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第七則 薬山陞坐

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 衆に示して云く、眼耳鼻舌各一能有って、眉毛は上に在り。士農工商各一務に帰して、拙者常に閑なり。本分の宗旨如何が施設せん。

挙す、薬山久しく陞坐せず。院主白して云く、大衆久しく示誨を思ふ、請ふ和尚、衆の為に説法し玉へ。山、鐘を打たしむ。、衆方に集まる。山陞坐、良久、便ち下座して方丈に帰る。主後へに随って問ふ。和尚適来、衆の為に説法せんことを許す、云何(いかん)ぞ一言を垂れざる。山云く、経に経師あり、論に論師あり、争でか老僧を怪しみ得ん。

 こりゃまあなんともすばらしいです、正月に薬山仏に相見す、珍重この上なし、云うことなしです。われら末派どもの思い上がりを打つこと三千、謹んでこれを受く。
薬山惟儼、石頭希遷の嗣、絳州の人姓は韓氏、十七歳出家し、ついで、大丈夫まさに法を離れて自浄なるべし、あに屑々の事をよくして布巾に細行せんや、行事綿密布きれに文字を書く、そんなことで一生を終わる、なんたる情けないっていうんです、大丈夫まさに自ずから。経に経師あり論に論師あり云々と見て下さい、石頭希遷の室に入って大法を継ぐことまさにしかり。無無明亦無無明尽、実にかくのごとく、眼耳鼻舌各一能あって、眉毛は上にあり、どうですか経師論師の類は、そんなもの不要ですか、だいたいどうしようもない不都合、サリン撒いてぶっ殺したほうが世のためですか、就中仏祖師方、これを継ぐは経師論師の何百生をも卒業するんです、とやこうひっかかりとっかかりを免れる、他の夢にもみない広大無辺です、なおかつこの言あり、しかもいかでか老僧を怪しみ得んと、良久下座。八十有余、法堂倒れると叫んで、大衆出てて、柱を支え壁を押さえるを見て、子、我が意を得せずと云って、示寂すとあります。また太守来たり法を問うに、
「面を見るよりは、名を聞いておった方がよかった。」
 と云った、見ると聞くじゃ大違いってわけです、師、
「太守。」
 と呼ぶ、太守応諾すれば、
「なんぞ耳を貴とんで、目を賤しむことを。」
 と。太守謝して法を問う、
「如何なるか是れ道。」
 師手を以て上下を指して云く、
「会すや。」
「不会。」
「雲は天に在り、水は瓶にあり。」
 太守欣恢作礼して、偈を以て云く、
「身形を練り得て鶴形に似たり、千株の松下両函の経、我来て法を問えば余説無し、雲は青天に在り、水は瓶に在り。」

頌に云く、癡児意を刻む止啼銭、良駟追風、影鞭を顧みる、雲、長空を払ふて月に巣くふ鶴、寒清骨に入って眠りを成さず。

 癡児は痴児に同じですか、わきまえのない幼児、止啼銭、啼は泣くに同じ、子供が泣くのをだまして止めるための木の葉の銭、ねはん経にありと。どうですか仏=止啼銭ですか、お経ほか布巾細行が止啼銭ですか、殺し文句の世界を脱して、無為の真人面門に現ずるもなを止啼銭ですか、そうですよまさに気がつく、自ずから以外にないです。
 なにか云って貰いたいって、うっふっふ。
 良駟良馬と同じ、良馬の鞭影を見て走る、鈍馬は骨に届くまでぶっ叩かれてようやくという、参禅のこれありよう、各々思い当たるところです。どうにもこうにも自分が自分と相撲を取っている、そんな馬鹿なことできっこない、あれほんにそうだといって良駟追風、坐禅が坐禅になります。すると言も不言も、まさに行くんです、仏向上事、アッハッハようやくさまになる、昨日の自分は今日の自分じゃないんです、これただの人。すなわち雲長空を払うとき月に巣食う鶴ですか、わずかにこれと知れるあり、これ寒清骨に入って眠りを成さず、身心ともになしがなんでとか、雲も鶴もないじゃないかなど、わかったふうなこと云わない、詩人の詞として見りゃいいです、取り付く島もない本来本当という、世間どのような取扱にもよらんです、捨てて捨てて捨てきって行くだけです。


画像の出典  2004年・津軽/方丈の旅の記録より
by tozanji | 2005-02-12 00:00 | 従容録 宏智の頌古


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