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第四則 世尊指地

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 衆に示して云く、一塵纔かに挙ぐれば大地全く収まる。疋馬単槍、彊を開き土を展ぶることは、処に随って主と作り、縁に遇うて宗に即する底なるべし、是れ甚麼人ぞ。

挙す、世尊衆と行く次いで、手を以て地を指して云く、此の処宜しく梵刹を建つべし。帝釈一茎草を将って地上に挿して云く、梵刹を建つること已に竟んぬ。世尊微笑す。

 一塵わずかに挙って大地まったく収まるとは、実に仏道修行のありさまです、ついでこの則の事跡を云ったんですが、我と我が身心を如何せん、どうしたらいいか、このまんまでは、にっちもさっちも行かんていうことあって、仏門を叩くんです。たいていは七転八倒の末にです。わずか一微塵がなかなかどうして、でもついに悟り終わる。大地全く収まると元の木阿弥です。意あれば三つのがき意なければ父母未生前です。これたしかに得るものなしもとっこですが、彊つよい大変な勢力を云うんですが、従前の妄想自分=自分という面の皮=世間の重囲をぶち破って、土を展ぶる平らかに収まるとは、未だかつて知らず、見たことも聞いたこともない世界なんです。処に随って主となり縁にあうて宗となる、自由自在ものみな我です、坐っていてあれこれ手続きなく、ものみなまったく失せて済々は、なんともこれ形容のしようがないです。たといどんな苦労も厭わんです、生涯わしのようなおしまいだっても、一瞬かけ
がえがないんです。是れ何人ぞ、はい答えはないんです。

 お釈迦さまは四十年間托鉢行脚して一処不定住です、どうにも及びもつかぬ、頭の下がる所以です、あるときはどんなに梵刹、修行道場みなの拠る処が欲しかったでしょう、祇園精舎という、寄進を受けた道場があったですが、東奔西走の年月が長かった、そういう時の一節と思って下さい。ここに梵刹を建てようという、帝釈天が、あるいは帝釈という一弟子でいいです、一茎の草をとってそこへ挿し、はい建て終わりましたというんです、世尊微笑す。涙溢れるっきりでコメントのしようがありません。
 これ仏弟子の本来、ものみなの本来です。
頌に云く、百草頭上無辺の春、手に信せ拈じ来て用ひ得て親し、丈六の金身功徳聚、等閑りに手を携へて紅塵に入る、塵中能く主と作る、化外自ら来賓す、触処生涯分に随ひて足る、未だ嫌はず伎倆の人に如かざることを。

 百草頭上草ぼうぼうの春ですか、手にまかせ拈じ来て、ひょいととって用いえて親しいんです、一茎草あるときは丈六の金身、如来大仏となり、丈六の金身あるときは一木一草です、そんなことわかっちゃいるたって、たいていいつだって固執したぶらかされ、つまずき転んでひどいめに会うんです、葦の髄から天井を覗き七転八倒ですか、だからといって、仏の示すところをもって、かくの如しと習わしの、なおざりに紅塵に入り、みんな仲良くとか、しかも主中の主という思い込みは、そりゃ噴飯ものですが、思い込みでない本来といって、どこまで行ったって油断は禁物。わしについて云えばこれ生涯の駄作、どこまで行ったってめちゃんこどうしようもないです。仏だのいって化外自ずから来賓す、いい子ちゃんしてられんです、どうしようもこうしようもないもこれ形容です、ふん死ぬまで、いやさ死んでも同じく、触処生涯分に随うつもりなんかない、技量不足なら喧嘩、アッハッハはいお粗末。


画像の出典  2004年・津軽 中尊寺/方丈の旅の記録より
by tozanji | 2005-02-09 08:55 | 従容録 宏智の頌古


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