著く。龍魚は未だ知らず水を命となすことを、折筋は妨げず聊か一攪すること。玄沙師、小塘老。函蓋箭鋒、深竿影草。潜縮や老亀蓮に巣くい、遊戯や華鱗藻を弄す。

 壑は谷、夜壑に舟をかくし、まあ百戯終わって静まり返ったんですか、でも百戯の真っ最中も同じく静まり返っています。なに変わることなく楽しいには楽しいいんです。澄んだみなもとに棹を著く、どうであったなど余計こと云わずもがなです、わと盛り上がって翌朝もう坐っています。坐中昨夜のことなんか思い出さないです、思い出したって、龍魚は未だ知らずです、住むべき水これとやるから坐が乱れるんです。まあそうであってはならぬからに、函蓋箭鋒ぴったり行っているか、深竿影草どうだ問題はないかとやる。一日能登の祖院に修行中の弟子を見舞い、翌日金沢に遊びして来ました、能登総持寺は美しい壮大な伽藍で、環境は申し分なしです。思いのほかの歓待を受けて恐縮でしたが、暁天坐中大梵鐘を打つという、いつごろから行なわれ出したか、そりゃこの事を知らぬ人のあてずっぽ有心のものです、我と我が身心とどうでもいったんは対決せにゃ得られんです、たわけた儀式慇懃じゃそりゃ届かんです。わが心の大本山に仏のほの字もないかと、伏せっていたら監院老師と二人訪ねて来て、法の話でした、滞るところあってどうしたらよいかという、施設して開枕にいたる。ふっと涙が出たです、よかったと思ったです。葬式バッタの世の中でもないんだなと思う。金沢は北陸新聞の記者にけっこう行っている人がいて、蕎麦屋から料亭兼六公園と案内して貰ったです、彼を相見し、接客業仲居の二、三人顔の和むのを見る。そうかわしも役には立つんだという。潜縮や老亀蓮に巣食い、遊戯や華鱗藻を弄ぶ、退屈もせんですがまったく心動かぬのです。夢のように楽しいんですか、カラオケには眠ったふりするよりなく、心身症のまだ睡眠薬飲んでいる女の子が、昨夜盛り上がった代り朝はぼけえとして、並んでチェックアウトしたら、たいへんお疲れのご様子でと云われて笑っちまった。アッハッハそんなこってへっこまんですよ。

画像  都会の中の春/東京都恵比寿2005年春
by tozanji | 2005-07-19 00:00 | 従容録 宏智の頌古


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