提唱
2006-01-15T16:59:41+09:00
tozanji
曹洞宗 曹溪山 東山寺 住職による提唱
Excite Blog
第五十章
http://tozanji.exblog.jp/3317047/
2006-01-14T00:00:00+09:00
2006-01-15T16:59:41+09:00
2006-01-02T09:58:06+09:00
tozanji
伝光録
第五十祖天童浄和尚雪竇に参ず。竇問ひて日く、浄子曾て染汚せざる処如何が浄得せん。師一歳余を経て忽然豁悟して日く、不染汚の処を打す。
師諱は如浄、十九歳より教学を捨て祖席に参ず。雪竇の会に投じて便ち一歳を経る。尋常坐禅すること抜群なり。有る時浄頭(便所掃除の役)を望む。時に竇問いて日く、曾て染汚せざる処如何が浄得せん。若し道い得ば汝を浄頭に充てん。師措くことなし。両三カ月をへるに猶未だ道い得ず。有る時師を請し方丈に到らしめて問いて日く、先日の因縁道得すや。師擬議す。時に竇示して日く、浄子曾て染汚せざる処如何が浄め得ん。答えずして一歳余を経る。竇又問いて日く、道い得たりや。師未だ道い得ず。時に竇日く、旧窩を脱して当に便宜を得べし。如何ぞ道い得ざる。然しより師聞いて得励志工夫す。一日忽然として豁悟し、方丈に上て即ち日く、某甲道得すと。竇日く、這回道得せよ。師不染汚の処を打すと云う。声未だ畢らざるに竇即ち打つ。師流汗して礼拝す。
竇即ち許可す。
十九歳の時発心してより後、叢林の掛錫して再び郷里に還らず、郷人と物語せず、都べて諸寮舎に到ることなし、上下肩隣位に相語らず。只管打坐するのみなり。臀肉穿てるも尚坐を止めず。発心より天童に住する六十五歳まで、未だ蒲団にさえられざる日夜あらず。誓いて僧堂に一如ならんという、芙蓉より伝わる衲衣ありと雖も、上堂入室ただ黒色の袈裟衣を著く。自称して日く、一、二百年祖師の道すたる、故に一、二百年このかた我が如くなる知識未だ出でずと。諸方悉く恐れおののく。尋常に日く、我れ十九歳より以来、発心行脚するに有道の人なし。諸方の席主、多くは只官客と相見し、僧堂裏都て不管なり。
常に日く、仏法は各自理会すべし。是の如く道うて衆をこしらうことなし。今大刹の主たる、なを是くの如く胸襟無事なりを以て道と思い、曾て参禅を要せず。何の仏法かあらん。若し彼がいうが如くあらば、何ぞ尋常訪道の老古錐あらんや。笑いぬべし、祖師の道夢にだも見ざるあり。趙提挙、州府に就いて上堂を請せしに、一句道得なかりし故に、一万丁の銀子、受けることなくして返しき。一句道得なき時、他の供養を受けざるのもに非ず、名利をも受けざるなり。故に国王大臣に親近せず、諸方の雲水の人事すら受けず。道徳実に人に群せず。故に道家の流れの長者に道昇というあり。徒衆五人誓いて師の会に参ず。我れ祖師の道を参得せずんば一生故郷に還らじ、師志を随喜し、改めずして入室を許す。列には僧の次に著かしむ。又善如と云いしは、我れ一生師の会にありて、卒に南に向かいて一歩を運ばじと。志を運び師の会を離れざる多し。普園頭といいしは曾て文字を知らず、六十余に初めて発心す。然かれども師、低細にこしらえて依て卒に祖道を明きらめ、園頭たりと雖も、おりおり奇言妙句を吐く。上堂に日く、諸方の長老普園頭に及ばずと。実に有道の会には、有道の人多く道心の人多し。尋常ただ人をして打坐を勧む。常に云う、焼香礼拝念仏看経を用いず、祇管に打坐せよと示して、只打坐せしむるのみなり。常に日く、参禅は道心ある是れ初めなり。実に設い一知半解ありとも、道心なからん類所解を保持せず。卒に邪見に堕在し磊苴放逸ならん。付仏法の外道たるべし。故に諸仁者、第一道心の事を忘れず、一々に心を至らしめ、実を専らにして当世に群せず、進んで古風を学すべし。
はいまったくその通りです。如今またかくの如し、一箇半箇の道に勤しんで下さい、他に道うことないです。
道風遠く扇ひで金剛おりも堅し、匝地之が為に所持し来る。
道風金剛たとい遠くて遠しといえども、世にこれが他ないんです、一人きりで死のうが、なんにもならずとも、なにおのれけし粒の如くというより、内に向かってとやこうはないんです、たとい世のため人の為でもいい、外に向かって開きぱなし、ついに呑却せられるんです、するとこれを継ぐまた一箇半箇。
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第四十九章
http://tozanji.exblog.jp/3317046/
2006-01-13T00:00:00+09:00
2006-01-15T16:59:09+09:00
2006-01-02T09:57:53+09:00
tozanji
伝光録
第四十九祖雪ちょう鑑禅師、宗かく天童に主たりし時、一日上堂、挙す、世尊に密語有り、迦葉覆蔵せず。師聞きて頓に玄旨を悟り、列に在りて涙を流し、覚えず失言して日く、吾輩什麼としてか従来せず。かく上堂罷り、師を呼びて問ひて日く、汝法堂に在りて何すれど涙を流すや。師日く、世尊に密語有り、迦葉覆蔵せず。かく許可して日く、何ぞ雲居の懸記に非ざらんや。
師諱は智鑑、児たりし時、母ために師の手の瘍を洗いて問いて日く、これなんぞ。対えて日く、我が手は仏手に似たりと。長じて父母を失う。長盧清了に依る、時に宗かく首座たり、すなわち之を器とす。後に象山に逃れて百怪惑はすこと能はず、深夜に開悟して証を延寿(法眼宗三祖永明延寿)に求む。しかしてまたかく和尚に参ず。宗かく天童に住し、師をして書記に充てしむ。かく一日さきの因縁を挙す。ねはん経如来性品第四の二、爾時迦葉菩薩、仏に白して言さく、世尊仏所説の如き、諸仏世尊に密語ありと。是の義然らず、何を以ての故に。諸仏世尊唯密語ありて密蔵あることなし。譬えば幻主の機関木人の如し。人屈伸伏仰するを覩見すと雖も、内に之をして然らしむるものあるを知ること莫し。仏法は爾らず。悉く衆生をして咸く知見することを得せしめ、如何ぞまさに諸仏世尊に秘密蔵ありと云うべき。仏迦葉を讃して善哉善哉善男子汝が所言の如し。如来に実に秘密の蔵なし。何を以ての故に、秋の満月の空に処して顯露に、清浄にして翳なきが如く、人皆覩見す。如来の言もまた是の如し。開発顯露にして清浄無翳なり。愚人解せずして之を秘蔵と謂う。智者は了達して即ち蔵と名けず。
ぼう蟹の七足八足するが如しと、蟹を茹でると七足八足、意識なくかってにするさま、どうですかこれ、幻主悟らぬ人は屈伸伏仰を知ってするんですか、知らないでするんですか、悟った人は知らないでするんですか、知ってするんですか、あっはっはこれわしの密語です、よってもってよく確かめて下さい。何ぞ雲居の懸記とは、雲居道膺祖が雪ちょう智鑑の出現を予言したこと。師聞いて頓悟す、涙を流し、我輩何としてか従来せず、何ゆえかありどうしてこうあるかわからんのです、呼んで問うて日く、何すれぞ涙を流すや。師日く、世尊に密語あり、迦葉覆蔵せず。これ涙流れるです。
謂つべし金剛堅密の身、其身空廓明明なるかな。
金剛石ダイヤモンドも崩壊します、では何が壊れない、なんのかんのと有心の人云うんでしょう、有心であるかぎり有るんです、不思議ですねえ、無心は無いんです、すなわち無いものは壊れっこないんです、これ仏教、心が無いと知って救われるんです、殺し文句やお為ごかしじゃないんですよ、これっきゃない他なし。
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第四十八章
http://tozanji.exblog.jp/3317045/
2006-01-12T00:00:00+09:00
2006-01-11T23:31:00+09:00
2006-01-02T09:57:41+09:00
tozanji
伝光録
第四十八祖天童かく(王に玉)禅師久しく悟空の侍者となる。一日悟空聞きて日く、汝近日見処如何。師日く、吾又恁麼なりと道はんと要す。空日く、未在、更に道へ。師日く、如何が未だしや。悟空日く、汝道ひ来ること未だしと道はず、未だ向上の事に通ぜず。師日く、向上の事道ひ得たり。空日く、如何なるか向上の事。師日く、設ひ向上の事道ひ得ると雖も、和尚の為に挙示すること能はず。空日く、実に汝未だ道ひ得ず。師日く、伏して願はくは和尚、道取せよ。空日く、汝吾に問へ、道はん。師日く、如何なるか是れ向上の事。空日く、吾又不恁麼なりと道はんと要す。師聞きて開悟す。空即ち印証す。
師諱は宗かく、ひさしく悟空の侍者となり、昼参夜参、横参竪参す。しかれども猶徒らならざる所あり。空問ひて日く、汝近日見処如何。師日く、吾又恁麼なりと道はんと要す、空日く、未在更に道へ。恁麼なり、かくの如くと道はんと要す、かくの如く、自分というものが虚空に消える、まったく無いんです、無いというものを無いと云えるか、そりゃ云えない道理で、又恁麼なりと道はんことを要すとはこれです。空日く、未在更に道へ、そりゃ言下に、そんなんじゃ駄目だって云います、無心心がない、無身体がないんですが、これ何段階もある、とかく向上の事どこまで行ってもという、どうもそう云っているものが吹っ切れるんですよ。おおっとなんにもなくなる=自分を問題にしないんです。これどう云い繕ったところで、なんにもないものには丸見えで、たといかくの如く、問答同じが是は是、不是は不是なんです。でも空日く、吾又不恁麼なりと道はんと要す、は効いています。自分終わるとまったく元の木阿弥なんです。恁麼も不恁麼もないんですよ、吾は得た、何を得たというてんからなしに、底抜けの自信としか云いようにない、信不信に関わらずこうあるきりなんです。即ちこれを得て、印証するんです。
宛かも上下の楔の如くに相似たり、抑ふれども入らず抜けども出でず。
もとないものをあると云うのと無いというのと、たしかにあたかも上下のくいの如く相似たりですか、でも抑ふれども入らず抜けども出でずとは、元の木阿弥まったくなくなるんです、くさびとかくいとか要らない。
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第四十七章
http://tozanji.exblog.jp/3281615/
2006-01-11T00:00:00+09:00
2006-01-11T23:29:37+09:00
2005-12-26T00:06:42+09:00
tozanji
伝光録
第四十七祖悟空禅師丹霞に参ず。霞問ふ、如何なるか是れ空劫以前の自己。師応えんと欲す。霞日く、汝さわがしきこと在り、且く去れ。一日鉢盂峰に登り、豁然として契悟す。
師諱は清了、悟空は禅師号なり。その母赤ん坊を抱いて寺に入り、仏を見て喜び眉睫を動かす。師十八にして法華を講ず。得度して成都の大慈に往き、経論を習い大意を領ず。丹霞の室を叩く。霞問う、如何なるか是れ空劫以前の自己、乃至豁然として契悟す。ただちに帰りて霞に侍立す。霞一掌して日く、まさに謂えり爾有ることを知ると。師欣然として之を拝す。翌日霞上堂して日く、日孤峰を照らして翠に、月溪水に臨んで寒し、祖師玄妙の訣、寸心に向かいて安んずる莫れ。即ち下坐。師直に前んで日く、今日のしん坐更に某甲を瞞ずることを得ず。霞日く、爾試みに我が今日のしん座を挙し来り看よ。師良久す。霞日く、将さに謂へり、爾瞥地と。師便ち出ず。遍歴して長蘆山に至り、その跡を継ぐ。
如何なるかこれ空劫以前の自己、なんじさわがしと、どうですかこれ、空劫以前の自己といったら、空劫以前に帰って下さい、自分をとやこう云っていたら間に合わないですよ、たとい会に誇り悟に豊かにしても、そういうものと見做すなにかしらあったら騒がしいんです、安心の処がないんです。ところが丹霞子淳の偈は、日は上り月下りして祖師玄妙の訣、寸心に向かいて安んずること莫れとあります、これ我が意を得たりで、更にそれがしを瞞ずることを得ずと云う、どうですか、相手に肯定されたら、他に瞞ぜられますか、では道うてみよと、丹霞和尚、師良久す、まさに謂へり、そうかい瞥地ちらっとは見たか、というんです。是という、不是という、さあどうですか、余後の問答はないんです、辞し去って唯一人の天下です、これわかりますか、たとい大悟徹底の人も、まったくわからんですよ。よくよく看取し去って下さい。
古澗寒泉人疑はず、浅深未だ客の通じ来ることを聴さず。
古澗は谷の水、師後に出世して上堂日く、我れ先師の一掌下に於て技倆ともに尽きて、箇の開口の処を覓むれども得べからず。いま還て恁麼の快活不徹底の漢ありや。若し鉄をふくみ鞍を負うことなくんば、各自に便りを著けよ。実にそれ祖師の相見する所、劫前に歩を運び、早く本地の風光を顯はし来る。若し未だ此田地を看見し得ずんば、千万年の間坐じて言うことなく、兀兀として枯木の如く死灰の如くなりとも、是れ何の用ぞ。しかも空劫以前と云うを聞きて、人々あやまりて思うことあり。いわゆる自もなく他もなく、前もなく後もなく、呼んで一とも云うべからず、二ともいうべからず、同とも弁ぜじ異とも云はじ。是の如く商量計度して、一言も道いえば早く違いぬと思い、一念も返せば即ち背くべしと思うて、妄りに枯鬼死底を守り死人の如くなるあり。或いは何事として相違ことなし、山と説くも得べし、河と説くも得べし、我と説くも得べし、他と説くも得べし。また日く、山と道うも山に非ず、河と道うも河のあらず。唯是れ山なり、唯是れ河なり。かくの如く云う、これ何の所要ぞ。
悉く皆邪路に趣く。或いは有相に執着し、或いは落空亡見に同じくし来るなり。此田地あに有無に落つべけんや。故に汝が舌を挿さむ所なく、汝が慮りを廻らす所なし。且つ天に依らず地に依らず、前後に依らず、脚下踏む所なくして眼を著けて見よ。必ず少分相応の所あらん。又日く云々と。
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第四十六章
http://tozanji.exblog.jp/3281610/
2006-01-10T00:00:00+09:00
2006-01-11T23:27:56+09:00
2005-12-26T00:06:33+09:00
tozanji
伝光録
第四十六祖丹霞淳禅師芙蓉に問ふて日く、如何なるか是れ、従上の諸聖の相授底の一句。蓉日く、喚んで一句と作し来たれば、幾莫か宗風を埋没せん。師言下に於て大悟す。
師諱は子淳、弱冠二十歳にして出家し、芙蓉の室の徹証す。初め雪峰象骨山に住し、後に丹霞に住す。如何なるかこれ従上諸聖相授底の一句。釈尊明星一見より、迦葉拈華微笑、阿難倒折刹竿著、滴滴相続して今にいたる、これ寸分も別なく、相違なく、今この伝光録に全い見るように、諸聖まったく違わずです。これが相授底の一句、もしやそんなものがあるはずもなく、もしや有ると思えば、なにがなしそれをどうしようという、四六時中ていぜいも、ついに離れず自由の分なし、坐るという苦痛がついて回るんですか、あるいはいい悪いの我田引水、時には蜜を吸う如く、時には無味乾燥、はたしておれはと顧みるんでしょう、末期の一句が欲しいとなるんです、これを以て問う、喚んで一句となし来たれば、幾ばくか宗風を埋没せん、そう云っている限りは、そう云っているものがあるのさってわけです、師言下に大悟す。
みずとりの行くも帰るも跡絶えてされども法は忘れざりけりよくこれを保任せよという、死んで死んで死にきって思いのままにするわざぞよきですか、いえさどこまで行こうが修行の上の修行。
清風数しば匝り縱い地を揺らすも、誰か把り将ち来りて汝が為に看せしめん。
はいまさにこれ参禅の要決です、いいことしいの頭なぜなぜは一神教ですよ、たとい箇の標準入り難し行じといえど、オ-ムや立正安国論のような、偏狭きちがい或いは、信ずれば救われる底の、独善じゃないんです。ただこれ、ただの真っ平ら、他に人間の智慧はなしと知る、大丈夫これ、だれかとりもちて汝が為に見せしめんです、即ちそのように坐って下さい。
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第四十五章
http://tozanji.exblog.jp/3281608/
2006-01-09T00:00:00+09:00
2006-01-09T20:28:28+09:00
2005-12-26T00:06:24+09:00
tozanji
伝光録
第四十五祖芙蓉山道楷禅師投子和尚に参ず、乃ち問ふ、仏祖の言句は家常の茶飯の如し、之を離れて外に為人の処有りや、也た無しや。青日く、汝道へ、寰中の天子の勅、還りて堯舜兎湯を仮るや、也た無しや。師進語せんと欲す。青払子を以て師の口をうって日く、汝意を起こし来たる、早く三十棒の分有り。
師即ち開悟す。
師幼より閑静を喜んで伊陽山に隠る。後に京師に遊んで台術寺に籍名す。法華を試みて得度す。投子に海会寺に謁して、すなわち問う、仏祖の言句は、乃至師開悟し再拝して便ち行く。子日く、且来闍黎。師顧みず。子日く、汝不疑の地に至る也。師即ち手を以て耳を掩う。後に典座となる。子日く、厨務勾当易からず、師日く、不敢。子日く、粥を煮るか飯を蒸すか。人工は淘米著火、行者は煮粥蒸飯。子日く、汝甚麼をか作す。師日く、和尚慈悲他を放閑し去らしめよ。一日投子に侍して菜園に遊ぶ。子柱杖を度して師に与う。師接得して便ち随行す。子日く、理まさに恁麼なるべし。師日く、和尚の為に鞋を提げ杖をかかぐ、也た分外と為さず。子日く、同行の在る有り。師日く、那一人は教えを受けず。子休し去る。晩び至って師に問い、早来の説話未だ尽くさず。師日く、請う和尚挙せよ。子日く、卯には日を生じ戌には月を生ず。師即ち点灯し来たる。子日く、汝上来下去総に徒然ならず。師日く、和尚の左右に在れば理まさに此の如くなるべし。子日く、奴児婢子誰が家の屋裏にか無からん。師日く、和尚年尊他を欠かば不可なり。子日く、恁麼に慇懃なることを得たり。師日く、恩を報ずるに分ありと。
これ芙蓉道楷和尚投子義青の老婆親切が通じたんであろうか、因みに猿芝居嘘ばっかりの宗門が、立職三旬安居の申請に、表をかかげて芙蓉楷祖の如くせよといって来る、なに一夜漬けの他だれもしやせん、ばかったい話だが、芙蓉楷祖天井粥という、米は同じ量で人数の増えただけ水を足す、粥に天井が映ったから云う。たしかに仏祖の言句は家常の茶飯の如しという、これを離れてほかに為人の処有りや、かくのごとく信じ行じ来たって、投子の面前に投げ出すんです、煮ようが焼こうがってわけです、はたしてそうか、寰中は天子の勅、四皇五帝に習う、持ち出すことはないぞという、他の標準あってはかたくななだけです、むろんそりゃ当然のこったという、云い分です、そいつの口を掩い、三十棒です、師すなわち開悟す。
奴児婢たが家の屋裏にか無からん、いいえおまえの中にだってあるはずだというんです、卑しいもの卑屈あいまいなもの、うしろめたくだから悪いという、そっくりそのまんま恥知らず、わっはっはわしはそっちの方が多いですか、でもこれ削ったらかたわもんですよ、差別用語ばっかり、わし差別されてるでさ。生活とは何か、明日はないんです、死んだやつに生活はない、という上の芙蓉楷祖の如くせよなんです。
紅粉施さざるも醜露れ難し、自ら愛す蛍明玉骨の装い。
はい時時に勤めて払拭すること、肝に銘じまして。
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第四十四章
http://tozanji.exblog.jp/3281606/
2006-01-08T00:00:00+09:00
2006-01-08T22:20:00+09:00
2005-12-26T00:06:16+09:00
tozanji
伝光録
第四十四祖投子和尚円鑑に参ず、鑑、外道仏に問ふ、有言を問はず、無言を問はざるの因縁を看せしむ。三載を経て、一日問ひて日く、汝話頭を記得すや、試みに挙せよ看ん。師応へんと擬す、鑑其の口を掩う。師了然として開悟す。
師諱は義青、七齢にして潁異、出家し経を試みて、十五にして得度す、百法論を習う、嘆じて日く、三祇道遠し、自ら困ずるとも何の益ぞ。乃ち洛に入って華厳を聴く。義珠を貫くが如し、諸林菩薩の偈を読み、即心自性と云うに至って、猛省して日く、法は文字を離る、寧ろ講ずべけんや、即ち捨てて宗席に遊ぶ。時に円鑑大師(浮山法遠、太陽の嗣)会聖巌に居す。一夕青色の鷹を養うと夢見て、師来たる。外問仏の話を看せしむ、乃至師了然として開悟し、遂に礼拝す。鑑日く、汝玄機を妙悟するや。師日く、設とい有りとも也た須らく吐却すべし。時に資侍者、傍らに在りて日く、青華巌、今日病に汗を得るが如し。師回顧して日く、狗口を合取せよ。若し更にとうとうせば我れすなわち嘔せん。此れよりまた三年をへて、鑑、時に洞下の宗旨を出して之を示す。悉く妙契す。付するに太陽の頂相、皮履布(皮の草履)直とつ(大衣)を以てし、日く、吾に代わりて其宗風を継ぎ、久しく此に滞まること無れ、よく宜しく護持すべし。偈を書して送りて日く、須弥太虚に立ち、日月輔けて転ず。群峰漸く他により、白雲方に改変す。少林風起こり叢がり、曹溪洞簾巻く。金鳳龍巣に宿し、宸苔豈に車碾せんや。
青華厳というあだなであった、華厳経を聴いて義珠を貫くが如し、明解手に取るようであったんでしょう、しかも即心自性というに至って猛省して日く、だから-ゆえにの世界じゃないっていうんです、法は文字を離る、講義するための学問、愚人のしがみつくそれを、なんにもならんとて捨てる、そりゃこの心なけりゃ、人間なんのためにもならんです、よって青鷹となって円鑑を訪う、外道仏に問う、有言を云わず無言を云わず、汝作麼生、さあどうじゃというんです、これを云える外道も珍中の珍ですか、ほんとうに答えがわからんで聞いたんなら正解、答えをもって聞く、つまりこれを外道と云う、お釈迦さまは端然坐すんです、これを見て外道、大慈大悲愍衆生というて去る、文殊菩薩が何ゆえに去ると聞くと、世の良馬の鞭影を見て行くと云われた。
ですからこれを得て下さいというんです、諦観法王法、法王法如是と、猿芝居の銭かねしてないで、これなくば仏とは云われぬ、滴滴相続底の引導も渡しえない、すると一から十まで嘘ばっかりの坊主どもです、世の中横滑りのかたり、衆門というおんぼろ伽藍堂です、がらがら崩れ去る。たといなにやったって駄目です。三載をへて、汝話頭を記憶すや、どうじゃと聞く、順孰するを見る、皮一枚どっかつながっていた、云わんと擬する口を掩う、師了然として大悟す。
嵯峨たる万仞鳥通じ難し、剣刃軽氷誰か履践せん。
嵯峨たり万仞は早く自分のほうにあるんです、鳥通じ難師と、あるいは毎日切磋琢磨、あるとき一皮むける、ふわっとなんにもないんです、ただこうあるっきりです、人が参じ来るのに、なにいうてもとなんにもないのになにをあせくと、はいといってはどう参じても届かない、嵯峨万仞鳥通難、でもってあるいは問答しだれかれやるんでしょう、剣刃軽氷上を行くんです、ちらりしくじったら、せっかくの大法をふいですか、いいえ老師なんぞ悟ったといえば、おうそうかてなもんです、おれはこうしただからというと、是是、なあに嘘つきゃ自分で転ぶてなもんです、これ剣刃軽氷上。
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第四十三章
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2006-01-07T00:00:00+09:00
2006-01-07T23:03:59+09:00
2005-12-26T00:06:07+09:00
tozanji
伝光録
第四十三祖太陽明安心大師因みに梁山和尚に問ふ、如何なるか是れ無相の道場。山観音像を指して日く、這箇は是れ呉処士の画なり。師進語せんと擬す。
山急に索めて日く、這箇は是れ有相底、那箇か是れ無相底。師言下に於て省有り。
師諱は警玄、十九にして大僧となり円覚了義を聞く、遂に遊方して初め梁山に到りて問ふ、如何が是れ無相の道場。乃至省悟あり。便ち礼拝して立つ。山日く、何ぞ一句を道取せざる。師日く、道ふことは即ち辞せず、恐らくは紙筆に上らん。山笑いて日く、此語碑に上せ去ることあらん。師偈を献じて日く、我れ昔初機学道に迷い、山水千山見知を覓む。今を明め古を弁じて終いに会し難く、直ちに無心と説くも転た更に疑う。師の秦時の鏡を点出するを蒙り、父母未生の時を照らし見る。如今覚了して何の得る所ぞ、夜烏鶏を放ちて雪を帯びて飛ぶ。山日く、洞山の宗よるべしと。山没して太陽に到り、洞山一宗盛んに世に興る。師神観奇異威重あり、児稚の時より日にただ一食し、自ら先徳付授の重きを以て足しきみを越えず。脇席に至らず、年八十二に至って猶かくの如し。対にしん座して衆を辞し終焉す。
呉処士というのは唐代の画聖、観音さまの絵を指さして、師進語せんと擬す、だからどうなんだ、たとい画聖の絵だろうが、迷あり悟あり、黒白あいまってたとい山水千山の見知云々というんでしょう、すべてをぶっつける、即ち一箇そのものにならんけりゃ、聞こうにも聞けない、転た更に疑うんです、そいつを秦時の鏡、これまあなんか来歴あるんでしょう、秦時のたくらくさん馬鹿ですれてる、虎の欠けたるが如くです、そいつを梁山の宝鏡三味が見事に映す、這箇はこれ有相底、那箇かこれ無相底、ついにぶち破る、脱するんです、如今覚了しなんの得る所ぞ、夜烏鶏まっくろい鳥が雪を帯びて飛ぶ、黒漆のこんろん夜に走るんです。おうと云えばさらに宇宙ぜんたいです。道えば有相になる、紙筆に上らんという、わずかにひっかかる、後遺症とまではいかんですが、あっはっは紙筆どころか石碑になるぞといって払拭する。まあそういったこってす、もう一つの大切は、洞山によるべしという、曹洞宗この我が宗です、通身帰依によってのみ成立するんです。これ独立独歩。
円鑑高く懸けて明らかに映徹す、丹かく(蠖の虫でなく舟)美を尽くして画けども成らず。
まあこれ梁山から伝わった宝鏡三味ですか、丹かく、朱けのそほ舟じゃなくって赤い飾り舟、美を尽くすわけです、描けども成らず、わしは歌人であって、万葉を復活させたんですが、だれも知らん顔している、あっはっは世間のほうが間違いで、どこにも歌なんかない、ありゃ字面だけの伸び切ったうどんだってな、でもさそれはともかく、どんなにいい歌作ったろうが、風景そのもの、生活感情にはまったく及ばない、歌を作るは別ものってこってす、そいつもまた面白いからってだけの、一木一草空の雲もまあそれっきりで死んじまうほどの、いえ何万生もの人生を超えって、どう云ったってどうにも届かぬ、わしが雲水よりもよう坐るのはこれ、実際とはこれ。何ものも断じないんです、美を尽くすだのものを成すだの、けちなこと云わない。
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第四十二章
http://tozanji.exblog.jp/3281603/
2006-01-06T00:00:00+09:00
2006-01-05T23:50:19+09:00
2005-12-26T00:05:57+09:00
tozanji
伝光録
第四十二祖梁山和尚後の同安に参侍す。安問ふて日く、如何なるか是れ衲衣下の事。師無対。安日く、学仏、未だ這箇の田地に到らざるが最も苦なり、汝我れに問へ道はん。」師問ふ。如何なるか是れ衲衣下の事。安日く、密。師乃ち大悟す。
師諱は縁観、後の同安に執侍すること四歳、衣鉢侍者に充つ。同安有る時上堂、早参、衲法衣を掛くべし。時到りて師衲法衣を捧ぐ。同安、法衣を取る次いで問ひて日く、如何が是れ衲衣下の事。師無対。乃至大悟す。礼拝して感涙に衣を湿ほす。安日く、汝既に大悟す。又道ひ得るや。師日く、縁観即ち道ひ得ん。安日く、如何が是れ衲衣下の事。師日く、密。安示して日く、密有り密有り。
師これより投機多く密有の言あり、学人ありて衲衣下の事を問ふこと多し。如何が是れ衲衣下の事。師日く、衆聖も顕すこと莫し。家賊防ぎ難き時如何。師日く、識得すればあだを為さず。識得して後如何。師日く、無生国裏に貶向せん。是れ他の安心立命の処なること莫しや。師日く、死水に龍を蔵さず。如何が是れ活水龍。師日く、波を興して浪を作さず。忽然として傾秋倒岳の時如何。師下座把住して日く、老僧が袈裟角を湿却せしむること勿れ。また有る時問ふ、如何が是れ学人の自己。師日く、寰中は天子塞外は将軍。是くの如く他の為にす、悉く是れ密有を呈示すと。
学仏未だ這箇の田地に到らざる、最も苦なりと、まことにこれ実なるかなです、いずれの地獄もっとも苦なりと問うに、洞山示して日く、学人未だ仏に到らざる、地獄のうちもっとも苦なりと。どうしても別の標準です、こうあるべきどうあるべきのたがが外れて、感涙に衣をうるおす、標準が自分なんです、すると省みる自分がない、密ですよ、密有り密有り、是是、他にはまったくないんです。衆聖も顕すことなし、だれがなんといって示すこともできないんです、だからといって妄想絶無なんていう、外野のあげつらうのとは違う、念起念滅する、家賊防ぎ難き時如何、防ごうとするに及んで収拾がつかんですか、識得すればあだをなさず、目を向けりゃないんです、そんな処から始めりゃいい.もとまっただ中です。無生国裏に貶向す、そのまんま手放しなんですよ、これが他の人にはできないんです、どうしても括弧とか紐でくくりたがる、すると死水に龍を蔵さず、死体いなっちまうってこってす、如何が是れ活水龍、ぶんなぐってやりゃいいところを、親切に示す、無理無謀がないんです、天子は帷中にすべてを見そなわせ、塞外に戦うのは将軍です、もとこれっきゃないって、あべこべしないんですよ。
水清うして徹底深沈たる処、琢磨を待たずして自ずから螢明なり。
わずかに自分というたがが外れるとかくの如くです、切磋琢磨みがいて修行してどうのこうのじゃない、そんなもののまったく届かぬ、ぼっかあずんぼらけ。密有り、ものみなの役に立ちますよ。
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第四十一章
http://tozanji.exblog.jp/3281602/
2006-01-05T00:00:00+09:00
2006-01-05T14:38:32+09:00
2005-12-26T00:05:48+09:00
tozanji
伝光録
第四十一祖後の同安大師、前の同安に参じて日く、古人日く、世人の愛する処我れ愛せずと、未審如何なるか是れ和尚の愛する処。同安日く、既に恁麼なることを得たり。師言下に大悟す。
師諱は観志、その行状委しく記録せず、先同安まさに示寂せんとす、上堂日く、多子塔前に宗子秀いず、五老峰前の事若何んと。是の如く三たび挙するに無対、師出でて日く、夜明簾外排班して立ち、万里歌謡して太平を道ふ。同安日く、須らく是れ驢漢にして得べし。しかしより同安に住し、後同安と号す。
世人の愛する処我れ愛せずと、みなまた出家するんです、世の中何不自由なくは、お釈迦さまですが、せっかく美しい后と子を捨てて出家する、歓喜という名の阿難尊者は、あんまり大もてでもって、悟るのが遅かったという、ほんとう本来を知るには、世の中そのまんまでは、見えるはずのものも見えない、きっとうまく行かんのです。後の同安大師も必ずこの轍であった、そうして出家して確かめに行く、大小の悟はあったんでしょう、きれいさっぱり断ずる、あるいは愛欲を断ち切ることが、どうも奇妙なことに見えてくる、たとい行事綿密も、あれこれこうあるっきりだ、世人の愛するところ我れ愛せずと、たといかつて大見栄を切ったとて、いぶかし如何なるかこれ和尚の愛するところ。同安日く、すでに恁麼なることを得たり、師言下に大悟す。
わかりますかこれ、すでに得たんです、自分というとやこうのまんま失せる、世界ぜんたい掌する、いやさそういう能書きのいらない世界です。
大手を広げてこうなんです、一喝するも同じこと。
わかりますかこれ、蚊子の鉄牛を咬むに似たりじゃなけって、そうかって大悟して下さい、余すところも欠けるところもないんです、元の木阿弥。
心月眼華光色好し、劫外に放開して誰有りてか翫そばん。
多子塔は、多子塔前宗子秀でという、迦葉尊者がお釈迦さんに相見した所です、鬚髪速やかに落ち、衣法共に付すという、五老峰は江西省星子県の盧山中にあり、太祖慧可大師の因みにまさにこれ、法を継ぐ者出でよというに、誰も出でず、ついに後の同安大師出でて、夜明簾外、天子の座を覆う水晶のすだれだそうです、赤ん坊は王様、自分という架空請求を去る、宇宙の中心です、すだれの外はどうなっている、明月如昼ですか、臣民家来並び立って、恭順を示
すんですか、共産主義の無理矢理拍手じゃない、思想宗教のだから故にじゃない、万里歌謡して太平の御代です、鼓腹げきじょう、はてなどういう字だっけか、だれも王様のいらっしゃることなぞ知らんという、たらふく食って酒飲んで歌っている、ふ-ん須らく是れ盧漢にして得べし、どこの馬鹿だあっていうんです、そうして同安を継ぐわけです。心月眼華光色好、眼華という妄想世間知ですよ、そいつそのまんまそっくり坐ってごらんなさい、身心脱落してかすっともかすらない、浄羅羅心月見開くんです、劫外に放開して誰有りてか翫そばん、手のつけようがないんです。
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第四十章
http://tozanji.exblog.jp/3281599/
2006-01-04T00:00:00+09:00
2006-01-04T16:05:09+09:00
2005-12-26T00:05:37+09:00
tozanji
伝光録
第四十祖同安丕禅師、雲居有時示して日く、恁麼の事を得んと欲せば、須からく是れ恁麼の人なるべし。既に是れ恁麼の人なり、何ぞ恁麼の事を愁えん。師聞いて自悟す。
師は即ち雲居に参じて侍者と為りて年をふる。有時雲居上堂して日く、僧家言を発し気を吐く、須らく来由あるべし。等閑を将てすること莫れ。這裏是れ甚麼の所在ぞ、争か容易なることを得ん。凡そこの事を問う、也た須らく些子好悪を識るべし。乃至、第一将来すること莫れ。将来すれば相似ず。乃至、若し是れ有ることを知る底の人ならば、自ずから護惜することを解すべし。終に取次ならず、十度言を発し九度休し去る。甚麼としてか此の如くなる。おそらくは利益なからん。体得底の人は、心臘月の扇子の如し。直に得たり、口辺ぼく(酉に業)出ることを。是れ強いて為すにあらず、任運是くの如し。恁麼の事を得んと欲せば、乃至何ぞ恁麼の事を愁えん。恁麼事即ち得難きこと、此の如く示すを聞きて、師乃ち明きらめ、終に洪州鳳棲山同安寺に住す、道丕禅師なり。あるとき学人問う、頭に迷いて影を認む、如何が止まん。師日く、阿誰にか告ぐ。日く、如何して即ち是ならん。師日く、人に従いて求めば即ち転た遠し。又日く、人に従いて求めざる時如何。師日く、頭甚麼の処にか在る。僧問う、如何が是れ和尚の家風。師日く、金鶏子を抱いて霽漢(天空)に帰る。玉兎(月)胎を懐きて紫微(天帝の座)に入る。日く、忽ち客の来るに遇はば、何をもって祇待せん。師日く、金菓早朝に猿摘み去り、玉華晩れて後鳳ふくみ来る。言を発し気を吐く、すべからくこれ来由あるべしと、いたずらに為すことなかれと。当時もまた禅家風だの、機横溢だのそれらしい風と、本来を取り違えることがあったんでしょう、禅という別にあるもの、大悟徹底という化物です、今に至るまで別誂えに、人生を費やす、聞いたふう見たふうの雑多です。這裏これ何の所在ぞ、目を覚ませというんです、容易の感を為すことなかれ、本当本来です。おおよそこの事を問う、廓然無聖です、知らないんです、個々別々、すべからく些子好悪を識るべし、第一義如何ではなく、もとまったくの手付かず、将来すれば、何事か用い来たれば相似ず、たとい仏の言葉でもですよ。若しこれを知る人自ずから護惜することを解すべし、そりゃそうなんですよ、たとい傷口のように痛むと云うと叱られるか、もとのありようこれ、終に取り次ぎならず、十度び発して九度び休し去る、なんとしてかかくの如くなる、強いてなすにあらず、任運かくの如し。まさにこの通り、どうしようもないです。しかも本則実に適切、恁麼の事を得んと欲せば、すべからく恁麼の人たるべし、恁麼という挙げてぜんたい、自分という内も外もです、あれこれなくって急にです、するとどうしてもそうなろうとする、既にこれ恁麼の人なり、突き放して下さい、もとこうあるっきり、とやこういいの悪いの全生涯ですよ、ただもうそのまんま、あるもないもないんです、何ぞ恁麼の事を愁えん、師大悟す。
空手にして自ら求め空手にして来たる、本無得の処果然として得たり。
なんでこれができないかという大問題ですか、大問題にもなんにもならぬものこれ、時節因縁ですか、いつだって常に自ずからに熟す、自ずからというもの不要の故に。
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第三十九章
http://tozanji.exblog.jp/3281598/
2006-01-03T00:00:00+09:00
2006-01-03T08:20:09+09:00
2005-12-26T00:05:27+09:00
tozanji
伝光録
第三十九祖雲居弘覚大師洞山に参ず。山問いて日く、闍黎名は什麼ぞ。師日く、道膺。山日く、向上更に道え。師日く、向上に道えば即ち道膺と名づけず。山日く、吾れ雲巌に在りし時の祇対と異なること無し。
師は童子にして出家し、二十五にして大僧となる、その師声聞の篇聚を習わせ、好みにあらずこれを捨て遊方す。翠微に至り道を問いう、会に与章より来る僧あり、盛んに洞山の法席を称す、師遂にいたる。山問う、甚れの処より来る。師日く、翠微より来る。山日く、翠微何の言句ありてか徒に示す。師日く、翠微羅漢を供養す。某甲問う、羅漢を供養するに羅漢還て来るや否や。微日く、汝毎日箇の甚麼をか食らう。山日く、実に此語ありや否や。師日く、有り。山日く、虚しく作家に参見し来たらず。山問う、闍黎名は什麼ぞ。乃至祇対と異なることあし。師洞水を見て悟道し、即ち悟旨を洞山に白す。山日く、吾が道汝に依りて流伝無窮ならん。また有る時、師に謂いて日く、吾れ聞く、思大和尚(南岳慧思)倭国に生まれて王と作ると、是なりや否や。師日く、若し是れ思大ならば仏ともまた作らず、況んや国王をや。山之を然りとす。一日山問う、甚麼の処か去来す。師日く、遊山し来る。山日く、那箇の山か住するに堪えたる。師日く、那箇の山か住するに堪えざらん。山日く、恁麼ならば国内総に闍黎に占却せらる。師日く、然らず。山日く、恁麼ならば即ち子箇の入路を得たりや。師日く、路なし。山日く、若し路なくんば争か老僧と相見することを得んや。師日く、若し路あらば即ち和尚と隔生し去らん。山日く、此子以後千人万人も把不住ならん。
青原行思でなくて南岳の慧思という天台宗なんですとさ、それじゃあんまり得道とも云えんが、若しこの事まっとうすれば、生まれ変わり仏となることなく、まして況んや王家をやです、そりゃ実感ですか、如来来たる如し、たとい万物と化してこうある、あるいはまったくないんですか、闍黎、阿闍黎坊さんのことです、これ名はなんというと聞く、道膺です、これまあ意を云えば膺は胸、ですがんあんの太郎兵衛でも同じこってす、ああたはだあれ、知らないという、花も鳥も宇宙一切ものみな、こう答える、人間だけが名前ですか、でもこれだからどうのというんでなし、達磨の不識は実感です、知らないから知らないんです、向上更に道えとは、おうよそこのこと、更にひっかからずは、向上に道えば即ち道膺と名づけず。あっはっはおれが雲巌にいた時と同じだなってわけです。洞水を見て悟るとある、そりゃ箇の因縁各種あるたって、みなまったく同じです、機縁に触れて一念起こる、いたりえ帰り来るんです、洞山大師が、吾が道汝によりて流伝無窮なりと、太鼓判ですから間違いないです。後の問答はその内容を示すんですか、師匠勝りの感、洞山問われて禅床震動することを得んなと。後三峰山に庵を結んで、法堂に出ない。洞山、なんで斎に出ぬと云えば、天神に供を送るという。山日く、我れまさに思えり、なんじ是れ箇の人と、猶這箇の見解をなすか、汝晩間に来れ。師晩に来る、山膺庵主と召す、師応諾す、山日く不思善、不思悪、是れ甚麼ぞ。師庵に帰りて寂然坐す。
天神ついに現れず。三日を以て絶す。乃至、曹山とともに後を継ぐ。
名状従来帯び来たらず、何の向上及び向下とか説かん。
はいこのとおり脱し切って下さい、迢迢として我と疎なりと、しかも葛藤これ本来、我れと世間と我にあらず世間にあらずと、如来無心また把不住、坐る以外にそりゃまったくないんですよ、わかりますかこれ箇の人。
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第三十八章
http://tozanji.exblog.jp/3281595/
2006-01-02T00:00:00+09:00
2006-01-02T09:35:32+09:00
2005-12-26T00:05:17+09:00
tozanji
伝光録
第三十八祖洞山悟本大師雲巌に参ず、問いて日く、無情の説法什麼人か聞くことを得ん。巌日く、無情の説法無情聞くことを得。師日く、和尚聞くや否や。
巌日く、我れ若し聞くことを得ば、汝即ち我が説法を聞くことを得ざらん。師日く、若し恁麼ならば即ち良价、和尚の説法を聞かざらん。巌日く、我が説法すら汝猶聞かず、何に況んや無情の説法をや。師此に於て大悟す。乃ち偈を述べて雲巌に呈して日く、也太奇也太奇、無情の説法不思議。若し耳を将て聞かば、終に会し難し。眼処に声を聞いて方に知ることを得ん。巌許可す。
師最初に南泉の会に参じ、馬祖の諱辰に値う。泉衆に問いて日く、来日馬祖の斎を設く、未審、馬祖還り来るや否や。衆無対。師出でて対て日く、伴あるを待て即ち来らん。泉日く、この子後生なりと雖も甚だ雕琢に堪えたり。師日く、和尚良を圧して賎と為すこと莫れ。次にい(さんずいに為)山に参ず。問いて日く、このごろ聞く、南陽の忠国師無情説法の話ありと。某甲未だその偈を究めず。い日く、闍黎記得すること莫しや。師日く、記得す。い日く、汝試みに挙すること一遍せよ見ん。師遂に挙す。僧問う、如何が是れ古仏心。国師日く、墻壁瓦礫是れ。僧日く、墻壁瓦礫豈是れ無情にあらずや。国師日く、是。僧日く、還て説法を解するや否や。国師日く、常説熾然、説に間欠無し。
僧日く、某甲甚麼としてか聞かざる。国師日く、汝自ら聞かず。他の聞者を妨ぐべからず。僧日く、未審甚人か聞くを得ん。国師日く、諸聖聞くことを得。僧日く、和尚還て聞くや否や。国師日く、我れ聞かず。僧日く、和尚既に聞かずんば、争無情の説法を解するを知らん。国師日く、頼わいに我れ聞かず。我れ若し聞かば即ち諸聖に斉し。汝即ち我が説法を聞かざらん。僧日く、恁麼ならば即ち衆生無分にし去るや。国師日く、我れ衆生の為に説く、諸聖の為に説かず。僧日く、衆生聞きて後如何。国師日く、即ち衆生に非ず。僧日く、無情の説法何の典教にか拠る。国師日く、灼然、言の典を該ねざるは君子の処談に非ず。汝豈見ずや、華厳経に日く、刹説衆生三世一切説と。師挙し了て、い日く、我が這裏にも亦た有り。祇だ是れ其人に遇うこと希れなり。師日く、某甲未だ明きらめず。乞う師指示せよ。い払子を竪起して日く、会すや。師日く、
某甲不会。請う和尚説け。い日く、父母所生の口、終に子の為に説かず。師日く、還て師と同時に慕道の者ありや否や。い日く、雲巌道人あり、若し能く撥草瞻風せば、必ず子が重する所たらん。師い山を辞して雲巌に到る。前の因縁を挙して即ち問う、無情の説法甚麼人か聞くことを得る。巌日く、無情聞くことを得る。師日く、和尚聞くや否や。巌日く、我れ若し聞かば、汝即ち我が説法を聞かざらん。師日く、某甲甚麼としてか聞かざる。巌払子を竪起して日く、還て聞くや。師日く、聞かず。巌日く、我が説法すら汝尚聞かず、豈況んや無情の説法をや。師日く、無情の説法何の経典をか該ぬ。巌日く、豈見ずや、弥陀経に日く、水鳥樹林、悉皆念仏念法と。師此に於て省あり。即ち偈を述べて日く、也太奇也太奇、乃至眼処に聞く時方に知ることを得ん。師雲巌に問う、某甲余習未だ尽きざることあり。巌日く、汝曾て甚麼をか作し来る。師日く、聖諦もまた為さず。巌日く、還て歓喜すや未だしや。師日く、歓喜は即ち無きにしもあらず、糞掃堆頭に一顆の明珠を拾い得たるが如し。師、雲巌に問う、相見せんと擬欲する時如何。日く、通事舎人に問取せよ。師日く、見に問次す。日く、汝に向かいて甚麼をか道わん。師、雲巌を辞し去る時問いて日く、百年後忽ち人あり還て師の真を貌せしや、否と問はば如何が祇対せん。巌良久して日く、祇だ這れ這れ。師沈吟す。巌日く、价闍黎、箇事を承当することは大いに須べからく審細にすべし。師猶ほ疑に渉る。後に水を過ぎて影を見るに因りて前旨を大悟す。偈あり日く、切に忌む他に従いて覓むることを。迢迢として我れと疎なり。我れ今独り自ら往く、応に須らく恁麼に会して、方に如如に契うことを得ん。
洞山悟本大師は我が宗の始祖、汝今これを得たり、宜しくよく保護すべし、宝鏡三味は隔日毎に誦しています、まことなわが心銘とてこれに過ぎたるはなし、銀椀に雪を盛り、明月に鷺を蔵す、混ずる時んば処を知る、心異に非ざれば、来機また趣くと、宝鏡に臨んで影形あい見るが如しという、その水上を過ぎて影を見て大悟するまでに、かくの如く紆余曲折があったです。若くして南泉に食ってかかるなぞ、身のとやこうを顧みない天晴れ、まさにこうあって不惜身命、参禅は他になしというがほどに。無情の説法慧忠国師のこれ面白いです、だれか祖師の語録を見てユ-モアがあって面白いと云った、ユ-モアなんて毛ほどもないですよ、無情というんでしょう、人情人間の入る余地まったくないというんです、溪声山色花鳥風月さながらに、我が釈迦牟尼仏の声と姿と、君子たるもの即ち読書人だから、華厳経に云くとやる、眼で聞き耳で見る底は、わしだとて出家以前に知っていた、仏教のありようを見て、隔靴掻痒は洞山大師、余習ありと、汝曾て何をかなし来る、聖諦もまた為しえず、かえって歓喜すや、歓喜は無きにしもあらず、糞掃堆頭に一顆の明珠を拾うが如しと、たしかにこうあってどうにもこうにもの年月です。ぴったりはっきり行かないから、他に標準を求めるんです、墻壁瓦礫仏事をなしともてはこぶ、無情の説法我れ聞かずと追う、いきおい他の聞者を妨ぐべからずと返る、うるさったいこいつ、なんとしようば、百年後の師の真貌はと問う、ちらともありゃこんな質問です、否と云えばって、雲巌良久して、ただこれと、この事を承当するには須からく大いに審細にすべしと、もう一押しなんです、それがどうにもってことあります、相見せんと擬欲するとき如何、必死にこう問う人多いんです、通事舎人、面会を取り次ぐ側近侍者に聞けという、あっはっはこりゃ困る、見に問次す、だから周辺徘徊、でなんと云った。そりゃ答えているんですが、どうにも。あるときまったく手を引くんです、生死同じくなるんですか、切に忌中他に従いて求めることを、云うには他になく。自分終わるんです、影形あい見ているんです。さあこれ、どう云ってみてもてめえこっきりですよ、いえ曖昧なことなんかこれから先もないです。
微々たる幽識情執に非ず、平日伊をして説くこと熾然ならしむ。
微々という世間ではなにかしら残るありさまでしょう、これはまったくないんです、宝鏡に臨んであい見るんです、汝これかれに非ず、常識情堕に落ちず、洞山大師のありよう他のまったくうかがうこと不能です、老母師を尋ねて乞食をして経行往来す、我が子洞山に住むと聞いて、あい見んとするに方丈室を閉ざして入れず、老母恨みて愁死す、洞山行きて屍の持てる所の米粒三合あり、粥に和して炊いて一衆に供養す、母洞山の夢に告げて日く、よって我れ愛執の妄情断ちて、天上に生じたりと。
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第三十七章
http://tozanji.exblog.jp/3280965/
2006-01-01T00:00:00+09:00
2006-01-01T05:27:27+09:00
2005-12-25T22:51:30+09:00
tozanji
伝光録
第三十七祖雲巌無住大師、初め百丈に参侍すること二十年、後に薬山に参ず。
山問う、百丈更に何の法をか説く、師日く、百丈有る時上堂、大衆立定す、柱杖を以て一時に趁散す。また大衆と召す、衆首を回らす。丈日く、是れ甚麼ぞと。山日く、何ぞ早く恁麼に道はざる、今日子に因りて海兄を見ることを得たり。師言下に於て大悟す。
師小くして石門(石門山馬祖道一入寂の地)に出家す。百丈懐海禅師に参ずること二十年、因縁契はず、後に薬山に謁す。山問ふ、甚麼の処より来る。師日く、百丈より来る。山日く、百丈何の言句ありてか衆に示す。師日く、尋常日く、我に一句子あり百味具足すと。山日く、鹹は即ち鹹味、淡は即ち淡味、鹹ならず淡ならず是れ常味、作麼生か是れ百味具足底の句。師無対。山日く、目前の生死を奈何せん。師日く、目前に生死なし。山日く、百丈に在ること多少の時ぞ。師日く、二十年。山日く、二十年百丈に在りて俗気だも也た除かず。
他日侍立する次で、山又問ふ、百丈更に甚麼の法をか説く。師日く、有時道く、三句の外に省し去る、六句の外に会取せよと。山日く、三千里外、且喜すらくは没交渉。又問ふ、更に甚麼の法をか説く。師日く、有事上堂、乃至師言下に於て大悟す。
我に一句子あり、百味具足すと云えば、これを仏なりとて、吟味鑑賞する、二十年来なを俗気だも除かずと、目前の生死をいかんせんと云われて、生死を持ち出す、日く生死なしと。仏教として何かあると思って止まぬ、どうしてもこれを得て、なにかしらになろうとする、我が畢生の大事竟んぬとしたい、実は早に終わっている、どうしてもこれがわからない、手に入らんのです。三句の他に省し去れ、六句の外に会取せよと、必死にやってるんです、且喜すらくは没交渉と、一喝ぶっ飛ばされてなをかつですか、ついに知るんです、百丈大衆を鱈たらい回しの、これなんぞ。なんでそれを早く云わない、今日初めて海兄を知ると、もやもや首を突っ込んでいた、そういう自分にまったく用はなかったんです、な-んだというほどに、言下に於て大悟す。そうです、因縁時節とは云いながら、たとい雲巌無住大師これを得るとも、他の凡百何千ついに死ぬまで、てめえの糞袋に首を突っ込むきり、いったいこれをなんとしようぞ、生まれ変わってまた出て来いという以外にないか、次の世には必ずと。
孤舟棹ささず月明に進む、頭を回らせば古岸の蘋今だ揺がず。
孤舟棹ささずとは、二十年参じて薬山を問う雲巌大師ですか、月明とは仏ですか、古岸は百丈と、蘋伸び放題の草ですか、まことにこれ師弟の問答のありさまを見るようで、気がつくとなんと初めから大悟徹底です、面白いですね、この偈を読んで気に入らない人なんかいない、いい二連です、雲巌無住大師万歳。
画像の出典 玖延寺住職阿蔵葺心様和尚/2006年1月1日午前1時
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第三十六章
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2005-12-31T00:00:00+09:00
2006-01-01T03:25:13+09:00
2005-12-25T22:51:21+09:00
tozanji
伝光録
第三十六祖弘道大師、石頭に参じ問いて日く、三乗十二分教は某甲粗ぼ知る。
嘗て聞く、南方に直指人身見性成仏と、実に未だ明了ならず、伏して望むらくは和尚、慈悲もて指示せんことを。頭日く、恁麼もまた得ず、不恁麼もまた得ず。恁麼不恁麼総に得ず、子作麼生。」師措くこと罔し。頭日く、子が因縁此に在らず、且らく馬大師の処に往き去れ。師命を受けて馬祖を恭礼す。すなわち前問を陳ぶ。祖日く、我れ有時は伊をして揚眉瞬目せしめ、有時は揚眉瞬目せしめず、有時は揚眉瞬目する者是、有時は揚眉瞬目する者不是なり、子作麼生。師言下に於て大悟す。便ち作礼す。祖日く、汝甚麼の道理を見て便ち作礼するや。師日く、某甲石頭の処に在りて、蚊子の鉄牛に上るが如し。祖日く、汝既に是くの如し、善く自ら護持せよ、然りと雖も汝が師は石頭なり。
師諱は惟儼、年十七歳出家し納戒す、博く経論に通じ戒律を厳持す。一日自ら嘆じて日く、大丈夫まさに法を離れて自浄なるべし。誰か能く屑屑として細行を布巾に事とせんや。首め石頭の室に到る、便ち問う、三乗十二分教は某甲ほぼ知る、乃至、善く自ら護持せよと。侍奉すること三年、一日祖問いて日く、子近日見処作麼生。師日く、皮膚脱落し尽くして唯一真実のみあり。祖日く、子が所得謂いつべし。心体に協うて四肢に布けりと。既に然り、是の如く、まさに三条のベツ(三すじの竹の皮)もて肝皮を束取して、随所に住山し去れ。
某甲またこれ何人なれば、敢えて住山せよと云うぞ。祖日く、然らずんば、未だ常に往いて住せざること有らず、未だ常に住して行かざること有らず。益さんと欲すれども益す所なく、為さんと欲すれども為す所なし。宜しく舟航となりて、久しく此に住すること無かるべし。師乃ち祖を辞して石頭に返る。石頭問いて日く、汝這裏に在りて什麼をか作す。師日く、一切為さず。頭日く、恁麼ならば即ち閑坐せり。師日く、若し閑坐せば即ち為せり。頭日く、汝道う、為さずと、箇の甚麼をか為さざる。師日く、千聖も亦識らず。頭偈を以て讃して日く、従来共に住して名を知らず、任運に相い将いて只麼に行く、古え自り上賢猶を識らず、造次の凡流豈明らむ可けんや。後に石頭垂語して日く、言語動用没交渉、師日く、言語動用に非ざるも亦没交渉。頭日く、我が這裏針箚不入。師日く、我が這裏石上に花を栽ゆるが如し。頭之を然りとす。後にレイ州の薬山に住す。海州雲会す。
皮膚脱落しつくして真実のみありという、どうですか、先ずはそうなって後の仏教ですよ、でないとどうしても仏教を求めるんです、標準が他にある、他にあってなをかつおれはとやる、心体一如にして初めて仏です、彼岸に渡る知慧です、他にはないんです。でもって薬山惟儼出てけったって出て行かない、可笑しいんです、馬祖道一といっしょに暮らしていりゃあ世界ぜんたいです、益さんと欲すれども益す所なく、為さんと欲すれども為す所なく、こんこんと云われて、宜しく舟航となりて、久しく此に住することなかるべしと云われて、のこのこ石頭のもとへ返る。どうですか、我こそは歴史に一頁などけちなこと云わんのです、じゃ水や空気と同じではないかという、恁麼なれば即ち閑坐せりというに、若し閑坐せば即ち為せり、水や空気じゃない、まさにこれ仏、打てば響くんですよ。言語動用没交渉と云えば、言語動用に非ざるも亦没交渉。
我が這裏針の頭も入らんと云うに、石上に花を栽ゆるが如しと、就中秀逸です、これは師をしのぐ。海衆雲会す。そうですね、大丈夫まさに法を離れて自浄なるべし、たれかよく屑屑として細行を布巾せんやという、この心です、あたかも蚊子の鉄牛を噛むが如くと、かつてを顧みる人、いえまさにこれ。
平常活発発の那漢、喚びて揚眉瞬目の人と作す。
法によって自縄自縛を知り、ついにこれを破り去る、活発発地を知る、喚びて揚眉瞬目の人ですか、強いて云えばという、なんにもしない、一山の主になって出て行こうともしない、木偶の坊かというと、まさにこれ他の千倍し万倍する、なんというまあとんでもない人です、わずかに皮膚散じ尽くして真実という無自覚、もと生まれたまんまのこれが消息。
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