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第九十則 仰山謹白

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 衆に示して云く、屈原独り醒む正に是れ燗酔。仰山夢を説く恰も覚時に似たり。且らく道へ万松恁麼に説き、諸人恁麼に聞く。且らく道へ是れ覚か是れ夢か。

挙す、仰山夢に弥勒の所に往いて第二座に居す。尊者白して云く、今日第二座の説法に当る。山乃ち起って白椎して云く、摩訶衍の法は四句を離れ百非を絶す、謹んで白す。

 仰山慧寂禅師、い山霊祐の嗣、摩訶衍は大乗の法だそうです、四句百非とは外道論争の道具とある、一、異、有、無を四句とし、四句各四句あり更に三世に約し云々と百非、まあインド流の総てを網羅。まことに痛快な話で、夢に弥勒菩薩の第二座であった、今日第二座の説法に当ると、すなわち起って、大乗の法は四句を離れ百非を絶す、つつしんで白すと。まったく他ないんです。とやこうなんで弥勒だ、お釈迦さんじゃないのか、どうして第二座だとかいってないで、自分も夢だろうが現実だろうが、したがい第三座だっても、ばかっと起ってやってみりゃどうです、首すっとんだって他にゃないんです、字余りぐずって三千里の外、そんじゃ坐る坐ったらなんとかど、あほなこと云ってないんですよ。屈原は詩人じゃなかったのかな、楚王に仕えてあるときは賛せられあるときは貶せられ、世挙げて皆酔へりただ我独り覚めたり、世挙げてみな濁る我ひとり清たりといって、河に沈むとある。まさにこれ燗酔とある、世間正直が酔っ払い、まさにこの例を見よという。世間常識をかなぐり捨てなけりゃ、そりゃ物にならんですよ、キリスト教の狂信者みたいなんかって、信も不信もないまったく他なし、これを知らんけりゃそりゃ駄目です。四句を離れ百非を絶す、いいえものみなかくの如し。

頌に云く、夢中衲を擁して耆旧に参ず。列聖森森として其の右に坐す。仁に当たって譲らず健椎鳴る。説法無畏獅子吼す。心安きこと海の如く、胆の量斗の如し。鮫目涙流れ、蚌腸珠剖る。譫語誰か知かん我機を洩すことを。ほう眉応に笑ふべし家醜を揚ぐることを。四句を離れ百非を絶す。馬師父子病に医を休む。

 衲は破れ衣、擁はかいつくろう、破れ衣を正して耆旧、耆は年寄る、つまり列聖です、森森として其の右に坐す、まさにまったくです、今様評論家脇見運転にはわからない、どうしようもないのばかり増えて、人間も国も滅びますか。仰山夢に見るところ、けん椎、健に牛へんです、鳴りもの、今も使っています、八角のつち、白槌するといいます、にせ坊主猿芝居とは、仏祖師になんと申し開き、ほんにまあ道具立てばかりって、近頃の諸道具、坊主のどうしようもなさを見て、ほんにずさんで値段ばかり高い、そりゃまあものはそうなるわな。説法無畏獅子吼するところ、仏教途端に蘇るんです、これが滅びてなるか、安心は大海の如く、胆嚢斗で量るってなもんの。蚌腸ははまぐり真珠を生むんですか、鮫の目に涙も同じく、ほう眉半白の太い眉、うっふっふすべからく家醜を揚げて下さい、馬大師月面仏、日面仏、百非を絶したありさま。いやまあたいした詩人ですな、よくもまあこんなに云いつくろって、しかもすっきりずば。
by tozanji | 2005-08-13 00:00 | 従容録 宏智の頌古


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