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第五章

第五章

第五祖、提多迦尊者日く、出家は我我無きが故に、我我所無きが故に、即ち心不生滅の故に、即ち是れ常道なり。諸仏も亦常なり。心に形相無く、其の体も亦然なり。毬多日く、汝当に大悟して、自心に通達すべし。師乃ち大悟す。


生まれた時、父の夢に、日屋より出でて天地を照らし、一の大山あって諸宝厳飾す、山頂に泉が湧いて、滂だとして四方に流れる。初めて参ずるときに、これを云えば、毬多尊者日く、日屋より出るは、汝今入道の相なり、天地を照らすは智慧の超越なりと、師もと香象と名ずく、ここに提多迦、通真量と名をかえ、もって偈を説く、巍巍七宝山、常出知慧泉、回為真法味、能度諸有縁。尊者また偈をもって日く、我法伝於汝、当現大知慧、金日従屋出、照耀於大地。師礼拝してついに出家を求む。尊者問いて日く、汝出家を求む、身の出家か、心の出家かと。師日く、我来たりて出家を求む、身心の為に非ず。尊者日く、身心の為にせず、復た誰か出家する。師日く、出家は我我無きが故に、ないし大悟す。
これはまったくすばらしいともなんとも云いようがないです。父の瑞兆あればまさに夢を信じ全うする、すでにこれ、仏説として過ちなく手に入っています、摩訶般若波羅蜜多心経と、毎日読みながら一言半句も、解しえぬとは、そっちのほうが珍現象ですが、我我無きが故にとは、ががと続けて読むんではなしに、するととらわれのある自我というような、曖昧解釈になってしまうです、自分というものがないんです、あなたはだれと聞かれて知らないと答える、仏教学者どものまったく知らぬこってす、自分という架空請求、砂上楼閣です。我我所無うして、応無所住而生其心の六祖禅師ですか、自分の所有のものがないんじゃない、わが所がないんです、するとまさに心経の説くように無です、不生不滅不垢不浄不増不減です、三世諸仏、無上正等菩提です、かってな解釈してお布施を稼ぐことなければ、心経まさに他になし。きくた尊者日く、まさに大悟して自心に通達すべし、ではそのとおりやってごらんと云う、師すなわち大悟す。仏教がわかったという、それだけじゃなんにもならんと知る、一00人が一00人こうであれば、世の中まことにすっきりします。

髄を得て須らく得処の明を知るべし、輪扁猶を不伝の妙有り。

如何なるかこれ仏法の真髄というんでしょう、おまえの云うのは真髄ではなく、皮袋であろうと大趙州が云う、仏教について習う、つに真髄を問う、ここらあたりを提多迦尊者は、いっぺんに通り越しているんですか、飯袋子この糞袋めという、とやこう人の言説知識の受売り交通整理ですか、仏教という未消化うんこですか、まあさ一つすすめて、その皮袋一枚はぎゃどうなる、血いだら真っ赤のお肉ですか、そんな無粋なこと云わない、もとなんにもなしの虚空です、わずか皮一枚に、心あり身ありだったんですよ、内蔵もお肉も感知しない=人間です、アッハッハ髄を得て得処の妙を知るべしとはこれ。転法輪というをもって、車を造る名人輪扁などを引っ張り出す、我我無我我所無とは、転法輪そのものなんです、ちらとも軸だのわだちだの云うたら、ちらともわけあり、てめえありじゃそりゃ転法輪にならんです、ために猶を不伝の妙あり、こうだからこうあるというんじゃ、大悟できんよ、魚変じて龍と化す妙、すなわち自分でやるっきゃないです。
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by tozanji | 2005-09-17 00:00 | 伝光録


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